帰る場所、向かう道
「グエン、またね!」
夕暮れに染まる広場の出口で、エルザは大きく手を振った。
「うん、また明日! 気をつけて帰るんだよー!」
茜色の光の中へ駆けていく姉弟子の背中が見えなくなるまで見送ると、エルザはくるりと踵を返し、ラ=ボボの家へと続く道に歩みを進めた。
まだ賑わいの収まらない広場から、小鬼族の長が住まう家まではそれほど距離はない。少しずつ冷たさを帯びてきた夕風に頬を撫でられながら、エルザは胸元の卵へ手を添える。
(あー、すっごく楽しかったな……)
香ばしい屋台の匂い、目移りするような品々、そして何より、他愛ないことでグエンと笑い合った賑やかな時間。手の中にある小さな包み――市場で見つけた甘い焼き菓子――の感触を確かめながら今日一日の出来事を反芻していると、自然と口元が綻んでしまう。
やがて、見慣れた太い丸太造りの木造家屋が見えてきた。暮れなずむ周囲の薄暗さに反して、分厚い窓枠からはオレンジ色の暖かな光がポツリと漏れ出ている。屋根の煙突からは、夕餉の支度だろうか、白い優しい煙が風に揺られながら細く立ち昇っていた。
その穏やかで生活感に溢れた景色を目にした途端、エルザの足取りは一層弾んだ。あの扉の向こうで待っているはずのゼラや、久しぶりに会うラ=ボボ、そして夕餉の支度をしているウ=トトの顔が次々と脳裏に浮かぶ。早くこのお土産を渡して、今日の楽しかった話を報告したかった。
エルザは小走りで玄関の前に立つと、分厚い木の扉を、トントン、と軽快にノックした。ほどなくして内側から重い蝶番の軋む音が響いた。
顔を出したのは、小柄で紙とインクの匂いを纏った小鬼族の長――ラ=ボボだ。手や顔にあるいくつもの皺は彼女が重ねてきた長い年月と知性を物語り、その双眸には『知識の女神ヴィディヤ』に愛された証である、透き通るような銀色の光が宿っている。
「ボボ様! お久しぶりです!」
懐かしい顔を見上げたエルザがパッと表情を輝かせると、ラ=ボボは目尻を下げて優しく微笑んだ。
「おかえり、エルザ。……外は冷えるだろう、さぁお入り」
促されて中に入ると、鼻先をくすぐる香辛料と温かいスープの匂いが、ふわりと全身を包み込んだ。見慣れた居間の光景。卓の奥ではゼラが静かに茶をすすり、調理場ではウ=トトが夕餉の支度へと忙しなく立ち働いている。
ただいま、と帰る場所があり、おかえり、と迎えてくれる人たちがいる。エルザは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。この何でもない、当たり前の日常の光景が、たまらないほど愛おしい。
「あっ、エルザさん! おかえりなさい!」
鍋をかき混ぜていたウ=トトが、エルザの姿に気づいて顔をほころばせた。
「もうすぐご飯ができますから、座って待っててくださいね!」
「ただいま、トト! ねぇ、これ市場で甘い焼き菓子を買ってきたの。お土産!」
「わぁ、ありがとうございます! じゃあ、食後に皆で温かいお茶と一緒にいただきましょう!」
トトが嬉しそうに提案するのに頷き、エルザは調理場近くの机にそっと菓子の包みを置いた。
そして、流れるような自然な動作で、ゼラの隣へと腰を下ろす。
「……市場は楽しかったか?」
湯呑みに口をつけたまま、ゼラが静かに尋ねた。その声色は、つい先ほどまで密談を交わしていた時の張り詰めたものとは打って変わり、いつもの穏やかな響きを取り戻している。
「うんっ! すっごく楽しかった!」
エルザは身を乗り出すようにして、市場での出来事や、グエンと交わした他愛のない会話について弾むような声で語り始めた。色鮮やかな反物を見たこと、いい匂いの串焼きを食べたこと。そして、大事に抱えている白綿鳥の卵を、交換品と間違えられてしまったという可笑しなハプニングまで。
エルザの話を聞きながら、向かいの席に腰を下ろしたラ=ボボが、興味深そうに目を細めた。
「ほう、白綿鳥の卵かい。こいつはまた、珍しいものを拾ったねぇ」
一通り顛末を語り終えたエルザに、ラ=ボボは慈しむような眼差しを向ける。
「この時期ならもう孵ってもおかしくないもんだけど……まぁ、滞在中には生まれるんじゃないかねえ」
「えっ! ど、どうしよう……」
「大丈夫さね。トトと一緒にお迎えの準備をおし」
「お待たせしましたー! できましたよー!」
そこへ、湯気を立てる大皿を抱えたトトがやってきた。卓の上にあたたかな料理が次々と並べられ、最後にトトもエプロンを外して席に着く。
ラ=ボボとウ=トトが合わせた両手を当て、食前の祈りを捧げる。
「知識の女神ヴィディヤの叡智と今日の糧に感謝を。――いただきます」
その祈りに合わせ、ゼラとエルザも静かに目を閉じて手を合わせ、同じように「いただきます」と声を揃えた。
卓の上には、色とりどりの森の恵みが所狭しと並べられている。主役は、鹿肉を香草と香辛料でじっくりと焼き上げた分厚いローストだ。ナイフを入れるたびに溢れ出す肉汁と脂の甘い香りが、たまらなく食欲を刺激する。
他にも、木の実や茸がたっぷり詰まったきつね色の栄養満点なキッシュ、とろけるほど柔らかく煮込まれた根菜の熱々スープ、そして、彩り豊かな葉野菜に甘酸っぱい果実のソースを絡めた鮮やかなサラダ。どれもこれも、一口食べるごとに生命力が身体の隅々まで染み渡っていくような、最高のご馳走だった。
部屋中に充満する美味しそうな匂いと、弾むような会話。エルザは満面の笑みで、その温かな夕餉を心ゆくまで堪能した。
*
ひとしきりの賑やかな団欒の後、古木の匂いが漂う家には再び静かな時間が降りてきていた。
溜まりきった汚れを落とすため、ラ=ボボは裏手の湯浴み場へと向かっている。調理場の方からは、食後の片付けをしてくれているウ=トトの立てる微かな水音が、心地よい生活音として響いていた。
広間の卓には、ゼラとエルザの二人だけが残されている。トトが淹れ直してくれた食後の温かい茶をすすりながら、ゼラはふと、静かな声で口を開いた。
「エルザ。出発は三日後だ。……次の目的地は、エルフの里にする」
「えっ……? エルフの里?」
唐突な告白に、エルザは目を丸くしてゼラを見つめた。
ニザ大森林を巡る闇人族の行路には、定められた順路がある。エルフの里は、その道のりから大きく外れた場所にあるはずだった。
「でも、そこはいつもの巡行路じゃないよね……? どうして急に?」
「少しでも、知りたいだろう」
ゼラのその真っ直ぐな言葉に、エルザはハッと息を呑んだ。
先日の月廻りの儀で目覚めた力。その力で視た、焼け落ちる王都。あの日からずっと、エルザの心の奥底には、澱のように重く晴れない靄が立ち込めていたのだ。自分ではうまく隠せているつもりだったが、長年育ててくれたゼラの目は誤魔化せなかったらしい。
「焦ることはないと言ったが、見えない靄を抱えたままでは、歩む道も決められまい」
「……」
「あの日の出来事を知る者は多くはない。フィンとファエルならば、お前が知りたがっている答えを持っているはずだ」
ゼラの瞳は、いつになく真剣で、どこまでも深く澄んでいた。エルザは膝の上で、ギュッと自分の服の裾を握りしめた。胸の奥が、ぎゅうっと痛いほどに締め付けられる。
自分の迷いや不安を、ゼラはとっくに見透かしていたのだ。そして、言葉にできないエルザの心残りを晴らすために、彼女は一族の巡行路を変更し、エルフの里へ向かうという大きな決断をしてくれた。
すべては、自分のために。
(ごめんなさい……。そして、ありがとう)
申し訳なさと、言葉に尽くせないほどの深い感謝。二つの感情が波のように押し寄せ、エルザはただコクリと、震える首を縦に振ることしかできなかった。
――その夜。
割り当てられた小さな部屋のベッドで、エルザは一人、窓から差し込む月明かりを見つめていた。その両手には、白綿鳥の卵が大切に包み込まれている。そっと撫でると、殻の向こう側で小さな命が微かに脈打っているような気がした。
ゼラが示してくれた、エルフの里への道。それは、自分の抱える靄を晴らすために、彼女が行路を変えて用意してくれた道だ。
(師匠……ありがとう。私、ちゃんと向き合うよ)
窓の外に広がる、大森林の夜空。だが、エルザの心の中には、確かな温もりと一筋の光が灯っていた。
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