第259話 彼女が何やら不満そうです
朝練の開始時間が迫っていたため、志保からの謝罪が終わると、冬美は一足先にグラウンドに向かった。
巧は怪我を悪化させないよう、慎重に移動した。一昨日は襲撃されて病院に行っている暇などなかったため、昨日診察をしてもらい、松葉杖は外れていた。
寄り添うように香奈が付き添っている。
巧の一歩一歩に細心の注意を払いながらも、どこか不満そうにぷくっと頬を膨らませている。
「香奈、どうしたの?」
「別に。どうもしてませんけど」
「そんなムスッとした表情で言われても説得力ないよ」
巧が小さく笑うと、香奈は気まずそうに視線を逸らし、唇を尖らせた。
「青山先輩を許したこと?」
巧が顔を覗き込むと、香奈はふるふると首を振った。
「いえ……彼女はちゃんと反省しているようでしたし、育ってきた環境も過酷だったので、然るべき処罰は受けたって納得してます。それに、京極さんも腐った上層部と板挟みの中で奮闘してくれていると思いますし、選手権の出場が一番大事なのは私たちも同じなので、理事会の判断に従うのは正しいと思います。ただ……なんか、もう少し巧先輩への補償みたいなのがあってもいいんじゃないかなーって、ちょっとそう思っただけです」
巧は自然と笑みを浮かべていた。
香奈はすねたような目つきで、上目遣いに彼を睨むように見つめた。
「……なんで、ちょっと嬉しそうなんですか」
「そりゃ、香奈が僕のために怒ってくれてるのなんか嬉しいに決まってるじゃん」
巧が頬に手を添えて微笑みかけると、香奈はついっとそっぽを向いた。
唇をキュッと尖らせて抗議の形を作るも、サラサラの赤髪から覗く耳元はほんのりピンクに染まっている。
巧は愛おしげに瞳を細めてそのスベスベとした頬を撫でながら、続けた。
「香奈が僕のことを想ってくれているってだけで、お釣りが来るくらい嬉しいよ。だから心配しないで」
「っ……! もう、これだから巧先輩っていう人はっ……」
香奈は大袈裟にため息を吐きながら、手のひらで額を軽く叩くような仕草を見せた。
「嫌い?」
巧が笑いながら尋ねると、香奈は瞳を伏せた。
潤んだ瞳で恥じらうように彼を見上げて、小声で囁くように言った。
「好きに決まってるじゃないですか……ばか」
「っ〜!」
巧は息を呑んだ。
すっかり耐性はついたと思っていたが、香奈の破壊力は易々と彼の防御を上回った。
「っ……」
頬を染めて固まる彼を見て、香奈もさらに赤面した。指先で前髪をクルクルと弄びながら視線を泳がせた。
「じ、自分で仕掛けておいて恥ずかしがらないでくださいよ」
「ご、ごめん。じゃあ行こっか」
「はい——あっ、巧先輩」
「ん?」
振り向いた巧の頬に、柔らかい感触が押し当てられた。一瞬遅れて、甘い匂いがふわっと彼の鼻腔をくすぐった。
「えっ——」
「悪い子には、お仕置きです」
香奈が頬を赤らめつつビシッと指を突きつけ、小さく舌を出してウインクした。
「っ……!」
巧は言葉を失いつつ、初めて怪我をしていることに感謝していた。
もしも足が自由に動いたなら、不純異性交遊を働いたとして退学になっていたかもしれない。
京極から広川と内村が退部したことを告げられ、部内には当然驚きが広がった。
しかし、それ以上に部員が驚いたのは、数日ぶりに部活に顔を出した真の変化だった。
彼は黙々とサボった分の罰走をこなしていた。
初めて見るその姿自体にも、これまで彼が罰走を課せられるようなサボりやミスをしてこなかったという事実にも、多くの部員たちは衝撃を受けていた。
しかし、一部の選手に関しては、意外そうにはしつつもさして驚いてはいなかった。
冬美は片付けの時間になっても走り続けている真を見ながら、そのうちの一人である誠治に話しかけた。
「驚かないのね、西宮先輩のああいう姿を見ても」
「まーな。なんとなく、ただの王子様じゃねーなって感じはしてたんだよ。素直すぎるっつーか」
「典型的な小物にしては、ひねくれてなかったよね」
巧も話に加わった。
彼に付き添っていた香奈が、吐き捨てるように、
「要は、ただのガキだったってことですよ」
「そうだね」
巧はうなずいて、どこかイタズラっぽい笑みを浮かべながら続けた。
「誰かに失礼だけど、久東さんに甘やかされて育ったせいで、すごいわがままで自信過剰になった誠治みたいな感じだよね」
「私に甘やかされて、という部分はいるのかしら?」
冬美がじっとりと巧を睨んだ。
「そもそも、誠治の保護者になったつもりもないのだけれど」
「俺だってなられたつもりはねーよ——いてぇ⁉︎」
誠治が冬美からの理不尽な制裁を受けて悲鳴を上げる中、香奈が真剣な表情で、まるで推理をする探偵のように顎に手を当てた。
「そうなると問題は、ふゆみん先輩が甘やかしたせいでわがままになったのか、もともとわがまますぎて先輩が調教を放棄したのかっていうところですね」
「あっ、その言い方知ってるぜ! 黄身が先か白身が先かってやつだろ?」
誠治が得意げに頬を吊り上げた。
香奈と冬美が呆れたようにため息を吐くより前に、巧がサラリと答えた。
「僕は黄身のほうが好きかなぁ」
「えっ、君のほうが好き香奈? もう、やだなぁ巧先輩〜」
巧と誠治と冬美は、くねくねと体を揺らす香奈を真顔で凝視した。
「っ……!」
香奈の頬がみるみる赤色に染まっていった。
「む、無言が一番キツい!」
香奈が耐えかねたように叫ぶと、三人は一斉に吹き出した。
「相変わらず騒がしいな、お前らが揃うと」
腹を抱えて笑う三人と、頭から湯気を立てて撃沈している香奈を交互に見て、優が呆れたように言った。
その右隣ではあかりが彼と同じような表情を浮かべている。
反対では大介が腕を組み、「仲が良いのは素晴らしいことだ。ガッハッハ!」と満足げに笑っていた。
巧はサッと片手を上げた。
「やあ、優。大介も七瀬さんもお疲れ様」
「おう……思ったより大丈夫そうだな」
優がじっと巧を見つめてから、安堵したように笑った。
広川と内村の退部に彼が関わっていることは、薄々勘づいていた。
大介もあかりも同様だった。
もっとも、後者は巧よりも香奈に意識を向けていたが、関係の深さとしてそれは自然なことだろう。
巧はふんわりと笑みを浮かべてうなずいた。
「うん、心配してくれてありがとう。でも、見ての通り大丈夫だよ。松葉杖なしで歩けるようになったしね」
「まずその段階になったのがでかいよな」
巧の自然な話題転換に、優は逆らわなかった。
「もしかして、間に合う可能性もあんのか?」
「初戦はまず間違いなく無理だけど、色々順調にいけば準々決勝の時期くらいには復帰できるとは思う」
「なるほどな。あとは京極さんが選んでくれるかどうかってところか」
「そうだね」
巧はやや真剣な表情でうなずいた。
怪我が治っても、最大の課題である体力は確実に落ちているため、戦力として計算しづらいだろう。
選ばれるのは良くて三割程度だろうと彼は見積もっていた。
「じゃあ、まずは悪化しねえことが第一か」
「そうだね」
「ま、俺らも人のことを心配してられる状況じゃねえけど。なぁ、大介」
「うむ。一軍はやはりレベルが高いな!」
優の言葉を受けて、大介は楽しそうに笑った。
「でも、見てた感じ全然大介もやれてたよ。他校のマネージャーさんのおかげかな?」
「うむ、それはあるな!」
巧がニヤリと笑いながら尋ねると、大介は顔中に笑みを浮かべて力強くうなずいた。
「花梨とはたまに電話して、元気をもらっているぞ」
「えっ、ちょっとなんですかその話⁉︎」
香奈が子供用にキラキラと瞳を輝かせ、勢い込んで尋ねた。
「二軍の試合の最終節で——」
大介が自ら簡単な説明をすると、香奈とあかりは「何それ、素敵!」「物語みたいですね!」と手のひらを合わせながら騒いだ。
冬美はさすがにそのノリには加わらなかったが、穏やかな表情を浮かべている。
優がすすす、と近寄って、巧に耳打ちした。
「——巧」
「ん?」
「俺、マジで最近お前の気持ちがよくわかるんだ」
曖昧な表現だったが、あかりを見る彼のギラついた瞳を見れば、自身も香奈に同じような眼差しを向けている巧には、言いたいことが手に取るようにわかった。
要は、可愛らしい彼女を愛でたくて仕方がないのだ。
「でしょ? そう思うと僕、結構抑えてるほうだと思わない?」
「マジで思う。悪い、前まで彼女に関しては自制心皆無だと思ってたけど、今は尊敬してるわ」
「お互い頑張ろう。メンバー入りも、精神修行も」
「おうよ」
——男たちはガッチリと熱い握手を交わした。
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