⑤嫉妬の残り香
翌朝――静かな光がカーテンの隙間から差し込み、部屋を淡く照らしていた。昨夜の雨は上がり、窓にはいくつもの水滴がガラス玉のように輝いていた。
グレイは枕元で伸びをしながら、ぼんやりと天井を見つめていた。
体の節々が痛い。
寝具が柔らかすぎるせいか、それとも――久しぶりだったせいか。
「……やっちまった」
かすれた声が、余韻の残った室内に溶けていく。記憶はところどころ飛んでいる。
だが、あの雨音の中で触れた温もりだけは、やけに鮮明に残っていた。
「……まあ、そういう契約なわけだし」
頭をかきながら立ち上がり、上着を羽織る。窓を開けると、朝の冷たい風が頬を撫でた。
――そのとき、背後からノックの音。
「──入れ」
今までとは違う声色が部屋に沈む。
ドアが静かに開き、メイドがいつものように朝食をトレーに載せて運んできた。
「閣下から伝言です。本日は朝の稽古が終わりましたら、食堂で昼食を共に、とのことです」
「……共に、ねぇ」
グレイは片眉を上げる。
どうやら昨夜の嫉妬は、まだ冷めていないらしい。
そう言うと、メイドは一歩だけ近づき、トレーに添えるように小さな封筒をそっと滑らせた。
その動作はあまりに自然で、気づかない者なら見落とすだろう。
だが、グレイは目を細めた。
「……わかった。行くって伝えておいてくれ」
短く返し、彼女が去るのを待ってから、グレイは静かに封筒を指先でつまみ上げた。
それから中の手紙を取り出して一瞥。ほんの短い報告だというのに、一瞬にして体の奥が冷えていく。
「……なるほどな」
低く漏れた声は、笑っているのか怒っているのか判別できない。
「――やっぱり権力者ってやつは嫌いだ」
紙が、くしゃりと音を立てる。
グレイはそれを無造作にポケットへ押し込み、深く息を吐く。
温かさの残るスープを啜れば、さっきまで胸の底に沈んでいたものが、少しだけ和らいだ気がした。
★★
屋敷の庭園。
陽光の中、笑い声が響いた。
「師匠、もう一回! もう一回!」
無邪気な声が庭に響き渡る。
木剣を握った少年が、銀髪の男に向かって突進した。
「おうおう、こいつは手強ぇぞ!」
片腕の傭兵――グレイが軽く腰を落とし、少年の攻撃をひらりと避ける。
すると、少年アレックスの木剣は空を切り、勢い余って転びそうになったところを、グレイの腕がすかさず支えた。
「っと。あぶねぇな、アレックス」
「グレイ師匠、ありがとう!」
「このぐらい朝飯前よ! この国で三番目くらいに強ぇからな」
「え、一番じゃないの?」
「一番は、公爵様だからな」
「この間は、叔父上より強いって言ったのにー!」
「あはは! そうだったな、じゃあ俺が一番だ! お前の師匠が国で一番強かったら、自慢できるもんな!」
アレックスが笑い、木剣を振り上げる。その笑顔に釣られて、グレイも目尻を下げた。
穏やかな声とともに、アレックスの頭をくしゃりと撫でる。陽気な日差しがふたりの間を照らし、笑い声が風に流れていった。
そのやり取りを、遠くのバルコニーから見下ろしている者がいた。
黒髪の青年――公爵レナード。
涼しい顔をしているようで、手すりを握る指先には微かな力がこもっている。
子どもの頃から誰に対しても冷静だった。
怒りも嫉妬も無縁だと思っていたのに、グレイが屋敷に来てからというもの、感情の制御がまるでできていない。
「公爵閣下、何か心配ごとでも……?」
傍らに控える侍従が小声で尋ねてくる。
「いえ、少し風に当たりたかっただけです」
そう言い残し、バルコニーを離れる。
(どうして、あんなふうに笑うんですか。……私には見せてくれないくせに)
気づけば、庭園の入り口に立っていた。
木陰で、アレックスがグレイの横に座り込み、談笑している。
そのとき、視界の端でグレイがこちらを見上げてきた。
「……おや、公爵様。朝っぱらからそんな顔してどうした?」
「何でもありません」
「また機嫌悪ぃな。何か嫌なことでもあったか?」
「いいえ。……貴方はずいぶんと楽しそうですね」
自分でも信じられないほど、子どもじみた台詞だった。
グレイが一瞬、目を瞬かせたあと、ふっと笑う。
「なんだよ、それ。拗ねてんのか?」
「拗ねてなど……いません」
「へぇ。じゃあなんだ、この眉の寄り方は」
「……見ないでください」
「ははっ! うちの公爵様は成長しても可愛いねぇ~」
次の瞬間、レナードは顔を逸らした。
頬が熱い、耳が熱い、何より胸の奥がぎゅっと締めつけられる。また子供扱いされたことが悔しくて、昨晩の出来事すら消えてしまいそうだ。
「……訓練場で、手合わせをお願いします」
「ん、今か?」
「ええ。手加減は不要です」
静かに言い残して歩き出す背に、「ったく……素直じゃねぇな」というグレイの苦笑が追いかけてきた。




