④嫉妬という名の夜
公爵邸に連れて来られて、一週間が過ぎた。
食堂で食事を共にしたのは、あの一度きり。それ以降、食事は毎回、部屋まで運ばれるのが当たり前になった。
皿の温かさと共に届くのは、スープの優しい匂い――だが、その向かいの席にレナードの姿はない。
使用人に尋ねても「閣下はお忙しく」と、言葉を濁されるばかりだった。
「……あいつの寝室、ここだって言ってたよな」
小さく呟き、ベッドの端に腰を下ろす。誰もいない部屋はやけに静かで、雨の前のように重く湿っていた。
避けられている――そう思うには、充分すぎる距離だった。
それでも、アレックスとの時間は増えていた。
剣術の稽古を終え、夕食を共にし、夜は眠るまでそばにいてくれと懇願される。甘えん坊で、素直で、どこか昔の彼を思い出させる。
だからこそ、余計に胸がざわついた。
あの少年を、レナードはどう見ているのだろう――と。
夜、いつの間にか外には雨が降っていた。
何気なく廊下に出ると、執務室の扉から灯りが漏れている。
「……公爵様、今日も寝てねぇのかよ」
小さくため息をつき、ノックもせずに扉を押し開けた。
机に向かう黒髪の青年が、わずかに眉をひそめる。灯の下、紙をめくる指の動きまで静かだ。
その沈黙が妙に癇に障って、グレイはわざと机に寄りかかった。
「なぁ、愛人契約のはずだったよな? 教育の雇用契約なんて結んだ覚えはねぇんだけど?」
「貴方の働きぶりには感謝しています。……あの子の教育係は全員、解雇しました」
「……あ、そ。まぁ、俺の知ったことじゃねぇけどな」
冷え切った応酬が続く。
けれど、そこにあるのは怒りではなく、罪悪感と焦りだった。アレックスの身体の傷を見たとき、胸の奥が凍ったのはグレイだけではない。
「兄上は家を継ぐために、まだ二十歳そこそこで父になりました」
「……ふーん、貴族の男ってのは大変だな」
グレイの呟きに、レナードの手がわずかに止まる。
彼にとって家とは、誇りのようで呪いのようなものなのかもしれない。そして今、その重圧を受け継いでいるのは――彼自身だ。
「……明日も早いようなので、部屋へ戻ったらどうですか」
声は低く、無機質だった。
ただ、どんなに隠そうとしても洞察力の優れた相手には見破れてしまう。
「ハッ。なんだよ公爵様、嫉妬か? 自分の愛人様が、アレックスと仲良くしてるのが気に入らねぇって?」
挑発気味の笑みを浮かべると、ペンの音が止まった。
レナードがゆっくりと顔を上げる。 深い青の瞳が、冷たく、そして確かに熱を帯びていた。
「貴方は……本当に、人を苛立たせる天才ですね」
「よく言われる」
グレイは笑い、レナードの机に腰を乗せた。
距離が近づくたび、蝋燭の光がふたりの影を重ねていく。
レナードの喉が小さく動き、胸の奥に押し込めていたものが形を持ちはじめる。
「けどまぁ、屋敷じゃ冷静沈着って言われてる公爵様が、顔真っ赤にして怒ってんのは、なかなか見物だな」
「……ッ、隊長……!」
肩書きを呼ぶ声が、二人の間にある空気を震わせた。
レナード自身も我に返ったようにハッとする。その唇が、戸惑うようにわずかに動く。しかし、言葉を取り繕おうとしても、もう遅い。
「公爵様が、そんな簡単に感情をさらけ出してもいいのかよ?」
「それは、貴方が……私を煽るから……!」
見上げてくる青が、激しさと苦悩で滲む。
その瞳の奥には、怒りでも羞恥でもなく、押し殺した情が燃えていた。
「私だって、我慢しているんです。……貴方の腕を見るたびに、胸が締めつけられる。貴方に触れる資格なんて──!」
「俺が勝手にやったことだ。おまえは何も悪くねぇ」
「それでも──」
言葉が途切れ、沈黙が落ちる。外の雨音が強くなり、まるで二人をこの部屋に閉じ込めるようだった。
レナードの手が、机の端をぎゅっと掴む。爪が白くなるほどに力がこもる。
けれど、グレイはゆっくりと顔を近づけた。
「つくづくお前も、馬鹿だなぁ……」
唇が触れる寸前、ふたりの呼吸が絡み合う。
レナードはわずかに首を振りかけて――しかし、抗わなかった。抗えなかった。
――唇が重なった。
触れた瞬間、雷鳴のような鼓動が胸を打つ。
机の上の書類が舞い上がり、蝋燭の火が激しく揺れる。短く、けれど深い口づけ。痛いほどの切なさと、長い年月の距離が混ざり合う。
唇を離したあと、グレイはレナードの頬に指を滑らせ、低く囁いた。
「ったく、締まりのねぇ顔して」
「……もう、黙ってください」
諭すような声だった。
けれど、抑えがきかなくなっているのは火を見るよりも明らか。グレイは自分の中に眠っていた感情を呼び起こされ、わずかに笑う。
「──グレイ」
低く名前を呼ばれて、笑みが止まる。
レナードの瞳が、柔らかく、どこか迷うように揺れていた。
「……何だよ」
「そう、呼んでも構いませんか?」
淡々とした口調。だが、耳がほんのり赤い。
グレイは苦笑して、そっとレナードの髪を撫でた。
「俺はもう、お前の隊長じゃねぇからな」
その手が髪を抜け、頬に触れる。
一瞬だけ、指先に伝わる温度が互いを確かめ合うように重なった。
「貴方は……本当に、人を惑わせるのが得意ですね」
「どーも」
「今の、褒めてませんよ」
軽口の余韻が、雨に溶けていく。
外の世界は冷え切っているのに、この部屋だけが息苦しいほどに熱かった。
夜はまだ長く、ふたりの間には、消えない熱が残っていた。




