②冷徹な公爵と愛人契約書
怒鳴ったところで、状況が変わるわけではない。
グレイはシーツを乱暴に払いのけ、素足のまま床を踏みしめた。磨き抜かれた大理石が、ひやりと冷たい。部屋を歩くたび、広すぎる空間が自分の場違いさを突きつけてくる。
――どれも、自分には縁遠い。
「じゃあここは、坊ちゃんの屋敷か……」
「ええ。ディアセント公爵邸です。二年前に兄夫妻が亡くなり、今は代理として私が当主を務めています」
まるで何でもないことのように、レナードはティーカップを口に運んだ。
その仕草は優雅で、指先の動きすら隙がない。
五年前、泥まみれの少年兵だった彼が――いまや公爵家の主として堂々とここに君臨している。
メイドが新しい茶を運んできたときも、当然のようにソファへ腰を下ろしていた。
「当主で、公爵様ねぇ……。貴族様ってのは、出世が早ぇな」
「たまたまです。それに、先の戦争で功績を挙げて生きて戻れたのは、貴方のおかげではありませんか」
さらりと告げられて、グレイの喉が詰まった。
皮肉なのか本心なのか判別がつかない。しかし青い瞳は、昔よりも強い光を宿している。
どれだけ時間が経っても、あの戦場の記憶は消えない。
大地を染める血の匂い。火薬の煙。そして――庇った少年の怯えた顔。
――あの日、俺は片腕を置いてきた。
「……で、契約書ってのは冗談だよな?」
向かい合って腰を下ろし、半ば祈るように呟く。
しかしレナードはティーカップを置き、机の書類を軽く指で叩いた。
「どのような契約でも、本人が署名すれば成立します」
「だからってよぉ!」
「ご安心を。内容はごく単純です」
「単純って……」
「貴方は、レナード・フォン・ディアセントの専属愛人としてここに居住し、当面は私の保護下に置かれること。期限は十年。甥が成人し、公爵位を譲るまでです」
「どこが単純だ! 十年って長ぇわ!!」
「甥がまだ十歳ですから」
「知るかっ!」
立ち上がった弾みで食器が鳴り、銀のスプーンが床に転がった。澄んだ音が部屋に跳ね返る。
レナードは微動だにせず、静かに見上げてきた。
「命を救ってくださった貴方に、せめて安住の場所をと思いました。その体で、また危ない目に遭っているとも限りませんから」
「……勝手なこと言いやがって。余計なお世話だ」
吐き捨てる声がかすれる。
その瞬間、レナードの青い瞳がわずかに揺れ、一瞬だけ少年の面影がよぎった。
「では、言い換えましょうか? ──私の初めてを奪った貴方に、責任を取ってもらいたいと」
「ふほっ!? な、な……待っ、それは!」
「肝心なことは覚えていないようですね。……まぁ、いいです。これからゆっくり思い出していただきます。時間は、たっぷりありますから」
断言された言葉に、グレイは息をのんだ。
まるで心の奥を見透かされたようだ。どうしてこう、貴族ってやつはタチが悪いのか。
「では、着替えをご用意します。朝食にしましょう。それまでに他の契約内容へ目を通しておいてください」
差し出された契約書へ目を落とし、見る間に顔色が悪くなる。
「……おい、待て。これ、本当に契約書なのか?」
「ええ。魔塔で正式に認可された【魔法契約書】です。貴方は嫌というほど覚えがあるでしょう?」
逆に問われ、グレイは唇を噛んだ。
【魔法契約】――それは古くから上位階級が用いてきた法的拘束契約だ。
魔塔の管理下で署名と魂印を刻むことで効力を持つ。
誓いを破れば、魔力や生命力の一部が代償として奪われる。だからこそ軽々しく交わされることはない。
だが、その効力は王命すら凌ぐ。
『魔法契約で縛れる関係こそ、真実の約束』──とくに社交界では、そう言われてきた。
しかし、契約を解除できる方法が三つだけあった。
一つ、依頼料の倍額を支払い、解除の依頼を行う。
二つ、書類に明確な不備がある場合。
三つ、依頼主または契約者の死。
戦時中には、この性質を利用して軍でも導入されていた。――グレイはうんざりするほど、あの誓約書に署名してきた。同時に、多くの部下にも魂印を刻ませた。
死を迎えれば自然と半分に裂けていく契約書を、嫌というほど見てきた。
逃げ出して最悪の末路を迎えた者も、幾度となく。
「魔法契約なんざ、二度と関わるかと思ってたのに……」
契約書には確かに二人の署名と魔塔印の封蝋がある。淡い青の魔力が契約陣を縁取っていた。
呻くように言うと、レナードが薄く笑う。
「ご安心を。これは戦時契約ではありません。恋愛契約です」
「……俺、そんなもんにサインしたのか」
「貴方が泥酔していた間に」
「詐欺だろ!」
「大丈夫です。命を奪う契約ではありません。ただ、表向き恋人のふりでもしていただければ十分です。──逃げるなら、今のうちですよ」
穏やかな微笑の奥に、「逃げられるものなら」という圧がある。
外套を翻し、扉の向こうへ消える。
残されたグレイは、背中を見送りながら頭をかきむしった。
「……何なんだよ、ほんとに!」
テーブルの契約書を見つめる。
内容はこと細かく書かれていて読む気になれない。
苛立ちと、正体の知れないざらついた感情が胸でざわつく。
グレイは自分のサインを睨みつけ、小さく舌打ちした。
★★
王都の中心に建つディアセント公爵邸。
その一角、磨き上げられた床が光を反射し、白磁の食器が並ぶテーブルには絵画のような朝食が整然と並んでいた。
その中央、公爵レナード・フォン・ディアセントの右隣に、傭兵あがりの男――グレイが座らされていた。
空気はぴんと張りつめ、ナイフの刃先のように冷たい。
しかし使用人たちは完璧な礼儀を保ちながらも、視線だけが問いかけてくる。
──あの男が、噂の?
──まさか、本当にそういう関係なの?
囁きが、食器の触れ合う音の合間から聞こえてきそうだ。
「……おい、これは何の嫌がらせだ」
小声で呟くと、隣のレナードが微笑む。
その笑みは社交用だが、瞳だけが面白そうに光っている。
「嫌がらせ? 私の恋人を隣に座らせて、何か問題でも?」
「おまっ、恋人って……!」
その声音の軽さに、ナイフとフォークを握る手が止まる。
レナードの後ろに控えていた若い従者が、気まずそうに咳払いした。
「公爵閣下、本日の会議ですが――」
「先約ができたので、中止とだけ伝えてください」
「しかし、本日の会議は領地運営に関する……」
「私は代理として公爵位を預かっているだけです。それより、ようやく見つけた愛しい人を放ってはおけませんので」
淡々とした口調に、冷徹な響きが混じる。
従者は言いかけた言葉を呑み込み、静かに頭を下げた。
「……何が愛しい人だ。詐欺野郎め」
「相変わらず口が悪いですね。そこが貴方の魅力ですが」
「げほっ、げほっ!」
予想外の返しにグレイが咳き込む。
見かねたレナードがナプキンを差し出してきた。
「……人前で、そんなイカれたこと言うんじゃねぇ!」
声を荒げた瞬間、空気が凍る。
使用人たちの動きが一斉に止まった。
しかしレナードは微笑を崩さず、瞳の奥を楽しげに細めていた。
「貴方は変わりませんね」
「はぁ?」
「代理とはいえ、公爵家の当主となった私にそんな口をきけるのは、貴方ぐらいです」
穏やかな声の奥に潜む感情は――懐かしさ、安堵、そして渇望。
皮肉でも計算でもなく、本心からの言葉だと分かってしまう。
――クソ、やりづれぇ。
パンを千切って口へ押し込みながら、ぼそりと呟いた。
「……もういい。食事の邪魔すんな」
「他に食べたいものはありますか? 代わりに取りますよ」
「だったら、酒くれ」
「まだ酒が抜けていないでしょう」
呆れながらもレナードが頬を綻ばせる。
その笑顔に、グレイは目を逸らした。
どうしてこいつは、少し構ってやるだけでこんなに嬉しそうな顔をするんだ。
変わったのは外見や立場だけで――自分を見つめる眼差しだけは、五年前のままだった。




