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【BL】泥酔している間に愛人契約されていたんだが  作者: 暮田呉子


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2/7

①泥酔の片腕傭兵

「お、おうぇえれれれれれ……」


 夜の街に、情けない音が響いた。

 軒並み酒場と娼館がひしめく歓楽街の裏路地で、男は派手に胃の中身をぶちまけていた。

 吐瀉物(としゃぶつ)とエールの臭いが入り混じる――自堕落な人間の末路。

 酔い潰れた、その男――名は、グレイ。

 月明かりに照らされた白銀の髪が鈍く輝き、琥珀色の瞳が虚ろに光る。

 整った顔立ちに似合わぬ、ひどくやさぐれた姿。

 元はとある辺境伯に仕える兵士だったが、今はただの傭兵。

「生きてるだけで儲けもの」と言いながら、昼は金で雇われて剣を振り、夜は安酒を胃に流し込む毎日だった。


「う、っぷ……飲みすぎた……」


 情けない声を漏らし、そのまま薄汚れた石畳の上に崩れ落ちる。

 吐き出すたび、目の前がぐるぐると回った。

 冷たい夜風が、火照った頬を撫でていく。

 ──片腕はない。

 空っぽの袖口を風が揺らすたび、失ったものを思い出す。

 あの日、あの戦場で。

 柄にもなく他人を庇い、斬り落とされた左腕。

 けれど、今日も生きている。

 誰にも縛られず、町から町へ転々としながら送る自堕落な日々。

 それでも自由があった。それだけで、十分だった。

 ……はずだった。


「──こんなところにいたんですね」


 静かな声に、ふらりと顔を上げる。

 路地の向こうから、コツコツと上品な靴音が近づいてくる。

 月光を背に、ひとりの青年が立っていた。


「あー……依頼なら明日にしてくれ……うっぷ、おうえぇぇぇぇーーー!」


 傭兵の依頼だと思ったグレイは、右手をひらひらと振ったが、動いた拍子にまた込み上げてきた胃の中身を吐き出した。

 最悪なことに、その汚物が男の上等な靴に引っかかる。

 ──次の瞬間、胸ぐらを掴まれていた。


「いいえ、今すぐお願いします。……こちらが貴方への依頼書です。サインを」

「おっぷ……はぁ? あんた、なにいって――」


 懐から紙を取り出した男は、淡々とそれをグレイに突き出す。

 今回の依頼人は、ずいぶんと横暴だ。

 けれど、明日の宿代すら危ういグレイには、断る余裕などなかった。

 ただ、薄暗い路地の片隅で、酔いが回った視界では、文字も模様もろくに見えやしない。


「にゃぁ、これ……どんな、ないよー……」


 呂律の回らない口で文句を言う暇もなく、無理やりペンを握らされる。

 酒でぼやけた意識の中、ざらついた羊皮紙に自分の名を書いた――気がした。

 たぶん。


 それが、契約の始まりを告げる、運命の一筆になった……。



★★


 翌朝――。

 まぶしい光とともに、まぶたがゆっくりと持ち上がる。

 柔らかな感触。絹のように滑らかなシーツ。

 鼻をくすぐるのは、微かな香。

 グレイはしばらく、天井の彫刻をぼんやりと見つめていた。富や権威を象徴するような白漆喰に金の装飾──は、今も夢の中にいると勘違いしてしまいそうだ。

 寝返りを打つと、敷布が波のように柔らかな音を立てる。

 ――ふかふかで、柔らけぇ。

 こんな寝床、人生で一度も……と考えたところでグレイは舌打ちした。

 それから注意深く上体を起こし、あたりを見回す。

 窓際には金糸の縁取りが施された厚手のカーテン。壁には花の絵画と花瓶。磨き上げられた床の上には、織りの細かな絨毯。目に映るものすべてが、明らかに高級品ばかりだった。


「……てか、ここどこだ?」


 反射的に口元に手を当て、昨夜の記憶をたぐる。

 酒、路地裏、誰かの声──……。

 腕を伸ばしかけて、そこで止まった。

 空っぽの左袖。揺れた布の感触に、乾いた笑いが漏れる。冷めた頭が、ようやく現実を理解する。酒の匂いは消え、代わりに上品な香りが衣類から漂ってきた。

 ここが、泊まっていた安宿ではないのは確かだ。

 どう考えても、貴族の寝室。

 ――今度は一体、何をやらかしたんだ。

 グレイはズキズキと痛む額を押さえ、低く唸った。


「ようやく目覚めましたか」


 静かな声が、張りつめた空気をわずかに震わせた。

 反射的に振り向くと、一人の男が立っていた。

 夜の闇を閉じ込めたような黒髪が、光を受けるたびに青く艶めく。その下で、海の底を思わせる深い青の瞳がこちらを見据えている。

 冷たくも、吸い込まれるように澄んだその色は、かつて戦場で見た少年の瞳とはまるで違っていた。

 鼻筋は鋭く、頬の線は精悍に引き締まり、幼さの名残を微塵も感じさせない。

 薄く結ばれた唇の端が、わずかに微笑むたびに――氷の彫像が人の温度を取り戻したような錯覚を覚える。

 背は高く、無駄のない筋肉の線が衣服越しでも分かる。

 その姿勢には一分の隙もなく、まるで剣そのもののように真っすぐで凛としていた。完璧な立ち姿に、無駄のない所作。貴族という言葉が、これほど似合う男もいない。

 ただ――その容姿に、見覚えがあった。

 けれど、記憶の中の少年と、この男は、あまりにも違っていた。


「……あんた、まさか」


 グレイは息を呑んだ。

 その男――レナード・フォン・ディアセント。

 かつて戦場で命を賭けて守った、貴族の坊ちゃんだった。


「お久しぶりです。どうやら私のことは忘れていなかったようですね」


 低く、落ち着いた声。

 少年のあどけなさは跡形もなく、研ぎ澄まされた大人の男へと変わっていた。

 ――五年ぶりの再会。

 遠い記憶が一瞬で蘇り、喉の奥が詰まる。

 信じられずに固まるグレイを前に、レナードはゆっくりと距離を詰めてくる。

 その一歩ごとに、靴音が磨かれた床に澄んで響いた。


「な、なんでお前が!?」

「ここが、私の屋敷だからです」

「──へっ!? じゃ、俺はなんで!?」

「昨晩、酔いつぶれた貴方を私が連れてきたんです。まさか王都にいらっしゃるとは思いませんでした」

「あの……俺、昨日何かしちゃった……?」

「ええ、私と()()を結びました」

「契約って……傭兵の依頼、ってことか?」


 嫌な予感が背筋を這う。

 レナードは不敵に微笑み、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。

 それを震える指で受け取り、目を凝らす。そこには、まるで酔っ払いの落書きのような署名が書かれていた。


「……俺の、サイン」


 視線を上げた瞬間、タイトルの文字が目に飛び込む。

 ──《愛人契約書》。


「……」

「おはようございます、()()()()殿()。本日から宜しくお願いします」


 レナードが優雅に微笑む。

 その顔が、なぜかやけにまぶしく見えた。

 頭の芯まで一瞬で覚める。……いや、色んな意味で。


「冗談じゃねぇ!!!!」


 ベッドの上で、グレイの叫びがこだました。

 一方、外の庭には穏やかな陽光が降り注ぎ、鳥の声がやけにのどかに響いていた。



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