第210話 ファーストキス
「エグかったな……」
「エグかったですね……」
優とあかりはすっかり語彙力をなくしていた。
二人揃ってベッドに手をつき、天井を見上げて息を吐き出した。相手も同じ動作をしていることに気づき、顔を見合わせて笑い合う。
「なんか、人間って本当に感動すると言葉出ねえんだな……」
「陳腐になっちゃう感じですかね」
「だな。いやぁ……」
優の言葉の続きはため息となって空気中に溶けた。
「はあ〜……」
あかりも処理しきれない感情を吐き出すように息を吐いた。
十分ほど経って、ようやく彼らの脳みそは活動を再開した。
あの曲のここの歌い方がよかった。シャウトが格好良すぎる。あそこをあえて裏声でいくのも味があった——。
毎回のライブで二十曲前後を歌うのだ。話すネタは尽きなかった。
優とあかりの目のつけどころは似ていた。
お互いの感想に共感し、ここもよかったと自分の感想を付け足す。それに相手が共感してまた別の部分にも言及して盛り上がる、というのを繰り返していた。
「いやぁ、本当に最高でしたー……ありがとうございます」
「おう。こっちこそありがとな。母さんじゃねえけど、七瀬ならいつでも歓迎だから」
「ふふ、ありがとうございます」
あかりが躊躇いがちに優の肩に頭を乗せてきた。
「な、七瀬……⁉︎」
優は動揺で体をビクッと震わせてしまった。
あかりは照れたように笑って、
「少しだけ、こうしてていいですか?」
「お、おう」
優はどもりつつ返事をした。心臓がうるさいほど脈打っていた。
あかりからこうして明確に甘えられたのは初めてだった。
(もしかして、七瀬も結構俺のこと好きになってくれてるのか……⁉︎)
あかりの性格を考えても、好きでもないのに甘えてくるとは思えなかった。
(な、ならこれくらいはいいよな?)
優は何度か躊躇うように手を伸ばしたり引っ込めたりした後、意を決してあかりの肩を抱いた。
「っ……!」
あかりは驚いたように顔を上げた。元々色づいていた頬をさらに赤く染めてモジモジと下を向いた。
(か、可愛いしやわらけえ……!)
初めてまともに触れた女の子の肩は、細くも丸みを帯びていた。
弾力のある柔らかさが妙に艶かしくて、優は指先に力を込めてその感触を楽しんだ。
あかりは羞恥に耐えるようにぎゅっと目をつむっていた。
それでも、優から離れようとはしなかった。むしろ、ほんの少しずつ体重をかけてきていた。
優はますます調子を良くした。
あかりからの好意を確信したことで、心のトリガーは外れかかっていた。
「——七瀬」
あかりがそろそろと顔を上げた。
優は彼女の白い頬に手を当て、わずかに潤む瞳をじっと見つめた。
不安や羞恥、それにわずかな期待といった色も見受けられたが、一番色濃く出ているのは迷いの感情だった。
おそらく優のしたいことには察しがついていて、その上でしていいのか、するべきタイミングなのか迷っているのだろう。
今はまだそのときではないんじゃないか——。
わずかに残った理性が訴えかけてきた。
しかし、男としての欲望を抑えきることはできなかった。
優は最後にもう一度あかりの目を見てから、その唇に自らのそれを押し当てた。
あかりは瞳を真ん丸に見開いた。拒む素振りは見せなかった。
もしかしたら一秒にも満たないかもしれない、触れるだけのキス。
(き、キスしちった……!)
緊張で味などわかるはずもない。
しかし、口付けをかわしたという事実だけで優には十分すぎた。
心臓が口から飛び出そうになりながらあかりに視線を送った。彼女もまた優を見ていたようだが、目が合った瞬間にサッと視線を逸らした。
それが決してネガティヴな意味を持ち合わせていないことは、顔を背けたことであらわになった耳の赤みが物語っていた。
好きだ——。
優は湧き上がった衝動のまま抱きしめた。
「七瀬っ……サンキューな」
「は、はいっ……」
あかりもそろそろと抱きしめ返してくる。ほんのりと汗の混じった匂いが鼻をかすめるが、優は全く嫌な気持ちにはならなかった。
むしろ興奮した。思い切り吸い込みたいくらいだ。あかりに嫌われたくないため思いとどまったが。
抱きしめていれば自然と柔らかくも弾力のある二つの塊が優の胸に当たることになるし、背中に腕を回しているため、指先や腕からも女の子特有の柔らかさが伝わってくる。
慣れに比例して、彼は匂いも含めたそれらの感覚をより鮮明に認識できるようになっていた。そうすれば、男子として健全な反応をしてしまうのは仕方のないことだった。
ベッドで隣同士に腰掛けているため、抱き合うためにはお互いに体を捻る必要がある。
体勢的には楽ではなかったが、優は正面からでなくてよかったと思った。体全体を密着させれば、到底ごまかせるものではないからだ。
昂りは一向に収まる気配を見せなかったが、それでも少しずつ冷静さを取り戻した。
優はふと腕の中の彼女に目を向けた。
「な、七瀬」
「はい」
「もう一回……いいか?」
あかりの頬が再びじわじわと赤みを帯びていく。
彼女はオロオロと視線を彷徨わせた。視線を逸らしたままコクンと小さくうなずき、わずかに顎を上げて目を閉じた。
優は我慢できずに唇を押し当てた。
続けて二度、三度と感触を味わうように口付けを落とす。
「んっ……」
あかりが驚いたような声を上げた。
優は彼女を解放しようとはしなかった。受け入れてくれているという事実に大胆になっていた。
——彼の正気を取り戻させたのは、階下からの母親の声だった。
「そろそろご飯できるわよー!」
「っ……!」
優はイタズラが見つかった子供のように、ビクッとあかりから離れた。
それまでとは違った意味で心臓が跳ねた。
「優ー?」
「お、おう! もうそろ行くっ」
「はーい」
廊下から台所に戻っていく美咲の足音が、やけに大きく聞こえた。
「……」
「……」
お互いに視線を合わせられなかった。
気まずい雰囲気の中、たどり着いた結論は同じだった。
「と、とりあえず下行くかっ」
「そ、そうですねっ」
照れくさそうに笑みを交わし合い、彼らは足早に階段を駆け降りた。
夕食の間、美咲は機嫌よくしゃべり続けた。
優も今日ばかりはそのハイテンションぶりに感謝をした。おっとりとした母親だったのなら気まずい雰囲気が流れていたことだろう。
あかりはかなり振り回されていたが、とりあえず食前の気まずい空気は霧散していた。
あかりは洗い物くらいはさせてくださいと申し出たが、美咲がそれを断った。
父親が帰ってきてからまとめて洗うというのが百瀬家の常だ、と。
あかりを気遣わせないための嘘ではなかった。
そのことはわかったのか、彼女は申し訳なさそうにしつつも素直に引き下がった。
夕食が早めに終わったため、優はもう少しだけ二人の時間を過ごせるのではないかと期待していた。
事に及ぼうとまではさすがに考えていなかったが、もう少し関係を進めるチャンスだと思っていた。
しかし、食後のお茶を飲み終わったタイミングで、あかりは「そろそろお暇します」と腰を上げた。
「そ、そうだな」
優は落胆を表に出さないように努めた。
帰ると言い出してもおかしくない時間帯であることはわかっていた。
しかし、これまでにはなかった手応えを感じていた。
この機を逃したくないという、焦りにも似た感情が芽生えていた。
遠慮するあかりを説得し、電車で家まで送って行った。
少しでも一緒にいたかったし、単純に帰り道が心配でもあった。
彼女の家の前まで来たとき、優は思いきって切り出した。
「あ、あのさっ」
「はい?」
「今週の土日、両親は旅行でいねえんだけど……またライブでも観に来ねえか?」
「っ……!」
青白い街灯の下で、あかりの瞳が大きく揺れた。
家に二人きりはさすがに気が早かったか、と優は後悔した。
「……まだ」
あかりはゆっくりと言葉を紡いだ。
「まだ、私が観ていないDVDもありますよね?」
「っ……!」
最初からお互いに答えをわかっている質問だった。
優はコクコクとうなずいた。
「お、おう」
「……じゃあ、日曜日の試合後にお邪魔してもいいですか?」
「も、もちろん!」
優は食い気味にうなずいた。
あかりはクスッと笑った。優が近づくと、緊張でわずかに身を強張らせた。
「なあ、最後に一回だけ……いいか?」
「……仕方ないですね。一回だけですよ?」
あかりが目を閉じて唇を突き出した瞬間、優はそれを塞いでいた。
唇のみずみずしさとぷるぷるとした柔らかさ、そして鼻腔をくすぐる甘い匂いをもっと感じていたくて、優は離れようとするあかりの後頭部を押さえた。
息が持たずにようやく解放すると、あかりがぷはぁ、と大きく息を吐いた。
赤面したまま手の甲で口元を覆いながら、優にジト目を向けてくる。
「な、長すぎですっ……!」
「わ、悪い! 一回だけって約束だったから……」
「っ……! もう、本当に卑怯ですね、百瀬先輩は」
「えっ?」
「なんでもありません」
あかりはふっと口元を緩めた後、真面目な表情になった。
「今日は楽しかったです。わざわざ送っていただいてありがとうございました」
「あ、あぁ」
急にかしこまったあかりの変化に、優はついていけなかった。
「帰り道は気をつけてくださいね。それではおやすみなさい。また明日です」
「お、おう。じゃあな」
あかりはぺこりと頭を下げ、そそくさと家の中に入ってしまった。
「照れ隠し……なのか?」
これだけキスをさせてくれたのなら、嫌だったわけではないだろう。
女の子って難しいなと思いつつ、優は帰路についた。
もっとも、疑問を覚えていたのはほんの少しの間だけだった。
電車に乗るころには、あかりとキスができたという事実にニヤけてしまう口元をどうにかして真一文字に保つこと、そして柔らかい感触や甘い匂いの記憶に反応しそうになる愚息を宥めることに意識の大半が持ってかれていた。
結局、好きな人とファーストキスをした当日に平常心に戻ることなどできるはずもなく、優は口元を手のひらで覆いながら電車に揺られる羽目になった。
ワンオクの曲を聴くことで別の興奮を引き起こし、男子的な昂りもなんとか鎮めることができた。




