星の巡りよりも
小鬼族の街を出立してから、十数日の時が流れていた。
大森林の深部を抜け、少しずつ木々の密度が薄れ始めた開けた場所で、今日も闇人族の一団は野営の準備を進めている。一日中ギシギシと鳴り続けていた森駱牛が牽く幌台の車輪の音は止み、代わりにパチパチとはぜる焚き火の音が、夜の森に心地よく響いていた。
森の深部にいた頃よりも広く見えるようになった夜空には、翡翠と銀の二つの月が浮かんでいる。『月廻りの儀』の夜には完璧な円を描き、凄まじい光を放っていた二つの月。しかし、今はその輪郭が鋭く削り取られ、細く儚い三日月のような姿へと変貌していた。
エルザは焚き火のそばに座り、パチパチと跳ねる火の粉をぼんやりと見つめていた。その膝の上では、白い毛玉のように丸くなった白綿鳥の雛、ナーが、安心しきった様子でスゥスゥと寝息を立てている。
長旅の疲労は確かにある。しかし、それ以上に、一族という大所帯で囲む火の暖かさと、どこか気の抜けた穏やかな空気が、エルザの心を落ち着かせていた。
「すごい……。本に記されていた通りだ。あの三ツ星が、今の季節の正しい方角を指し示しているんだ」
少し離れた場所から、ウ=トトの感嘆の声が漏れ聞こえてきた。
彼は『知識の女神ヴィディヤ』に愛された銀色の双眸をキラキラと輝かせながら、天を仰いでいる。師であるラ=ボボから教わった知識と、木々が疎らになったことで広く見渡せるようになった『森の星空』を照らし合わせ、熱心に星の軌跡を追っているのだ。
「はいはい、熱心なのはいいけど、あんまり根を詰めないの。ボボ様みたいに眉間にシワ寄せてると、若いうちから老け込んじゃうよ?」
「グ、グエンさん! 僕はただ、星をこの目で確かめたくて……!」
お盆に温かい木の実の茶を乗せたグエンが、からかうように笑いながらウ=トトの隣に腰を下ろした。面倒見のいいエルザの姉弟子は、街の外の世界に触れて少し興奮気味の少年のよき話し相手になってくれている。
「でも、本当に美しいですね」
ウ=トトは茶の入った木杯を受け取り、湯気の向こうの星空を見上げた。
「星の巡りは変わらない。森の民は皆、この星の導きに従って季節ごとに森を巡り、森の循環が滞らないようにしているんだね」
ウ=トトの言葉に導かれるように、エルザが夜の森へと視線を向ける。
――その瞬間、彼女の瞳には、世界を満たすオドが鮮やかに映し出された。
森を潤すオドは、淡い光の帯となって夜の闇にゆらめいている。しかし、その清らかな光の河は、今自分たちが進んでいる道とは別の方角――本来あるべき正しい巡行路の方へと、吸い込まれるように流れていた。
星の導きに従い、あるべき場所へ、あるべき姿で。
ウ=トトの語った『循環としての役割』そのものの動きを見せるオドの光は、自分たちの足跡から遠ざかるように、暗い森の奥へと消えていく。
――その無邪気な言葉と、オドの流れに逆らっているという視覚的な現実が、エルザの胸の奥をチクリと、鋭く刺した。
(……っ)
膝の上のナーを撫でる手が、ピタリと止まる。自分たちは今、『正しい星の巡り』を大きく外れている。本来なら向かうはずのない森の境界――エルフの里へと、一族の行路を変更して進んでいるのだ。
すべては、『人間』である自分が、過去の真実を知るためだけに。
一族全体を自分のわがままに巻き込み、長旅を強いている。その強烈な罪悪感が、じわじわと冷たい泥のようにエルザの心を支配し始めた。
たまらず立ち上がったエルザは、眠るナーをそっと毛布で包み込むと、焚き火の輪から逃げるように歩き出した。
向かった先は、野営地の外れ。そこでは、恰幅の良いベテラン戦士のガランが、闇に目を光らせて見張り番に立っていた。
「ん? どうしたエルザ。こんなとこに来て」
気さくなガランは、エルザの姿を確認するなり、からかうように白い歯を見せて笑った。しかし、エルザは俯いたまま、ギュッと自分の服の裾を握りしめる。
「……ごめんなさい、ガランさん」
「あん? なんだ急に」
「私のわがままで……本来の行路を狂わせてしまって。私のせいで、みんなに無理をさせて……ごめんなさい……」
消え入りそうな声で謝罪するエルザ。すると、頭の上から「ぶはっ」と盛大な吹き出し笑いが降ってきた。
驚いて顔を上げると、ガランは腹を抱えて笑った後、大きな手でエルザの頭をガシガシと乱暴に、しかし愛情たっぷりに撫で回した。
「わっ……ちょっとガランさん!」
「なんだ、お前そんなこと気にしてたのか。いや、たしかに族長から頭を下げられた時は、俺たちも心底驚いたけどな」
「え……? 師匠が、頭を……?」
思いもよらない言葉に、エルザは目を丸くした。あの厳格で、誰よりも厳しい師匠が、頭を下げる姿など想像もつかなかった。
「ああ。月廻りの儀の翌日にな」
ガランは懐かしむように目を細め、夜の森を見つめた。
「あの族長が、俺たち全員を天幕に集めて、深く頭を下げて頼み込んだんだ。『どうか一度だけ、星の導きではなく、あの娘の未来のために道を違えてくれないか』ってな」
「師匠が、私のために……そこまで……」
「馬鹿野郎、お前は俺たちの可愛い娘だろうが」
ガランはドン、と優しくエルザの背中を叩いた。
「私たちはな、星の巡りより、家族を選んだんだよ。全員、納得してここを歩いてる。だからお前は、後ろめたさなんて捨てて、前だけ向いていればいいんだ、エルザ」
その真っ直ぐで力強い言葉に、エルザの視界が急速に滲んでいく。
「……ガランおじさん……」
「おじさん呼びはやめろ!」
「ほーら、水臭いこと言ってると、お姉ちゃん怒るよ?」
不意に、背後からギュッと温かい腕が伸びてきて、エルザの身体を包み込んだ。いつの間にか立っていたグエンが、エルザの肩に自分の頬をスリスリと擦り付けてくる。
「グエン……聞いてたの?」
「トトが『余計なことを言ったかもしれない』って、今にも泣きそうな顔してたからね。……抱え込まなくていいんだよ、私たちは家族なんだから」
「……うんっ、うん……!」
エルザの目から、安堵と、言葉に尽くせないほどの深い感謝の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
マナを持たない人間であっても、自分はこの闇人族の部族の大切な一員なのだ。その揺るぎない愛情が、冷え切っていた心を底から温めていく。
焚き火の暖かさと、家族の愛情。エルザはグエンの腕の中で涙を拭うと、木々がわずかに疎らになり始めた夜の森の先――外界との境界付近にあるエルフの里へと続く道を、真っ直ぐに見据えた。エルフの里で、どんな残酷な真実が待っていようとも。この家族が背中を押してくれている限り、絶対に逃げないと強く心に誓う。
見上げる夜空では、鋭く削り取られた翡翠と銀の二つの月が、絆を深めた一行の行く末を静かに、そして優しく照らし出していた。
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