③代理と正統後継者
「愛人契約」──それは、既婚者が配偶者以外の相手と継続的な関係を結び、代わりに金銭的援助を与える契約である。
貴族社会においては、いまや嗜みのひとつ。屋敷の書庫には、歴代公爵の名で交わされた愛人契約書がいくつも眠っているという。
「貴族様ってやつは、乱れてんねぇ~」
「……皆、貴方にだけは言われたくないと思いますよ」
豪奢な朝食の余韻を引きずったまま部屋に戻ったグレイは、ソファへ身を投げた。沈み込むほど柔らかなクッションが背中を包む。
カーテンの隙間からこぼれ込む光は淡く、部屋には花の香りが漂っていた。
それでも、この部屋の静けさは彼の神経を逆撫でした。
「……あー、疲れた。食っただけで気力使い果たしたわ」
仰向けに寝転がったまま、額の上に腕を置く。
そのとき、扉が音もなく開いた。何の知らせもなく入ってくるのは、レナードらしいと言えばらしい。手には空のグラスと水差し。整った顔に、淡い微笑が影のように揺れる。
「ついてくんなよ」
「一応、ここは私の寝室ですから」
その言葉に、グレイの口が開きかけて止まった。
「寝室」という単語が、やけに耳に残る。
「……マジか。お前、俺を監禁する気じゃねぇだろうな」
「監禁ではなく保護です。少なくとも書類上は」
さらりと返してくる、その声音が妙に腹立たしい。
グレイは苦虫を嚙み潰したような顔で、ぼそりと呟いた。
「愛人契約を結んでるって言ってもよ……。表向きは恋人同士、だっけ?」
「はい。未婚の私に《《愛人》》というのも不自然ですから」
「あ、そっか……じゃねぇよ! だったらどこかの令嬢でも捕まえて、契約結婚でも何でもすりゃよかっただろ!」
声を荒げるグレイに、レナードは肩をすくめる。
その動作は、無駄に美しかった。
「私が結婚すれば、目ざとい連中が放ってはおかないでしょう。それに「どこかの令嬢」を危険に晒すわけにはいきませんので」
「……俺はいいんかい」
「貴方を殺せるほどの手練れなら、私も覚悟を決めなければいけませんね」
それが冗談なのか本心なのか判断がつかず、グレイは返す言葉を失った。
代わりに、レナードがグラスへ水を注ぐ澄んだ音が部屋に落ちた。
「飲んでください。まだお酒が抜けきっていないでしょう」
「どーも」
上体を起こしてグラスを受け取り、一息で水を流し込む。
喉を潤すと、胃のむかむかも和らぐ。
「……それで、契約書の内容はご覧になりましたか?」
「まだ」
「そうだと思いました」
間髪入れず返すと、レナードは軽く嘆息した。それから書類の散らばったテーブルに視線を移し、椅子に腰を下ろす。紙を整えて書類に目を通す姿は、まるで公務に臨む役人のようだ。
グレイはそれを眺めながら、ふっと口の端を上げた。
――なんか、懐かしいな。
前線にいたときも、事務作業はレナードの仕事だった。グレイはそっと立ち上がり、その背後に忍び寄る。
「なぁ、レナード」
声をかけると同時に、その身体に後ろから抱きついた。こんなやり取りが日常茶飯事だった頃、世間知らずのレナードをからかうことが生き甲斐だった。
案の定、突然の接触にレナードの肩が小さく跳ねる。
「そうやって絡んでこないでください、隊ちょ──」
瞬間、空気が止まった。
レナード自身がハッとしたように息を呑む。それと同時に、グレイが盛大に吹き出した。
「あははっ、おもしれぇ! 公爵様が覚えていてくれて、グレイ隊長は感激ですぞぉ!」
「……わざとやりましたね」
「は? お前が勝手に口滑らせたんだろ」
レナードは耳まで赤く染め、口元を押さえた。視線を合わせまいとするように背を向け、整った呼吸を取り戻そうとする。その背に、わずかな震えが見えた。
グレイはそんな彼の背中をバシバシ叩き、片頬を吊り上げて笑う。
「いやぁ、変わりすぎて心配だったけど、中身は変わってなくて安心、安心!」
「痛っ、強く叩きすぎです!」
「んじゃ、ちょっと外に行ってくるわ」
安心できても、胸を締め付ける息苦しさはなくならなかった。
グレイが部屋から出て行こうとすると、「どこへ行くつもりですか」と淡々とした声が追いかけてくる。
「庭に散歩。息が詰まりそうなんでな」
レナードに向かってへらりと気の抜けた顔で笑いかけると、彼は拗ねた子供のように顔を背けた。
「問題は起こさないように、お願いします。……貴方の存在を快く思っていない人は多いので」
「はいはい、公爵様の仰せのままに~」
その素直じゃないところも、かすかな懐かしさが混じっていた。
五年前の戦場の記憶が、今も互いの胸に残っている。
――かつては主従だった二人が、今は契約という鎖で繋がれている。
その皮肉さに、グレイは鼻で笑った。
★★
ディアセント公爵邸は、まるで要塞のように荘厳だった。
高くそびえる外壁、精緻な彫刻を施された尖塔。石畳に反射する朝の陽光は冷たく、まるで権力そのものを形にした建物だ。
白い鳩が中庭を横切り、噴水の縁で羽を休める。
その穏やかな光景の中を、グレイは悠然と歩いていた。
すれ違う使用人たちは皆、小さく頭を下げながらも、視線を逸らすのが遅れる。囁き声が、石壁に反響して耳を刺した。
「……あれが、公爵様の愛人?」
「まさか、男だなんて」
「片腕の傭兵ですって。なぜ公爵様はあんな者を……」
冷笑が聞こえる。
どこの国でも、好奇心だけは変わらない。
屋敷の裏手──庭園に出ると、空気が少し柔らかくなった。香草の匂いと、剪定されたバラの甘い香りが混じる。
歩きながら、グレイの目は自然と屋敷の構造を追っていた。
――この屋敷は美しいが、隙が多い。
敵が狙うなら南の塀。あの茂みの裏からなら忍び込める。
思考が自然と戦場の目に戻っていることに、苦笑が漏れる。
そのとき、小さな嗚咽が聞こえた。植え込みの影に、ひとりの少年がうずくまっている。
黒髪に青い瞳──どこかレナードに似た面差し。
「おい坊主、どうした。腹でも痛ぇのか」
「……違う。剣の稽古が……上手くできなかったんだ」
しゃくり上げながら袖で涙を拭う少年。
小さな手には、赤く擦れた跡が残っていた。
「特別に教えてやろうか、坊ちゃん」
「でも……その、腕が……」
「片腕しかなくても俺は強ぇぞ? ここの公爵様よりな」
グレイが屈託のない笑みを浮かべると、少年が目を丸くする。
「……本当? でも、公爵様は誰よりも強くて、僕なんか全然……」
「おいおい、公爵様と坊ちゃんは他人じゃねーんだろ? 叔父さん──いや、《《叔父上》》って呼んでやれよ」
「でも……」
「ま、いいや。それより構えてみろ。見てやる」
少年は泣き腫らした目で剣を構えた。
両手の位置が高すぎる。重心が浮いている。
グレイは背後からそっと腕を添え、姿勢を直してやった。
「力を抜け。剣は、意味なく振り下ろすもんじゃねぇ」
無意識の内に、少年にかける声が自然と優しくなる。
「……うん、わかった!」
少年が目を輝かせる。
その瞬間、鋭い声が飛んだ。
「貴様、何をしている! その手を離せ!」
護衛騎士が駆け寄りながら剣を抜いた。
「ご子息様を誘拐する気か!?」
「いや、ちげーし」
剣が風を裂く。
グレイは肩をひねり、少年の木剣で刃を受け止めた。瞬間、護衛の剣が宙を舞い、地に落ちる。
「弱っ。剣もまともに握れてねぇのに、護衛騎士か」
一瞬の出来事。
護衛が呆然とする中、少年が歓声を上げた。
「おじさん、すごい! 本当に強いんだね!」
「だから言ったろ。腕が片方しかなくても俺は強いって」
「うん!」
「これからは俺のことは「グレイ師匠」って呼べ。それで、お前の名前は?」
「僕はアレックス! アレックス・フォン・ディアセントだよ、師匠!」
少年──アレックスの顔が光を受けて、まるで花が咲くように輝いた。
そのとき、低い声が響いた。
「……貴方は、何をしているんですか」
いつの間にか、レナードが庭の入口に立っていた。
陽光を背に、冷たい瞳がまっすぐ射抜く。
「何って、お前の可愛い甥っ子に剣術教えてやってたんだけど?」
「いいえ、当主様! この者がアレックス様を連れ去ろうとして──!」
「おいおい、誤解すんなよ。どー見ても俺は善良な傭兵だろ」
レナードの瞳が冷たく光る。
透きとおる青の奥に、微かな怒りが沈んでいた。声を荒げることも、顔を歪めることもない。ただ、その冷ややかな静寂そのものが、怒りよりも恐ろしかった。
「……この方の身は私が保証します。その子を連れて部屋に戻りなさい」
護衛が一歩前に出ようとしたとき、レナードが小さくため息をついた。冷たい声とは裏腹に、呆れのようなものが混じる。それでも視線を外さず、淡々と命じた。
その様子にアレックスの肩がびくりと震えた。
瞳が不安に揺れ、口を開きかけて──何も言えず、唇を噛む。
護衛が手を伸ばすのを見て、グレイの眉がわずかに動いた。
「……おい、公爵様」
レナードが静かに振り返る。
その視線を真正面から受け止め、グレイは口を開いた。
「なぁ、アレックス。この堅物の怖い叔父さんに言ってやれ。「今度からはグレイ師匠に剣術を習います」って」
グレイがレナードを指差すと、アレックスは戸惑いを見せながら二人を見比べた。
だが、胸の奥にはさっき教わった構え方の感覚が残っている。
恐怖に揺れる瞳が、ほんの少しだけ強く光った。
「お、叔父上……グレイ師匠から、剣術を習いたいです。どうか、お願いします!」
恐れを押し殺して絞り出した声。
アレックスの両手は胸の前で固く組まれていた。
指先が小刻みに震えていた。それでも、真っ直ぐにレナードを見上げる瞳だけは揺らがない。
長い沈黙のあと、彼は視線を逸らし、空を見上げた。
陽の光が肩に差し、黒髪を淡く照らす。
「……分かりました。明日から剣術の時間は、彼を向かわせることにします」
声は静かだった。
けれどその奥には、わずかな迷いと、言葉にできない何かが滲んでいた。
許したというより、折れた──そんな響きだった。
グレイは口の端を上げる。
ほんの一瞬、レナードの横顔に浮かんだ陰りが、どこか昔の少年の面影を思い出させた。
「昔の、剣の握り方すらろくに知らなかった誰かさんを思い出しただけだ」
「ですが、あの子にはしっかりした教育係をつけています」
「ハハ、よく言うぜ。下手に打ち込めば手首を痛めるような握り方を教える教育者なんざ、さっさとクビにしろ。それから、服に隠れた腕や足首、背中にも怪我があるはずだ。……ったく、爵位を譲るだけの相手でも、ガキの面倒ぐらい見てやれよ」
言い終えたあと、わずかな沈黙が落ちた。
噴水の水音だけが、遠くで絶え間なく響いている。
レナードの瞳がわずかに揺れる。それは怒りではなく、胸の奥に沈めてきた痛みの色だった。唇がかすかに動き、言葉を飲み込むように閉じられる。
ほんの一拍の間のあと、低く絞り出すように声が漏れた。
「──……貴方だって、私の元から勝手にいなくなったではありませんか」
その言葉に、グレイは目を見開く。不意に胸の奥が熱くなり、呼吸が詰まる。
目の前の男は、もうあのころの少年ではない。
それでも、その顔には昔と同じ寂しさが滲んでいた。
何かを言い返そうとしても、喉の奥が乾いて声にならない。
結局、グレイは黙って立ち尽くすしかなかった。
「助言、感謝いたします。……ですが、公爵家のことには、これ以上首を突っ込まないでください」
言葉とは裏腹に、レナードの声はかすかに震えていた。
背を向けて去っていくその後ろ姿に、グレイは首の後ろをかき、ため息をこぼした。
「……なんだよ、かっわいくねぇな」




