第268話 香奈の不安と巧の告白
シたいですか——。
太ももに手を置いた恋人にそう問われて意味を聞き返すほど、巧は鈍感でもデリカシーがないわけでもなかった。
「もちろんシたいよ」
「っ……」
巧は迷いなく言い切ると、香奈は小さく息を吸い込んだ。覚悟を決めるように、唇をキュッと引き結んだ。
巧が怪我をして以来、一度も体を重ねていない。緊張しているのだろう。
わずかに潤んでいるその瞳を見つめて、巧は続けた。
「でも、僕の怪我が治るまでは——選手権が終わるまでは、これまで通りお預けにしよう」
「っ……そ、そうですよね! 何があるかわからないし、欲に溺れて万が一怪我が悪化したら馬鹿みたいですもんね!」
香奈があはは、と渇いた笑い声をあげた。
気丈に振る舞ってはいるが、巧は数ヶ月もの間、彼女と半同棲生活のようなものを続けてきたのだ。作り笑顔であることはすぐにわかった。
「——香奈」
巧は強引に香奈を抱き寄せた。
ビクッと肩を震わせた彼女の瞳を覗きんで、尋ねる。
「不安?」
「っ……」
今度は香奈が黙って視線を逸らす番だった。
巧が見つめ続けると、観念したように話し出した。
「……しょうがないのはわかってるんです。でも、レスだったり相性だったりが原因で別れちゃった子の話とかも耳に入ってくるし、これまでの頻度を考えると、どうしてもこんなに長い期間が空くと不安になっちゃって……巧先輩だって我慢をしてくれてるんだって、頭ではわかっているんですけど」
ごめんなさい、と消え入りそうな声で香奈は言った。
「謝らないで。香奈の気持ちはよくわかるよ。だって、僕も不安だから」
「えっ……?」
香奈が勢いよく顔を上げた。かすれた声でつぶやいた。
「巧先輩も?」
「うん。今だって香奈から切り出してくれたにも関わらず、僕の都合で断ったわけだし。せっかく勇気を出してくれたのに、ごめんね」
「そ、そんなっ、巧先輩が謝ることじゃないですよ! 先輩の考えのほうが合理的なのは明らかですし、もうちょっと我慢すればいいだけですから!」
勢いよく言った後、香奈は眉を下げてうつむいた。
「でも、頭ではわかってる一方で、先輩の冷静すぎるところにちょっと不満も覚えちゃうんです。面倒くさいのは自覚してるんですけど、なんでいつもそんなに理屈で物事を考えられるんだろうって」
「……そういうことだったんだ」
巧は何度もうなずいた。
抱いていた疑問が、ようやく腑に落ちたのだ。
確かに長らく一夜を共にしていないが、それには正当な理由もあるし、手や口による愛撫はお互いにしている。
本番行為がないだけで何をそんなに不安になっているのだろうと思っていた。
(でも、その考え自体が間違っていた。香奈はもっと本質を見ていたんだ)
交わらないこと自体ではなく、自分との関係は理性で抑え込めてしまうほどのものでしかないのか。ひいては巧から彼女に対する想いはその程度のものなのか——。
そう不満に思っているのだ。
彼女は以前にも、もっと欲に忠実になってほしいと言っていた。
理性では抑え切れないほど求めることが愛の大きさを示す一つの指標になるというのが、彼女の信念の中の一つなのかもしれない。
巧にも十分に理解はできた。
よほど非常識なシチュエーションでない限りは、香奈が理性を抑えきれずに求めてきてくれたら嬉しいだろう。
本音を言えば、巧だって今すぐ香奈をめちゃくちゃにしたい。
だが、元来理屈で物事を考えてしまう彼に、最悪の可能性を無視することはできなかった。
一度タカが外れてしまえば、知らずのうちに怪我を悪化させるリスクがある。
巧にとって、サッカーは香奈と同じくらい大切なものだ。蔑ろにすることなどできないし、何よりそんなことになれば、香奈の心も傷つけてしまうことにもなる。
(香奈は繊細だから、きっとすごく後悔して落ち込むよね。僕も選手権に出れなくなるのは嫌だし、今ここで欲望に身を委ねるって選択肢はない)
香奈もそのことはわかっているはずだ。
しかし同時に、理屈ではなく感情の問題である以上、言葉だけで安心させることは難しいだろう。
あと二週間ほど我慢してから、彼女の制止も無視して思う存分欲望を発散すればいいのかもしれないが、その方法にもリスクは潜んでいる。
香奈が不満を覚えているのならなるべく早く解消しておきたいし、そもそも巧は彼女が思っているほど理性的ではなかった。そのことを証明するエピソードもあった。
(でも、さすがにあれは話したくないな。香奈なら受け入れてはくれそうだけど、恥ずかしすぎるし……)
巧は頭を悩ませた。ふと、視線を落とした。
腕の中に収まっている香奈は、今にも泣きそうな表情で、不安そうに彼を見上げていた。
——その瞬間、巧の脳内会議は満場一致で可決した。
「香奈」
「は、はい」
「確かに僕は香奈よりも理屈で色々考えがちだけど、決して欲望を完璧に抑えられてるわけじゃないよ」
「えっ——」
香奈は言葉を失った後、探るように言った。
「えっと……もしかして、毎晩私が帰ってからAV見まくってるとか?」
「ううん、そういうのじゃないけど」
「けど?」
巧は小さく息を吸い込んだ。
「……あのさ、ちょっと気持ち悪い話をしてもいいかな。できれば引かないでもらえると嬉しいんだけど」
そんな前口上を述べてしまうほど不安だった。
香奈は瞳を丸くさせた後、小首をかしげてふんわりと微笑んだ。
「巧先輩が私のことを想って話してくれるんでしょう? だったら私が引くはずありません」
「……そっか」
「そうです」
香奈が力強くうなずいた。
お互いに座り直し、居住いを正す。巧は大きく深呼吸をしてから、切り出した。
「僕……今日の朝方に夢精したんだよね」
「……へっ?」
香奈がポカンと口を開けて固まった。
「夢精ってあの……寝てる間に出ちゃうっていうやつ、ですか?」
「うん。溜まってたからなのか、その、夢で香奈とシてて、それで……」
巧の視線がだんだんと下がっていった。
恥ずかしいやら申し訳ないやらで、とても香奈の顔など見れたものではなかった。
「なるほど。だから珍しく朝に洗濯物を回してたんですね。もしかして、洗濯し忘れてたって嘘だったんですか?」
「うん。夜にちゃんと洗濯してたんだけど……パンツとパジャマだけだとバレると思って、全部洗い直した」
「そうだったんですか……」
香奈から言葉を選んでいるような気配が伝わってきた。
「……ごめん」
巧は頭を下げた。唇を噛みしめた。
「やっぱり気持ち悪いよね、こんな話」
「——だったら、その話を聞いて嬉しいと思ってしまった私も仲間ですね」
「……えっ?」
巧は思わず顔を上げた。香奈がはにかむように笑っていた。
「う、嬉しい?」
「はい。だって、それだけ私のことを考えてくれてたってことでしょう? そんなの嬉しいに決まってるじゃないですか」
「……本当に?」
「本当の本当です。誤魔化そうとしてもう一回まとめて全部洗っちゃうのもかわいいし、むしろ好感度爆上がりですよ!」
「そっか、軽蔑されてないんだ……よかった〜……」
巧はホッと胸を撫で下ろした。
香奈が笑いながら頬を突いてくる。
「浮気したり風俗に行ったり公共の場所で痴漢プレイしようとか言い出さない限り、私が先輩を軽蔑することはありませんから安心してください」
「それなら大丈夫だね」
「はい! それと、私のためにそんな話をありがとうございます!」
香奈がにぱっと白い歯を覗かせた。混じりっ気のない、無邪気な笑顔だった。
(夢精した話をして感謝される日が来るとは思わなかったなぁ)
巧が内心で苦笑していると、不意に頭を抱き寄せられた。
顔に柔らかい感触が押し付けられた。頭上から香奈の声が降ってくる。
「安心しました。理性で全部抑え込めちゃうくらいのものなのかなって、私だけこんな悶々としてるのかなって、ちょっと心配だったので」
「そんなわけないじゃん。こんな魅力的なものが目の前にあるのに平然としていられるほど、僕は聖人じゃないよ」
「んっ……」
巧が服の上から膨らみを手のひらで包むと、香奈が鼻から抜けるような声を出した。
我慢できずにシャツの中に手を入れた。
徐々に力を強くしていく。
香奈の息が荒くなってきたところで、下着の間から指を差し込んだ。
「あっ!」
固くなっている頂点に指を這わせると、香奈は一際甲高い声をあげた。
巧がクスっと笑みを漏らすと、彼女は目元を潤ませながら睨んできた。
「もうっ……聖人どころか性人じゃないですか」
「上手いこと言うじゃん」
「んんっ……!」
ご褒美とばかりに巧が下腹部にも指を這わせると、香奈は手の甲で口を塞いでくぐもった嬌声を漏らした。
約束通り、本番は行わなかった。
しかしその分、どちらも執拗に相手を責めた。疲れては攻守交代を繰り返した。守という概念はもはや存在せず、ノーガードで責め合う時間帯もあった。
満足するころには、どちらもクタクタになっていた。
一緒にお風呂に入ったが、さすがに軽いスキンシップ以外は行わなかった。
香奈はパジャマ代わりに巧のシャツを着て、その上にアウターを羽織った。
家に帰るためだ。
「今日もありがとう。おやすみ、香奈」
「こちらこそです。おやすみなさい——あっ」
玄関の扉に手を伸ばした香奈が、何かを思い出したように小さな声をあげて振り向いた。
「これでしばらくは安心して寝られますね」
「うるさいよ」
巧は脳天にチョップを落とした。
「いてっ。もう、暴力変態ですよ?」
香奈がおかしそうにクスクス笑った。
「……まあ、いいんだけどさ」
巧は苦笑した。
恋人が楽しそうにしているだけで全てを許してしまうのだから、男とは単純なものである。
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