第66話 変わるもの、変わらないもの
覚悟しててください。ただの後輩だと舐めてると、痛い目見ますから——。
そんな宣言をされた翌日も、巧は香奈との関係を変えることはしなかった。
登校時、家に来たときこそ彼女は不安そうな表情を浮かべていたが、巧が家を出るときには異様なほどハイテンションになっていた。
下校時もそのテンションは継続しており、ボディタッチも増えているように感じられた。
しかし、逆に言えばそれだけだった。
(やっぱり、僕の考えすぎだったのかな?)
普段とそこまで変わらない香奈の様子に、巧はそんなことを考え始めていた。
——だから、その不意打ちに動揺してしまった。
「お邪魔しまーす!」
「っ……うん。どうぞどうぞ」
香奈が元気よく家に入ってきたとき、巧は思わず息を呑んだ。
私服に動揺したわけではない。
彼女は毎回、一度自分の家に帰ってシャワーを浴びてから凸してくるため、巧も私服姿自体には慣れていた。
しかし、今日の香奈はこれまでよりも露出の多い格好をしていた。
とはいえ胸元などが大胆に開いているわけではなく、いわゆるヘソ出しファッションだ。
こういう服装が好きなのだ、と言われればそれまでのラインではあるが、やはり美少女の引き締まった白いお腹と縦に細長いおへそ、そしてわずかに影を作っているくびれは、健全な男子高校生の巧にとっては刺激的だったし、官能的でもあった。
——昨日の宣言を受けた後では、なおさら。
「あっ、巧先輩。どうですかこの服? 最近一目惚れして買っちゃったんですけど、可愛くないですか?」
「う、うん、可愛いと思うよ。よく似合ってる」
「えへへ〜、ありがとうございます!」
香奈がはにかんだ。
他意はなさそうな無邪気な笑みだったため、巧も気にしないことにした。
香奈が「手洗わせてもらいますねー」と洗面所に入っていく。
巧は、服から見え隠れするなだらかな曲線を描いている腰からそっと視線を逸らした。
◇ ◇ ◇
「くぁ〜、全部終わったー……!」
約三時間後、香奈が噛みしめるようにそう言って、大きく体を伸ばした。数日を残して、夏休みの宿題をすべて終了させたのだ。
伸びをすればその分服も上に引っ張られるため、お腹の露出面積も増える。
「よく頑張ったね」
巧は冷凍庫を漁りつつ、ねぎらいの言葉をかけた。
香奈が肩を回しながら、にへらと笑った。
「巧先輩のおかげですよー。先輩とやると、嫌いな勉強も楽しくなっちゃうんですよね」
「それは良かった。はい、ご褒美」
「おー、バーゲンダッチ! いいんですか?」
しっかりとカップを受け取ってから、香奈が瞳を輝かせて尋ねてくる。
巧はサッとカップを奪い取った。
「やっぱりダメ」
「えっ——」
「嘘だよ」
一瞬で絶望に染まった香奈の顔を見て、巧は堪えきれずに吹き出しながらカップにスプーンを付けて返した。
「ひどいです先輩っ! ……でも、本当に私が食べちゃっていいんですか?」
香奈が窺うように尋ねてくる。
バーゲンダッチは学生が買うにしては少々高価なアイスだ。
「頑張ってたからね。特別だよ?」
「わーい! さすが先輩ですっ、ありがとうございます!」
「うん。喜んでもらえて良かった」
巧は自らもバーゲンダッチを食べ始めた。
「ん〜、やっぱり美味しいです!」
香奈が顔全体を使って、幸せであることを表現している。
アイスよりも先に彼女が溶けてしまいそうだ。
「やっぱりこれは格別だよね」
「ですねぇ。人の金で食うアイスは格別です」
「おい」
「嘘ですよー。巧先輩からいただく物ならなんでも格別ですから!」
香奈が無邪気に笑った。
「……へぇ、じゃあ今度しいたけメインの夕食に招待してあげるよ」
「くっ……い、いいでしょう」
「言ったね? あっ、そういえば香奈。今日はご両親遅いんでしょ? 早速今日しよっか」
「嘘ですごめんなさいしいたけだけはご勘弁を!」
この通りですっ、と香奈が腰を直角に折り曲げた。
「あはは。まあそれは冗談として、ウチで食べてく?」
「そうですね……あっ、巧先輩。今日中に処理しておきたい食材ってあります?」
「待ってね」
巧は冷蔵庫をのぞいた。
「いや、特にはないかな」
「じゃあ、今日はウチで一緒に食べません? 実は前に安売りしてたお肉を買いすぎちゃって、それが今日までなんですよ」
「僕はいいけど、ご両親のいない家に勝手にお邪魔するのは良くないんじゃない?」
「全然大丈夫ですよ。両親の許可は取ってありますから」
「そうなの?」
「はい。むしろ、ご馳走になった分はちゃんとお返ししなさいって注意されちゃいました」
香奈が舌を出しながら頭を掻いた。
「だから、ぶっちゃけ食べにきてくれるとワン石ツー鳥なんですよ」
「わんせきつうちょう……? あっ、一石二鳥か」
香奈が無言で席を立ち、玄関に向かっていく。
「香奈? どうしたの?」
巧の問いかけに答えず、彼女は玄関を出た。
——ピンポーン。
インターホンを鳴らし、何食わぬ顔で戻ってくる。
「インターホンって正解音じゃないから」
巧は呆れと感心を込めてツッコんだ。
あはは、と香奈が肩を揺らして笑った。
「まあ、そういうことならお邪魔させてもらうよ……あっ、でも待って。昨日の味噌汁余ってる」
「冷蔵庫に入れてたなら多分大丈夫でしょうけど、味噌汁は足が早いんですから気をつけてくださいね」
「大丈夫。味噌汁はボルトじゃないから」
「じゃーまーいっか」
巧と香奈は無言でハイタッチを交わした。
ちなみに、ボルトの国籍はジャマイカだ。
「息ぴったりですね私たち。一緒に出ましょうっ、R—1!」
「言うならM—1でしょ。なんで敵対しなきゃいけないの」
「巧先輩って、ツッコミスイッチ入ると語気強くなりますよね」
香奈がくつくつ笑った。
「うん。ちょっと血がたぎっちゃうんだ」
「そんなあなたにはこれですっ、強さ引き出す乳酸菌!」
「それヨーグルトのR—1のキャッチフレーズね。味噌汁飲む? あっ、でもアイス食べたばっかりだし、もう少し後でもいっか」
「そうですね。それより巧先輩」
「何?」
香奈が無言で巧の腕を取り、ソファーまで引っ張っていく。
自身が座った後、彼女は巧の腕をクイっと引っ張った。
(座れってことか)
この時点で、巧は何となく香奈の言いたいことを察した。
「私、いっぱい勉強して宿題を見事終わらせたわけじゃないですか」
「そうだね」
「もちろんバーゲンダッチもめっちゃ美味しかったですし嬉しかったですけど、もう少しご褒美があってもいいぐらいの大偉業じゃないですか」
「うーん」
「大偉業ですよね?」
「はい」
途方もない圧を感じ、巧は思わず敬語になってしまった。
「で、巧先輩はそのお手伝いをしてくれたわけじゃないですか」
「そうだね」
「ということは、私と巧先輩どっちにもご褒美が——あぁ、もう面倒くさいですっ、お願いします!」
「自分から始めたのに」
巧は笑いつつ、香奈の頭に手を乗せた。
これでいいのか、と聞く必要はなかった。
香奈は若干頬を染めつつ、目を閉じて口元もへにゃりと緩めていた。幸せオーラが溢れ出ていた。
「っ……」
思わず息を呑んでしまった巧は、彼女に悟られないようにそっと視線を外した。