第272話 それが全てです
増渕のいる霧影高校も、地方の予選を勝ち抜いて選手権本戦への出場権を獲得したことは、巧も知っていた。
しかし、まさかこんなタイミングで出会うことになるとは思っていなかった。
「君は元気そうだね」
巧が務めて冷静に返すと、増渕は勝ち誇ったように頬を吊り上げた。
「ハッ、皮肉のつもりか? そりゃ、俺がピンピンしてるの見たら、悔しくて皮肉の一つでも言いたくなるよなぁ。けどなぁ、如月。同じタイミングで怪我をして俺だけ治ってお前はまだ完治してねえってのが、つまりはそういうことなんだよ!」
増渕は高笑いした。
「っ……」
巧も人の子だ。苛立ちはしたが、ここで揉め事を起こせば、咲麗高校としての問題になりかねない。
チームへの迷惑を考えて黙っていると、それを白旗宣言とでも受け取ったのか、増渕はますます笑みを深めた。
「にしても、まだ治ってねぇお前なんぞをメンバー入りさせるとか、咲麗も大したことなさそうだなぁ。俺らと当たる前に負けんじゃねーの? 治ったとて使い物になるかもわかんねえお前を入れたのは失敗だってネットニュースは何本も上がってるし、エックスにも散々書き込まれてるぜ? お前はいらねえって」
「——それがどうしたっていうんですか」
巧が口を開くより先に、低く抑えられた声が割り込んだ。
トイレから戻ってきた香奈が、巧を庇うように増渕の前に立ち塞がり、憎悪の眼差しを向けた。
「あっ? な、なんだよお前!」
増渕は無駄に大きな声を出した。声は震えていた。
背中しか見えていない巧でも、香奈がどれだけ怒っているのかは伝わってきて、静止のタイミングを見失ってしまった。
彼女は増渕を睨みつけたまま、地の底に響くような声で続けた。
「ネットでいくらアンチが湧いていようと、その人たちは巧先輩の普段の姿を知りませんし、そもそもサッカーに精通している人がどうかもわかりません。そんなあやふやな意見に耳を貸す必要がどこにあるんですか? 巧先輩と毎日練習をしている監督が、チームメイトが、怪我をしている状態でもメンバーに入れる価値があると判断した。それが全てです」
「ハッ! き、如月っ、お前はどうやら取り入ることに才能の全てを持ってかれちまったみてえだなぁ! その女をたぶらかしたみてーに、監督にもゴマすってメンバーに入れてもらったんだろ? 咲麗も腐ってんなぁ。やっぱり俺らと当たる前に負けねーか心配だぜ」
反論をしたのは香奈だというのに、増渕は巧を指差して嘲笑を浮かべた。
無視を続けてもいいのだろうが、そうしていると香奈がヒートアップしてしまいそうだし、何より彼女に守られたままというのは男のプライドが許さない。
「何の根拠も——」
「——香奈」
巧は言い返そうとする香奈の肩を叩いた。うなずきかけると、意図を察してくれたようで、不満の色を残しつつも下がってくれた。
巧は小さく息を吐いた。香奈が代わりに怒ってくれたおかげで、荒れていた心はいくぶん収まっていた。
「心配をしてくれるのは嬉しいけど、僕らに目を向けてる暇はないんじゃない? 一回戦に勝っても、桐海とやらなきゃいけないんでしょ」
「はっ、桐海なんて余裕だっつーの!」
少しプライドをくすぐるように話題を逸らしてやれば、増渕はすぐに乗ってきた。
このまま話題を逸らして適当なところでさよならしよう——。
そう考えていた巧の視界に、意外な人物が映り込んだ。
あまりにもタイミングが良すぎて、出番をうかがっていたのかと勘繰りたくなるほどだ。実際には今し方歩いてきたところなので、それはないが。
増渕は背後から近づいてくるその人物に気づくことなく、得意げに舌を回し続けた。
「今季はたまたま調子良かったみてえだが、ここ二年の戦績は俺らのほうが勝ち越してるんだからよ。俺らが桐海なんぞに負けるはずねーだろうが!」
「——ほう、それはええ情報聞かせてもろたなぁ」
「……はっ?」
突然背中越しに声をかけられ、増渕は動揺を見せた。
振り返り、彼は絶句した。
「い、今泉……!」
そう。三人に近づいてきていたのは、桐海高校キャプテンの今泉だった。
後ずさった増渕は今泉に敵意のこもった視線を向けたが、メガネをかけた少年は全く動揺を見せず、わざとらしい口調でしゃべり出した。
「まあ確かに、去年の霧影は強かったなぁ。君が出てたかはちょっと記憶にないねんけど」
「なっ……!」
「君が出てる試合はワシらの一勝一分って認識で合っとるか? あんまり存在感がないから、正確には覚えてなくて申し訳ないけどな」
「なっ、なんだと……!」
今泉のわかりやすい挑発に、増渕の顔は瞬く間に真っ赤に染まった。
「ちょ、調子乗んなよ! 審判の笛に救われただけのくせに!」
「そうだったんか? ちゅーことは、ウチが二回オフサイドでゴールを取り消されて、一回ペナ内でのハンドを見逃された試合は君たちとじゃなかったんやな。すまんのう、記憶が曖昧で」
「なっ、なっ……!」
増渕の顔がますます赤くなっていく。血管が切れるのではと心配になるほどだ。
しかし、胡散臭い笑みを浮かべる今泉が発するプレッシャーに気圧されているのか、一歩も動けないでいるようだ。
ちなみに、今泉の記憶は正しい。桐海は増渕たちの高校——霧影高校との試合で、二つのゴールと一つのPKを見逃されており、ネット上でも話題を呼んでいた。
さらに、引き分けに終わったその試合では、今泉を含む複数の主力メンバーが出場していなかった。
彼らが出場した二試合目では六対〇の大勝を収めているため、実力差は歴然だ。
対戦する場合、油断さえしなければまず間違いなく桐海が勝つだろう。
そもそも霧影高校がプレミアリーグにいたのは、昨年に引退した世代の力によるものだ。
それまではずっとプリンスリーグの一部と二部を行き来していて、黄金世代が台頭した昨季にプレミアリーグに昇格するものの、彼らが抜けた今季は最下位でプレミアリーグから降格したという歴史が、雄弁にそれを物語っているだろう。
「ま、こんなところで口論しても仕方ないわな」
今泉から発せられていたプレッシャーがスッと消えた。
思わずといった様子で詰めていた息を吐き出す増渕に近づき、微笑みかける。
「君たちが一回戦に勝てばどのみち当たるんや。まずは明日、頑張ってな」
「ふ、ふざけんな! 余裕ぶっこいてられんのも今のうちだぞ!」
増渕は額に青筋を浮かべながら今泉に指を突きつけた後、逃げるようにその場を去っていった。
「あんなテンプレートな捨て台詞、本当に使う人いたんですね……」
「「「ぷっ」」」
思わずといった様子で漏らした香奈の感想に、巧と今泉、それにたまたま通りかかった見物人たちは一斉に吹き出した。
巧は早々に笑いを引っ込め、今泉に頭を下げた。
「ありがとうございます、今泉さん。助かりました」
「ありがとうございました」
香奈も頭を下げる。
今泉は気にするなとでもいうように、手をひらひらさせた。
「何、ワシはただ自分たちが馬鹿にされたから、ちょっと言い返してやっただけや。それよりあいつ、巧君を怪我させたやつやろ?」
「はい」
巧がうなずくと、今泉の顔から一瞬だけ胡散臭い笑顔が消えた。
「今泉さん——」
「大丈夫や」
巧が硬い声で名前を呼ぶと、今泉はそれまでの作り物じみたものとは違う、苦笑いのようなものを浮かべた。
「俺らは、君んとこのワガママ王子君ほど短気やないからな」
増渕が巧を削った直後、真が即座に増渕にタックルをしたことを言っているのだろう。
「それに、ああいうタイプには同じ手法でやり返しても意味ないからな。もし当たるなら普通にボコすわ。あんなネットの誰が書いたかもわからんしょうもない記事を真顔で引用するやつなんかに負けたら、引退したくてもできんからな。すまんけど、巧君たちが直接やり返すチャンスはないで」
「ぜひそうしてください。桐海とのほうがやりたいですし」
それは巧の本心だった。増渕に負の感情を抱いていないと言ったら嘘になるが、復讐心よりも彼のような選手とは二度と試合をしたくないという思いのほうが強かった。
宣戦布告とも取れる巧の言葉に、今泉も好戦的な笑みで応じた。
「せやなぁ。そのためにはちゃんと治しておけよ。西宮もだいぶ変わったらしいけど、やっぱり巧君いる咲麗にリベンジしたいからな」
「恐縮です」
「後輩力高いなぁ、君」
今泉はおかしそうに笑った後、興味深そうな視線を香奈に向けた。
「ところで、そっちの子は咲麗のべっぴんマネージャーさんやろ? なんや、二人は付き合っとるんか?」
「はい」
巧が間髪入れずにうなずくと、今泉が例の胡散臭い笑みを浮かべた。
「そうやったか。なら、今のうちにウチの選手たちに教えとかんとな。準決勝当日にわかったら、みんな嫉妬で巧君のことを削ってしまうかもしれん」
「っ……!」
「アメリカの映画みたいなブラックジョークですね」
思わずと言った様子で今泉を睨みつけた香奈の背に触れながら、巧は苦笑した。
今泉のメガネの奥の瞳が光る。
「ウチをもう一回倒すつもりなら、ワシの性格の悪さは知っといたほうがええて」
「プレーや先程のやり取りを見ていればわかりますよ。それに、ウチにも二軍のキャプテンに似たような人がいるので。密かに腹黒メガネって呼ばれてる人なんですけど」
「あっはっは。巧君も結構いい性格しとるなぁ」
巧の意趣返しに、今泉は楽しげに肩を揺らした。
笑顔のまま、手を差し出してきた。
「ほな、今度はピッチで語れるようにお互い頑張ろうや」
「はい」
ガッチリと握手を交わした後、巧と香奈は観客席に戻った。
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