①泥酔の片腕傭兵
「お、おうぇえれれれれれ……」
夜の街に、情けない音が響いた。
軒並み酒場と娼館がひしめく歓楽街の裏路地で、男は派手に胃の中身をぶちまけていた。
吐瀉物とエールの臭いが入り混じる――自堕落な人間の末路。
酔い潰れた、その男――名は、グレイ。
月明かりに照らされた白銀の髪が鈍く輝き、琥珀色の瞳が虚ろに光る。
整った顔立ちに似合わぬ、ひどくやさぐれた姿。
元はとある辺境伯に仕える兵士だったが、今はただの傭兵。
「生きてるだけで儲けもの」と言いながら、昼は金で雇われて剣を振り、夜は安酒を胃に流し込む毎日だった。
「う、っぷ……飲みすぎた……」
情けない声を漏らし、そのまま薄汚れた石畳の上に崩れ落ちる。
吐き出すたび、目の前がぐるぐると回った。
冷たい夜風が、火照った頬を撫でていく。
──片腕はない。
空っぽの袖口を風が揺らすたび、失ったものを思い出す。
あの日、あの戦場で。
柄にもなく他人を庇い、斬り落とされた左腕。
けれど、今日も生きている。
誰にも縛られず、町から町へ転々としながら送る自堕落な日々。
それでも自由があった。それだけで、十分だった。
……はずだった。
「──こんなところにいたんですね」
静かな声に、ふらりと顔を上げる。
路地の向こうから、コツコツと上品な靴音が近づいてくる。
月光を背に、ひとりの青年が立っていた。
「あー……依頼なら明日にしてくれ……うっぷ、おうえぇぇぇぇーーー!」
傭兵の依頼だと思ったグレイは、右手をひらひらと振ったが、動いた拍子にまた込み上げてきた胃の中身を吐き出した。
最悪なことに、その汚物が男の上等な靴に引っかかる。
──次の瞬間、胸ぐらを掴まれていた。
「いいえ、今すぐお願いします。……こちらが貴方への依頼書です。サインを」
「おっぷ……はぁ? あんた、なにいって――」
懐から紙を取り出した男は、淡々とそれをグレイに突き出す。
今回の依頼人は、ずいぶんと横暴だ。
けれど、明日の宿代すら危ういグレイには、断る余裕などなかった。
ただ、薄暗い路地の片隅で、酔いが回った視界では、文字も模様もろくに見えやしない。
「にゃぁ、これ……どんな、ないよー……」
呂律の回らない口で文句を言う暇もなく、無理やりペンを握らされる。
酒でぼやけた意識の中、ざらついた羊皮紙に自分の名を書いた――気がした。
たぶん。
それが、契約の始まりを告げる、運命の一筆になった……。
★★
翌朝――。
まぶしい光とともに、まぶたがゆっくりと持ち上がる。
柔らかな感触。絹のように滑らかなシーツ。
鼻をくすぐるのは、微かな香。
グレイはしばらく、天井の彫刻をぼんやりと見つめていた。富や権威を象徴するような白漆喰に金の装飾──は、今も夢の中にいると勘違いしてしまいそうだ。
寝返りを打つと、敷布が波のように柔らかな音を立てる。
――ふかふかで、柔らけぇ。
こんな寝床、人生で一度も……と考えたところでグレイは舌打ちした。
それから注意深く上体を起こし、あたりを見回す。
窓際には金糸の縁取りが施された厚手のカーテン。壁には花の絵画と花瓶。磨き上げられた床の上には、織りの細かな絨毯。目に映るものすべてが、明らかに高級品ばかりだった。
「……てか、ここどこだ?」
反射的に口元に手を当て、昨夜の記憶をたぐる。
酒、路地裏、誰かの声──……。
腕を伸ばしかけて、そこで止まった。
空っぽの左袖。揺れた布の感触に、乾いた笑いが漏れる。冷めた頭が、ようやく現実を理解する。酒の匂いは消え、代わりに上品な香りが衣類から漂ってきた。
ここが、泊まっていた安宿ではないのは確かだ。
どう考えても、貴族の寝室。
――今度は一体、何をやらかしたんだ。
グレイはズキズキと痛む額を押さえ、低く唸った。
「ようやく目覚めましたか」
静かな声が、張りつめた空気をわずかに震わせた。
反射的に振り向くと、一人の男が立っていた。
夜の闇を閉じ込めたような黒髪が、光を受けるたびに青く艶めく。その下で、海の底を思わせる深い青の瞳がこちらを見据えている。
冷たくも、吸い込まれるように澄んだその色は、かつて戦場で見た少年の瞳とはまるで違っていた。
鼻筋は鋭く、頬の線は精悍に引き締まり、幼さの名残を微塵も感じさせない。
薄く結ばれた唇の端が、わずかに微笑むたびに――氷の彫像が人の温度を取り戻したような錯覚を覚える。
背は高く、無駄のない筋肉の線が衣服越しでも分かる。
その姿勢には一分の隙もなく、まるで剣そのもののように真っすぐで凛としていた。完璧な立ち姿に、無駄のない所作。貴族という言葉が、これほど似合う男もいない。
ただ――その容姿に、見覚えがあった。
けれど、記憶の中の少年と、この男は、あまりにも違っていた。
「……あんた、まさか」
グレイは息を呑んだ。
その男――レナード・フォン・ディアセント。
かつて戦場で命を賭けて守った、貴族の坊ちゃんだった。
「お久しぶりです。どうやら私のことは忘れていなかったようですね」
低く、落ち着いた声。
少年のあどけなさは跡形もなく、研ぎ澄まされた大人の男へと変わっていた。
――五年ぶりの再会。
遠い記憶が一瞬で蘇り、喉の奥が詰まる。
信じられずに固まるグレイを前に、レナードはゆっくりと距離を詰めてくる。
その一歩ごとに、靴音が磨かれた床に澄んで響いた。
「な、なんでお前が!?」
「ここが、私の屋敷だからです」
「──へっ!? じゃ、俺はなんで!?」
「昨晩、酔いつぶれた貴方を私が連れてきたんです。まさか王都にいらっしゃるとは思いませんでした」
「あの……俺、昨日何かしちゃった……?」
「ええ、私と契約を結びました」
「契約って……傭兵の依頼、ってことか?」
嫌な予感が背筋を這う。
レナードは不敵に微笑み、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
それを震える指で受け取り、目を凝らす。そこには、まるで酔っ払いの落書きのような署名が書かれていた。
「……俺の、サイン」
視線を上げた瞬間、タイトルの文字が目に飛び込む。
──《愛人契約書》。
「……」
「おはようございます、私の愛人殿。本日から宜しくお願いします」
レナードが優雅に微笑む。
その顔が、なぜかやけにまぶしく見えた。
頭の芯まで一瞬で覚める。……いや、色んな意味で。
「冗談じゃねぇ!!!!」
ベッドの上で、グレイの叫びがこだました。
一方、外の庭には穏やかな陽光が降り注ぎ、鳥の声がやけにのどかに響いていた。




