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【BL】泥酔している間に愛人契約されていたんだが  作者: 暮田呉子


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3/7

②冷徹な公爵と愛人契約書

 怒鳴ったところで、状況が変わるわけではない。

 グレイはシーツを乱暴に払いのけ、素足のまま床を踏みしめた。磨き抜かれた大理石が、ひやりと冷たい。部屋を歩くたび、広すぎる空間が自分の場違いさを突きつけてくる。

 ――どれも、自分には縁遠い。


「じゃあここは、坊ちゃんの屋敷か……」

「ええ。ディアセント公爵邸です。二年前に兄夫妻が亡くなり、今は代理として私が当主を務めています」


 まるで何でもないことのように、レナードはティーカップを口に運んだ。

 その仕草は優雅で、指先の動きすら隙がない。

 五年前、泥まみれの少年兵だった彼が――いまや公爵家の主として堂々とここに君臨している。

 メイドが新しい茶を運んできたときも、当然のようにソファへ腰を下ろしていた。


「当主で、公爵様ねぇ……。貴族様ってのは、出世が早ぇな」

「たまたまです。それに、先の戦争で功績を挙げて生きて戻れたのは、貴方のおかげではありませんか」


 さらりと告げられて、グレイの喉が詰まった。

 皮肉なのか本心なのか判別がつかない。しかし青い瞳は、昔よりも強い光を宿している。

 どれだけ時間が経っても、あの戦場の記憶は消えない。

 大地を染める血の匂い。火薬の煙。そして――庇った少年の怯えた顔。

 ――あの日、俺は片腕を置いてきた。


「……で、契約書ってのは冗談だよな?」


 向かい合って腰を下ろし、半ば祈るように呟く。

 しかしレナードはティーカップを置き、机の書類を軽く指で叩いた。


「どのような契約でも、本人が署名すれば成立します」

「だからってよぉ!」

「ご安心を。内容はごく単純です」

「単純って……」

「貴方は、レナード・フォン・ディアセントの()()()()としてここに居住し、当面は私の保護下に置かれること。期限は十年。甥が成人し、公爵位を譲るまでです」

「どこが単純だ! 十年って長ぇわ!!」

「甥がまだ十歳ですから」

「知るかっ!」


 立ち上がった弾みで食器が鳴り、銀のスプーンが床に転がった。澄んだ音が部屋に跳ね返る。

 レナードは微動だにせず、静かに見上げてきた。


「命を救ってくださった貴方に、せめて安住の場所をと思いました。その体で、また危ない目に遭っているとも限りませんから」

「……勝手なこと言いやがって。余計なお世話だ」


 吐き捨てる声がかすれる。

 その瞬間、レナードの青い瞳がわずかに揺れ、一瞬だけ少年の面影がよぎった。


「では、言い換えましょうか? ──私の初めてを奪った貴方に、責任を取ってもらいたいと」

「ふほっ!? な、な……待っ、それは!」

「肝心なことは覚えていないようですね。……まぁ、いいです。これからゆっくり思い出していただきます。時間は、たっぷりありますから」


 断言された言葉に、グレイは息をのんだ。

 まるで心の奥を見透かされたようだ。どうしてこう、貴族ってやつはタチが悪いのか。


「では、着替えをご用意します。朝食にしましょう。それまでに他の契約内容へ目を通しておいてください」


 差し出された契約書へ目を落とし、見る間に顔色が悪くなる。


「……おい、待て。これ、本当に契約書なのか?」

「ええ。魔塔で正式に認可された【魔法契約書】です。貴方は嫌というほど覚えがあるでしょう?」


 逆に問われ、グレイは唇を噛んだ。


【魔法契約】――それは古くから上位階級が用いてきた法的拘束契約だ。

 魔塔の管理下で署名と魂印を刻むことで効力を持つ。

 誓いを破れば、魔力や生命力の一部が代償として奪われる。だからこそ軽々しく交わされることはない。

 だが、その効力は王命すら凌ぐ。

『魔法契約で縛れる関係こそ、真実の約束』──とくに社交界では、そう言われてきた。

 しかし、契約を解除できる方法が三つだけあった。


 一つ、依頼料の倍額を支払い、解除の依頼を行う。

 二つ、書類に明確な不備がある場合。

 三つ、依頼主または契約者の死。


 戦時中には、この性質を利用して軍でも導入されていた。――グレイはうんざりするほど、あの誓約書に署名してきた。同時に、多くの部下にも魂印を刻ませた。

 死を迎えれば自然と半分に裂けていく契約書を、嫌というほど見てきた。

 逃げ出して最悪の末路を迎えた者も、幾度となく。


「魔法契約なんざ、二度と関わるかと思ってたのに……」


 契約書には確かに二人の署名と魔塔印の封蝋がある。淡い青の魔力が契約陣を縁取っていた。

 呻くように言うと、レナードが薄く笑う。


「ご安心を。これは戦時契約ではありません。恋愛契約です」

「……俺、そんなもんにサインしたのか」

「貴方が泥酔していた間に」

「詐欺だろ!」

「大丈夫です。命を奪う契約ではありません。ただ、表向き恋人のふりでもしていただければ十分です。──逃げるなら、今のうちですよ」


 穏やかな微笑の奥に、「逃げられるものなら」という圧がある。

 外套を翻し、扉の向こうへ消える。

 残されたグレイは、背中を見送りながら頭をかきむしった。


「……何なんだよ、ほんとに!」


 テーブルの契約書を見つめる。

 内容はこと細かく書かれていて読む気になれない。

 苛立ちと、正体の知れないざらついた感情が胸でざわつく。

 グレイは自分のサインを睨みつけ、小さく舌打ちした。


★★


 王都の中心に建つディアセント公爵邸。

 その一角、磨き上げられた床が光を反射し、白磁の食器が並ぶテーブルには絵画のような朝食が整然と並んでいた。


 その中央、公爵レナード・フォン・ディアセントの右隣に、傭兵あがりの男――グレイが座らされていた。

 空気はぴんと張りつめ、ナイフの刃先のように冷たい。

 しかし使用人たちは完璧な礼儀を保ちながらも、視線だけが問いかけてくる。


 ──あの男が、噂の?

 ──まさか、本当に()()()()()()なの?


 囁きが、食器の触れ合う音の合間から聞こえてきそうだ。


「……おい、これは何の嫌がらせだ」


 小声で呟くと、隣のレナードが微笑む。

 その笑みは社交用だが、瞳だけが面白そうに光っている。


「嫌がらせ? 私の恋人を隣に座らせて、何か問題でも?」

「おまっ、恋人って……!」


 その声音の軽さに、ナイフとフォークを握る手が止まる。

 レナードの後ろに控えていた若い従者が、気まずそうに咳払いした。


「公爵閣下、本日の会議ですが――」

「先約ができたので、中止とだけ伝えてください」

「しかし、本日の会議は領地運営に関する……」

「私は代理として公爵位を預かっているだけです。それより、ようやく見つけた愛しい人を放ってはおけませんので」


 淡々とした口調に、冷徹な響きが混じる。

 従者は言いかけた言葉を呑み込み、静かに頭を下げた。


「……何が愛しい人だ。詐欺野郎め」

「相変わらず口が悪いですね。そこが貴方の魅力ですが」

「げほっ、げほっ!」


 予想外の返しにグレイが咳き込む。

 見かねたレナードがナプキンを差し出してきた。


「……人前で、そんなイカれたこと言うんじゃねぇ!」


 声を荒げた瞬間、空気が凍る。

 使用人たちの動きが一斉に止まった。

 しかしレナードは微笑を崩さず、瞳の奥を楽しげに細めていた。


「貴方は変わりませんね」

「はぁ?」

「代理とはいえ、公爵家の当主となった私にそんな口をきけるのは、貴方ぐらいです」


 穏やかな声の奥に潜む感情は――懐かしさ、安堵、そして渇望。

 皮肉でも計算でもなく、本心からの言葉だと分かってしまう。


 ――クソ、やりづれぇ。


 パンを千切って口へ押し込みながら、ぼそりと呟いた。


「……もういい。食事の邪魔すんな」

「他に食べたいものはありますか? 代わりに取りますよ」

「だったら、酒くれ」

「まだ酒が抜けていないでしょう」


 呆れながらもレナードが頬を綻ばせる。

 その笑顔に、グレイは目を逸らした。

 どうしてこいつは、少し構ってやるだけでこんなに嬉しそうな顔をするんだ。

 変わったのは外見や立場だけで――自分を見つめる眼差しだけは、五年前のままだった。


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