第291話 謝るのは、僕のほうだよ
精神的な乱れがプレーに現れ始めている神楽を前に、巧が浮かべた笑みには、二つの意味が込められていた。
一つは作戦がうまくいっていることに対する達成感、そしてもう一つは自虐的なものだった。
(僕も二瓶さんや今泉さんのことを腹黒なんて言えないなぁ)
人の気持ち、それも自分への尊敬をダシにしているのだから、これを腹黒と言わずしてなんというのか。
自分が真のサポートのみに徹することで神楽が心を乱してくれるかどうかは賭けだったが、それは腹黒さを否定することにはならないだろう。
(西宮先輩頼みで攻略できればそれでよかったんだけど……さすがにそこまで甘くないか)
真が力不足、というわけではない。
個人の能力に頼りきりであるにも関わらず、まともな作戦として成り立っているのは真だからこそだ。戦術誰々、という言い方があるが、今の咲麗はまさに戦術・真である。
(当然、僕が何かしている可能性は考慮してるだろうけど、でも桐海の目線は西宮先輩に集まってるだろうし、僕自身が何かをすることはあまり考慮していないはず。だって、神楽君がマークについてるんだから)
巧がいくら策を巡らせても、単純な一対一では守備のスペシャリストである神楽を上回ることはできない。
完全に考慮していないわけではないだろうが、桐海は神楽が巧に遅れを取るとは思っていないだろう。
それは慢心でも身贔屓でもなく、動かしようのない現実だ。
——だからこそ、巧はそこに勝機を見出した。大きすぎる実力差を一瞬でもひっくり返すために、神楽の自分に対する尊敬の念を利用したのだ。
(舞台は整った。タイミングを間違えてもただこっちの意図がバレるだけだけど、早くしないと今泉さんあたりが神楽君の異変に気づいて、落ち着かせちゃうかもしれないしな……)
そこまで考えて、巧はもう仕掛けるしかないと決断した。
それが最大のチャンスがどうかなんてそのときにはわからないし、相手に今泉がいる以上、気長にチャンスを窺う余裕はないのだ。
だから、さりげなく味方に視線を送った。
次の攻撃で仕掛けます——と。
「——真!」
まず、それまでは安全第一にパスを供給していた飛鳥が、真に縦パスを差し込んだ。
それは、並の選手ならトラップミスをしてもおかしくないほど鋭く、少なくともボランチの選手に出していいパスではなかったが、受け手が真ならば例外だ。
彼は後ろからのボールを完璧にコントロールして一瞬で前を向くと、即座にドリブルを開始した。
「西宮が来るぞ!」
「他のやつらからも目を切るなよ!」
飛鳥のギャンブル性の高い楔のパスと真の卓越した技術で意表を突くことはできたが、それだけで崩れる脆弱な守備であれば、元より苦労はない。
ここからが、本当の勝負だ。
「真!」
「真さん!」
それまで囮の動きをしてサポートに徹していた水田や誠治が、一転してボールを引き出す動きを見せた。
「裏来るぞ!」
「集中しろ!」
桐海守備陣も、集中を切らすことなく彼らのマークについていく。
その瞬間、水田と誠治が裏に行く動きをキャンセルして、真に近寄った。
「なっ……!」
予想外の動きだったのだろう。水田のマークについていた桐海右サイドバックの江東のプレッシャーが、わずかに緩んだ。
真はその隙を見逃さず、水田にパスを出した。
水田はトラップで前を向いた。
しかし、仕掛けるそぶりだけを見せて、すぐにボールを返した。
擬似的なワンツーで、真はさらに桐海陣地の奥深くに侵入した。
「真さん!」
水田と同じタイミングで降りてきて足元でボールをもらおうとしていた誠治が、今度は再び桐海守備陣の背後へと走り出した。
彼はただ真っ直ぐゴールに向かうのではなく、左前に向かって斜めに動いた。
——その瞬間、真が大声を出した。
「巧、足元!」
水田と誠治を使ってワンツーで崩すのは方針として定めていたが、相手がある以上、動きの細部やフィニッシュの形は事前に決めていたわけではない。
合言葉なども設けていなかった。
それでも、巧はその言葉を聞いた瞬間、真が求めている動きを理解した。
(あの西宮先輩が、僕を名前で呼ぶことなどあり得ない。ということは——)
ゆっくりとポジションを上げていた巧は、名前を呼ばれた瞬間、切り返して真に近づくそぶりを見せた。
真とのワンツー後にそのまま駆け上がっていた水田に、チラッと視線を向けた。
「させませんごめんなさい!」
巧は真からのパスを水田に展開すると読んだ神楽は、真からのパスをカットすべく素早く反応した。
その判断は、決して間違ってはいなかった。水田のマークの江東が翻弄されたことで、桐海は水田への対応に困難を強いられていた。
通れば、確実に咲麗のチャンスにはなっただろう。
だからこそ、巧はそれを囮として使ったのだ。
「——謝るのは、僕のほうだよ」
神楽が動き出した瞬間、いや、そのコンマ数秒前に、巧は再び切り返して裏へと飛び出していた。
「なっ……⁉︎」
神楽は、久しぶりの巧との読み合いが発生したことで、鬱憤を晴らすように勇み足でボールをカットしようとしていた。
そして、巧が飛び出すスペースを埋めていたはずの桐海の守備陣は、斜めに動いた誠治に釣り出されていた。
そんな状況で、真から走っている速度を緩めない正確なパスが入れば、いくら個人の能力に劣る巧でも、フリーになることは可能だった。
「打たすか!」
一点目が頭をよぎったのか、キーパーが素早く距離を詰めてきた。
巧はその頭上を越すように、ボールを浮かせた。
「ループだと⁉︎」
「いや、でもこれは——外れるぞ!」
そんな淡い期待が桐海陣営に広がった刹那、
「おらああああ!」
巧のためにスペースを作っていた誠治が、雄叫びを上げながら地面を滑った。
そのつま先はバウンドするボールを確実に捉え、軌道を変えてゴールへと押し込んだ。
「「「——わああああ!」」」
国立競技場全体が、地鳴りのような歓声に揺れた。
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