〈ゲンジツ〉
篠原碧は彼に答える代りに畳の上に無造作に置かれた学校の鞄を見やった。バタついてそれを手繰り寄せ、中身を取り出す。教科書やペンケースが出てきた。鞄の口を下にひっくり返して上下に振った。落ちて来たものがあった。生徒手帳だった。それに恐る恐る手を伸ばし、開いた。そこには身分を示す文字と写真があった。写真には、彼の知っている塚本千宙その顔があった。しかし、生徒氏名を見て彼は絶句した。篠原碧。その文字があった。
「これって……」
彼は驚愕の表情であの篠原碧を見つめた。
「あなたの結奈瑞穂はもういない。いえ、最初からいなかった。彼女は塚本千宙という人物よ。そして、あなたは塚本千宙ではなく、篠原碧という人間。そういう〈ゲンジツ〉になったのよ」
「俺がしたのか?」
「そうよ。あなたがね」
千宙は、いやすでに碧に変わった彼は生徒手帳の名前と顔写真に食い入っている。
「俺はどうやって生きりゃ……」
「知らないわよ。そんなこと。これがあなたのした結果なら、あなたがどうにかするしかないでしょ」
「篠原は……元の篠原はどうした?」
「だから、それはあなたなのよ。あなたが知ってる篠原碧はどこにもいない。結奈瑞穂がどこにもいないようにね」
「今日はいつだ?」
「確かめたら」
着ている制服のズボンに手を突っ込んだ。いつも携帯を入れていたところだ。あった。以前使っていたのと同じ携帯だった。その日付の表示は、期末テスト最終日を表していた。
「なあ……」
「私からはもう何も言うことはないわ。ただこれは私の予想だにしないことをしでかしたサプライズに対するプレゼントよ」
そう言って、先程画面を見た物とは違うタブレットをテーブルに置いた。
「この現実にいる、〈ゲンジツ〉の塚本千宙の記憶を持つ篠原碧の設定やら個人情報が入っているわ。よく読んでおくことね」
立ち上がる、あの篠原碧に彼は訊かなければならないことが一つあった。
「瑞穂は、もう元気になったのか?」
あの篠原碧は重々しくため息をついてからこう答えた。
「さっき見た通りよ」
その言葉を残して、あの篠原碧は出て行った。旧塚本千宙は、タブレットの電源に指先を触れた。だが、それを鞄に仕舞った。教科書やらペンケースもそこに入れ直した。時間を見れば、また日程からすれば登校しなければならなかったからだ。
慌しくアパートから出て行った彼を、あの篠原碧は足を止め、振り返って見た。そして再び歩き出した。この一言を吐いて。
「設定は設定。好きに生きると良いわ。だって〈ゲンジツ〉のどこにも、篠原碧なんて人間はいなかったんだから」




