燃える王都
――夜風が、焦げた血の匂いを運ぶ。
背後を振り返れば、双つの月が浮かぶ夜空の下、先ほどまで自分がいた王都が、天を焦がすほどの業火に包まれている。
「走れ……! もっと速く……!!」
血を吐きながらも手綱を握りしめ、レオナは荒野を駆け抜ける。
胸にしっかりと抱きかかえられているのは、厚い毛布に包まれた小さな赤子だ。
――――
豪奢な王宮の奥深く、夜の帳が下りた一室は、穏やかな寝息に満たされていた。
乳母であるレオナは、揺り籠の中で微睡む小さな命の背を、規則正しいリズムで優しくたたく。
「……寝付きましたか、レオナ」
「ええ、リアーナ様。今、ようやく」
声のした方へ振り返ると、この子の母であるリアーナが、柔らかい微笑みを浮かべて立っていた。
かつて旅の踊り子であった彼女の瞳は、王宮の誰とも違う。遠い祖先から受け継いだという『先祖返り』の瞳は、夜の闇を溶かしたように深く、神秘的な翡翠の煌めきを湛えていた。
リアーナは揺り籠を覗き込み、愛おしげにわが子の頬に指を触れる。レオナもまた、その神聖な絵画のような母子の姿に目を細め、ふたりは顔を見合わせて静かに微笑み合った。
――その、刹那だった。
ドゴォォォォンッ……!!!
鼓膜を破るような轟音が、王宮の分厚い石壁を激しく揺らした。
そして、地鳴りのような音と共に、王宮を包んでいた堅牢な結界が硝子のように砕け散る音が響く。
悲鳴、そして鋼と鋼がぶつかり合う凄惨な音が、廊下の奥から雪崩のように押し寄せてくる。
「何事ですかッ!?」
「レオナ、あの子を!」
床がひび割れるほどの振動の中、レオナは急いで揺り籠から赤子を抱き上げた。リアーナの寝所へ駆け込もうとしたその時、乱暴に扉が蹴り開かれる。
「母さん!!リアーナ様!ご無事ですか!?」
「おお……お前たち!」
血相を変えて飛び込んできたのは、鎧を血に染めた若き護衛騎士たち――レオナの誇る、ふたりの息子だった。荒い息を吐く彼らの剣からは、どす黒い血が滴っている。
「お逃げください……ッ!王宮が、城門が破られました!」
「敵は!?どこの軍勢ですか!」
「アゼニア帝国の軍勢です!手引きしたのは...宰相ラウルス家!」
「なんという……陛下は!?王妃殿下は無事なのですか!」
レオナの悲痛な問いに、息子たちは奥歯を噛みしめ、絶望的な首の振り方をした。
「お二方とも、すでに」
レオナは絶句し、膝が崩れ落ちる。王と王妃の崩御。そして、宰相の裏切り。それはすなわち、このローベント王国が今宵、歴史から姿を消すという決定的な事実だった。
絶望の叫びを上げそうになる彼女の隣で、しかし、リアーナだけは奇妙なほど静かだった。
「……知識の女神、ヴィディヤよ」
震える唇で祈りを紡ぐと、彼女は迷いのない足取りで書き物机へと向かった。
外から迫る死の足音を背に、羽ペンが羊皮紙を走るカリカリという音だけが、異様なほどの静謐さを保っている。知識の女神ヴィディヤへの篤い信奉者である彼女が、命を削るようにして手紙を書き上げた。
そして、傍らに用意されていた、真新しい毛布を手に取る。縁に美しい銀糸で『名前』が刺繍された、彼女の部族に伝わる手製の産着だ。
「レオナ」
リアーナは赤子をその毛布で包み、震えるレオナの腕へと力強く抱かせた。
「ニザ大森林へ向かいなさい。夜の女神タマスが愛する、あの森へ」
「私と、この子だけで……?リアーナ様もご一緒に!」
「私はここに残ります。この手紙が、必ずこの子を守る盾となるでしょう」
扉の向こうに、無数の軍靴の音が迫る。レオナの息子たちが覚悟を決め、剣を構えて扉の前に立った。
リアーナは赤子の額に、最後の、長く深い口付けを落とした。
「生きて。私の愛しい――」
彼女の紡いだ最後の『名前』は、爆発の轟音にかき消され、夜の闇へと溶けていった。
――――
嗚咽を噛み殺し、レオナは前を向いた。
炎の炎熱が届かないその先に、巨大な黒い壁がそびえ立っている。大陸の三分の一を飲み込む秘境、ニザ大森林。
かつてリアーナの侍女として外交に随伴した際、日中の大森林は木漏れ日が踊る美しい楽園だった。しかし、今は違う。太陽の恵みを失った夜の森は、どこまでも吸い込まれそうな底なしの闇だ。
境界の木立を抜け、森の領域へと踏み入った瞬間――。
ふわり、と。レオナは奇妙な感覚に襲われた。
風もないのに、幾千もの木々の葉が擦れ合い、ざわめきが波のように森の奥へと伝わっていく。まるで、巨大な闇そのものが、腕の中の赤ん坊の存在に気づき、息を呑んだかのように。
「ひひぃーんッ!」
その直後、唐突に馬が悲鳴を上げて前足から崩れ落ちた。王都から休むことなく駆け続けた限界と、暗闇に目が慣れない恐怖。泡を吹いて倒れ伏した馬体から、レオナは咄嗟に身を投げ出し、腕の中の赤子を庇って腐葉土の上を転がった。
全身の骨が軋むような痛みに顔を歪めながら、レオナは立ち上がる。
振り返っても、もはや木々に遮られて王都の炎は見えない。光は完全に絶たれた。鼓膜を打つのは、風に擦れる木々の音だけ。
「……行きましょう――」
レオナは震える足で、一歩、また一歩と、底知れぬ深い闇の奥へ向かって歩き出した――。
初作品になります。
拙い物語、文章ではありますが、良いと思ったらブックマークや感想が励みになりますので、よろしくお願いします!




