第101話 それぞれの想い
「はあ……」
香奈はいつもより広々と感じられる家で、一人ため息を吐いた。
巧は現在美容院に行っている。彼がオシャレを始めると決めた翌日だが、たまたま放課後の時間に予約が取れたのだ。部活は週一のオフだった。
一人で寂しいからため息を吐いた、というわけではなかった。
もちろんそれもないわけではなかったが、
「私、また甘えん坊の後輩ムーブしちゃってる……」
真の一件で、自分が巧に甘えてしまっていることは自覚していた。
外野にどう思われようが正直どうでもいい。真が絡んでこなくなればそれでよかった。
しかし、彼がギリギリのラインを見定めて接触してきている以上、それを止めるには香奈自身が行動を起こさなければならない。
絡まれないように努力はしているが、最大限ではなかった。
その結果、ほんの一瞬触れられる程度のものとはいえ、接触を許してしまっていた。
怖いのだ。
真ではなく、その後ろに控えているガチ恋勢が。
彼女たちは真を推しというよりはもはや神格化している。
付かず離れずの態度を取っているから、まだ睨まれる程度で済んでいるのだ。
神のことをはっきりと拒絶されれば、信徒は間違いなく暴走するだろう。
ネジの外れた女の嫉妬の恐ろしさを、香奈は身をもって知っていた。
中学のとき、似たような状況になったことがあるのだ。
そのとき言い寄ってきたのは、サッカー部のエースでルックスも整っていたちょうど真のような立ち位置の先輩だった。
苦手な人種だったため、はっきりと拒絶した。
そして、翌日からその先輩のファンにいじめられるようになった。
最初は陰口を言われる程度の陰湿なものだったが、だんだんとエスカレートして、ついには実害が出始めた。
実害が出たおかげで明確な証拠として学校に訴えることができ、いじめはなくなったが、その経験はトラウマになっていた。
だから、とりあえずは何も起こっていない現状維持を選択してしまっているのだ。
彼女らはカルト宗教の信者と同じだ。正常な判断能力を失っている。
そう考えると、冬美などに相談するのも躊躇われた。
——そんな香奈の奥底に巣食う恐怖に、巧は気づいていた。
(最初のほうこそなんでもっと強く拒否しないのか不満だったけど、香奈にも事情があったんだな……)
西宮先輩ガチ恋勢だって何をしてくるかわからないので、交際を公表するのはリスクが高いと思います——。
そう口にする香奈の瞳には、怯えの色が浮かんでいた。
真ガチ恋勢から彼女を守るための最も有効な手段は、そもそも真に接触をやめさせることだ。
もはや彼に睨まれることを恐れている場合ではない。香奈に宣言した通り、いや、それ以上にガツンと言うつもりだ。
しかし、それでおとなしくさせられるかは別問題だ。立場は真のほうが明らかに上である以上、彼が問題になるような行動を取らない限り、強制力は働かせられない。
だから、次善策として少しでも自分磨きをしようと思ったのだ。
真ではなく巧を選んでも仕方ない——。
そう思わせられれば、少なくとも香奈にヘイトが向くことはなくなり、彼女がいじめに遭うという最悪の事態を避けられるからだ。
巧を認めたサッカー好きのギャラリーの中には、彼と香奈を推している者も多い。
その声がもっと大きくなれば、より彼女の安全も確保される。
外野にどう思われようと構わない。
あくまで最終目標は、香奈が真に絡まれないようにすることだ。
しかし、その過程で彼女が傷つくようなことはあってはならない。
そのためには、外野からの見られ方にフォーカスするしかないのだ。
もちろん、少し見た目を整えた程度で周囲を納得させられるとは思っていない。
サッカーでも、真からスタメンを奪い取るくらいの結果を出す必要があるだろう。
最初から交際を公表していれば、真に最初に絡まれた時点でもっと強気な姿勢を取っていれば——。
タラレバはいくらでも浮かんでくる。
しかし、それらの選択肢を選んでいたとしても今より状況が良くなっていたかはわからない。
(そんなのを考えるだけ時間の無駄だ。今できる最大限のことをやろう)
すなわち、真への牽制と自分磨きだ。
美容院を目指す巧は、自然と早足になっていた。
美容院は、最寄駅から電車で四つ離れた駅から十分ほど歩いたところにあった。
乱立しているビルの一つの二階だ。そこまで広くはない。
予約をしていたため、待ち時間もなく案内された。
ちょうど紹介キャンペーンをやっていたため、香奈の紹介を受けて来店した形だ。
担当の美容師は、香奈のことを覚えていた。
あんな可愛い子は忘れようとしても忘れられないね——。
そう言ってでっぷりとした体をゆすって笑った。
なかなか肉厚ではあったが、清潔感があった。
さすがは美容師だな、と巧は思った。
「それで、今日はどんな感じにする?」
「これまでずっと近所の床屋だったので、詳しいことはわからないんですけど、なるべく明るくて爽やかそうな雰囲気にしたいです」
「ふむふむ。それこそ香奈ちゃんみたいな?」
「そうですね。少しでも彼女と釣り合うようになりたいので」
「……ねぇ、もしかして君。香奈ちゃんの彼氏?」
「はい」
巧が首肯すると、美容師の目が輝いた。
「そういうことならお姉さんに任せなさい。君、素材いいから化けるよ絶対」
「本当ですか? ありがとうございます」
巧ははにかんだ。
接客業としては当然のリップサービスだとわかっていても、やはり面と向かって褒められるのは嬉しいものだ。
「本当だからね? でも、あんだけ可愛い子を彼女に持つと大変でしょ」
「そうですね。もちろん幸せですけど、なかなか平穏な毎日というわけにはいかないです。実は今、訳あって交際していることは秘密にしているというのもあって」
「なるほどなるほど。つまり、彼女と表立って親しくしたり交際を発表するときに面倒なやっかみを受けないために、一念発起してウチに来てくれた感じかな?」
「そうですね」
鋭い指摘に巧は感心してしまった。
——約一時間後、鏡の前には見たことのない自分がいた。
「ワオ」
素でそう言ってしまった。
美容師がくつくつ笑った。
「どう?」
「すごいです……僕ってこんな感じにもなるんですね」
「言ったでしょ? 素材いいって。これまでオシャレしなかったのがもったいないくらいだよ」
そこには普段のザ・草食系のような自分はおらず、注文通りの明るくて爽やかそうな少年がいた。
香奈や真のステージまではもちろん上り詰めることはできないが、香奈の隣に立っても恥ずかしくない程度にはなれたのではないだろうか。
見た目を整えると、自然と気分も上がって自信もつくものだ。
巧は来たときよりもいくぶんポジティヴな気分になりながら、美容院を後にした。
「面白い!」「続きが気になる!」と思った方は、ブックマークの登録や広告の下にある星【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にしてくださると嬉しいです!
皆様からの反響がとても励みになるので、是非是非よろしくお願いします!




