出立の朝
二日続いた激しい豪雨は明け、ニザ大森林には抜けるような青空が広がっていた。
木々の葉からこぼれ落ちる雫が朝日にキラキラと反射し、森全体が神聖な光に包まれているかのようだ。エルザは家の前に立ち、雨の匂いが微かに残る、しっとりとした冷たい森の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「忘れ物はないな?」
背後からかけられたゼラの静かな声に、エルザは勢いよく振り返った。
「うん、完璧! いつでも出発できるよ!」
その元気な返事に、傍らに立っていたラ=ボボが目を細めてふっと笑う。長旅の身支度を整えたウ=トトが、少し緊張した面持ちで師の前に立っていた。
「いいかい、トト。書物で得た知識と、外で触れる現実は違う。学ぶことも大事だが……旅を楽しむことも、同じくらい重要だからね」
「はい、先生……!」
「それから。もしも旅の途中で、どうしても私に判断を仰ぎたいことがあれば、これを開きなさい」
ラ=ボボの手から手渡されたのは、厳重に蝋で封がされた一通の手紙だった。ウ=トトはそれを両手で大切に受け取ると、もう我慢できないというように、小柄な師の胸にぎゅっと飛び込んだ。
突然の抱擁に少しだけ目を丸くしたラ=ボボだったが、すぐに優しい顔つきになり、その小さな背中を力強く抱きしめ返す。
「無事、帰っておいで」
「……っ、はい! 行ってきます!」
鼻をすするウ=トトの頭を撫でてから、ラ=ボボはエルザの方へと向き直り、同じように温かい腕でエルザの身体を包み込んだ。紙とインク、そして古い木材の落ち着く匂いがふわりと香る。
「エルザ。寂しくなったら、いつでも思い出すんだよ。……この森は、あんたの帰る場所だからね」
「ボボ様……うん、ありがとう」
『ピィッ、ピィッ!』
エルザが涙を堪えて頷いたその時、二人の間に挟まれたエルザの胸元のポシェットから、元気な鳴き声が上がった。昨夜生まれたばかりの白綿鳥の雛――ナーだ。まるで自分も別れの挨拶をしているかのような可愛らしい声に、しんみりとしていた空気がふっと和らぐ。
「フフッ、ナーもボボ様に『行ってきます』って言ってるよ」
「そうかいそうかい。達者でな、小さきものよ。……ゼラ、頼んだよ」
「あぁ。任せておけ」
ゼラとラ=ボボは、大人同士の短い、けれど絶対的な信頼の籠もった視線を静かに交わした。
やがてゼラが歩き出し、エルザとトトもそれに続く。少年と少女は何度も何度も振り返り、家の前に立つ小鬼族の長の姿が見えなくなるまで、大きく手を振り続けた。
*
まだ水溜まりの残る道を抜け、三人は闇人族達が待つ街の入り口へと到着した。
そこには、嵐を乗り越えた闇人族たちが手際よく天幕を畳み、森駱牛が牽く大きな幌台へと次々と荷物を積み込んでいる、活気に満ちた光景が広がっていた。ふさふさとした長い毛並みと大きな身体を持つ頼もしい旅の相棒たちが、重い木組みの荷車を背負いながらも、出発の時を待ってブルルと低い鼻を鳴らしている。
「あっ、エルザー! 師匠! こっちこっち!」
幌台の影から、よく通る明るい声が響いた。大きく手を振りながら身軽な足取りで駆け寄ってきたのは、エルザの姉弟子である闇人族の少女、グエンだ。
彼女はエルザの顔を見るなりパッと表情を輝かせたが、すぐにその視線を、エルザの隣で緊張気味に立ち尽くしている小柄な少年へと移して目を丸くした。
「おはよう、エルザ。……って、あれ? そっちの子は?」
「おはよう、グエン! ええっとね、この子はウ=トト。ボボ様のお弟子さんで、今日から私たちに同行することになったの!」
エルザが元気よく紹介すると、ウ=トトは慌てて背筋を伸ばし、グエンに向かって深く一礼した。
「は、初めまして! ウ=トトと申します。皆様の足手まといにならないよう精一杯努めますので、どうかよろしくお願いいたします……!」
「アハハ、そんなに硬くならなくていいよ!」
あまりに律儀で大人びた挨拶に、グエンは一瞬きょとんとした後、弾けるように笑い出した。
「私はグエン。エルザの姉弟子で、これでも一応先輩巫女ってとこかな。街の外に出るのは初めて? わからないことがあったら何でも聞いてよね、トト!」
「は、はいっ! ありがとうございます、グエンさん!」
気さくに笑いかけ、目線を合わせてくれる陽気な姉弟子に、ウ=トトはホッと安堵の息を吐き、緊張で強張っていた銀色の瞳を和らげた。
「ゼラ。出立の準備、整いました」
そこへ、一人の闇人族が歩み寄り、ゼラに向かって恭しく頭を下げた。ゼラは一つ頷くと、闇人族の長として、そしてこの巡行の先導者として、集まった闇人族たちを静かに見渡した。
「……皆、嵐の中の警戒ご苦労だった。これより我々は予定していた行路を変更し、エルフの里へと向かう。長丁場になるが、気を引き締めていくぞ」
「「「はっ!」」」
闇人族達の力強い返事が、雨上がりの澄んだ空気に響き渡る。
ピーッ、と胸元のポシェットでナーが小さな鳴き声を上げ、エルザは新しい家族と、新しい仲間であるウ=トト、そして頼もしい姉弟子と顔を見合わせて微笑んだ。
森の奥から、境界近くのエルフの里へ。エルザたちの次の旅が、今、静かに幕を開けた。
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