イクのなら愛しいその腕の中で
パニック障害の症状は個人差が大きく、
この小説の記述に関しては、北川本人の体験を元にしています。
その点をご了承ください。
「発作起きて息が荒いのは、秀一がイクときと似てるよね」
あまりにあっけらかんと麻衣に言われてしまったので、おれは口に入れかけた焼き豆腐を吹き出した。
「はあっ?何だよ、それ」
ぎゃあ、と叫びながら慌てて台ぶきんを取りに走る麻衣。無神経な女。
寒い冬はうまい鍋に限るってほざくものだから、腕によりをかけておれ様特別製の鶏団子ちゃんこを作ってやったのに。
「でも、材料を買ったのは全部あたしだからね。素材の選び方がうまいのよ。ちょっとお!人のお茶碗にカロリーの高いもん入れないでくれる?これ以上太ったらモデルの仕事来なくなるでしょうが!!」
チコツがぶつかって痛いのはゴメンだね。おれはもっとふくよかな女がいい。そう言ったら、本気でぶん殴られた。
「いってえなあ、何するんだよ。おれの顔に傷つけたら、それこそ仕事が…」
「秀一が変なこと言うから!!」
顔を真っ赤にしているのは、一緒に飲んだ大吟醸のせいだけではないらしい。
「最初に言ったのは、そっちの方だ」
だって…ホントにそう思ったんだもん。酔っぱらい女の戯れ言。本気にする方がどうかしている。
おれは卓上コンロの火を消し、きちんと蓋を閉めてから、箸を置いた。
どうせおれは食欲がないから大して食わないし、麻衣もさっきから冷や酒をぐいぐい飲み干しているばかりだ。これは明日、うまい雑炊にでもしてやろう。
片付けていると、おれの背後から「秀一ってマメよねえ」と声がかかる。
麻衣みたいながさつな女に適当に洗われて、汚れが落ちないくらいなら自分でやった方がマシだ。
全部終わって手を拭いていると、麻衣はおれの背中にしなだれかかってきた。振り向きざまに頭の後ろに手を回し、ぐいと引き寄せる。絡め合う舌が少しずつ熱を帯びてゆく。
おれの息が荒くなるのに、麻衣はほんの少し心配そうな表情をした。
「ねえ、それどっち?」
「感じてる方」
「お酒もタバコも、エッチするのもパニック障害にはよくないんじゃないの?」
じゃあ、ここで止めるか?おれの声に麻衣は反発するように身体を押しつけてくる。
ベッドに運び込むのももどかしいくらいに、その場で首筋まで唇を這わせる。
ふだんの麻衣からしたら考えられないほどラフなトレーナーの下から、大きくてごつくて痛いくらいに感じると言われる手を差し込む。
細い身体の線をなぞるようにしていたおれの手が止まる。
「どうしたの?秀一」
ちっきしょう、震えが止まらない。最初はほんの少し指先が揺れているだけだったのに、それはすぐさま腕全体に波及してゆき、もはやおれには制御することも不可能だった。
思わず自らの肩をしっかりと掴む。身体の震えの次は、おきまりの窒息感。
何も原因がないのに喉がつまって息ができない。このままではおれは死んでしまうだろうという寸前で、今度は今までを取り戻すかのように、どんどん息が荒くなってゆく。
過呼吸。
麻衣が慌てて水とクスリを持ってくるが、即効薬なんてない。
ただこの発作が通り過ぎるのを待つしか。
「うっく」
さぞかし苦痛で顔も歪んでいることだろう、息が何度も止まりかけ、また荒くなる。
「あっ」
ふいに訪れる脱力感。身体中から力が抜けてゆく。
おれを外側から見るおれが、冷静に観察しているのが感じられる。
…何やってんだよ。そんなに病気になりたいのか…
冷ややかな笑い。確かにある種のカタルシス、いや絶頂感に近いのか。
バカみてえだ、一人で。
崩れ落ちるおれを、麻衣が抱え込む。いくらおれが痩せていても女一人の力で支えられるはずもない。壁にもたれてずるずると床にしゃがみ込む。
息は荒いままだが、とりあえずクスリを飲む。治まれ治まれ、こんな発作など。
十五分、二十分。いやもしかしたらほんの五分程度かも知れない。
ようやく落ち着いたおれは、真っ青な顔で麻衣を見上げた。
「どう?イクときと同じだった?」
心配したのに、もう!!麻衣はふくれた。言ったのはおまえのくせに。
連ドラ常連の個性派俳優兼作曲家。肩書きだけは仰々しい。
今はどうだ?気づくとこのやっかいな病気になっていた。
パニック障害、世に言うPDってやつだ。
充電中と称して無理やり半年の休みを取った。その間におれの名前なんて忘れ去られることだろう。
「ここんところ忙しかったからね。ゆっくり休みなよ」
マネージャーも事務所も、楽観的にそう言っておれに休暇をくれたけれど、半年で治る可能性なんて誰も保証してはくれない。
自宅のマンションなんかにいたら、怖くていつ飛び降りるかわかったもんじゃない。
とにかく一人になりたくなかった。外になんぞとても出られる状況じゃなかった。
おれは売れないモデルの麻衣の部屋に転がり込み、ずっと彼女の帰りをひたすら待つだけの生活を始めた。
ここにはピアノがない。キーボードもない。MDコンポはあるけれども、他人の音楽なんか聴きたくもない。
おれは目をつぶると、自分の中にある音楽を仮想のグランドピアノに向かって叩きつけた。
麻衣がそのおれの指を、一本一本なぞってゆく。長く節のある細い指。
何度もこの手でさまざまなコンクールに勝ってきた。音大なんか楽勝だった。留学の話も何度も持ち上がった。
ピアニストとして食っていくよりも、曲作りに魅力を感じて入った作曲科で、結局はジャズの世界に足を突っ込んでしまった。
華やかなステージ。大きなツアー。グループが解散してから何故か声がかかって始めたテレビの仕事。
それ以来、おれから音楽がどんどん遠のいていった。毎日信じられないほど弾き続けていたピアノは、蓋すら開けなくなって久しい。
「秀一はさ、ホントは何になりたいの?」
今のタイミングでそれを聞くかよ。本当に空気の読めない女。
向かっ腹が立ったおれは乱暴に麻衣の頬を包み込み、唇を押し当てる。彼女はイヤイヤをするように逃げようとした。
「もう、ちょっと!止めときなよ。今発作が起きたばかりなのに、また…」
また起きたら、今度こそ本当に息など止まってしまえばいい。完全に。二度と吹き返さないように。
おれは麻衣を抱いたまま、床に倒れ込んだ。ああきっとこれで楽になれる。
いつもそう思う。深い深い眠りに引きずり込まれる。もう目は覚めないだろう。安堵の表情で。
気づくと朝になっていた。リビングに寝かされていたから、麻衣はそれでもおれをわざわざここに連れてきてくれたんだろう。薄い毛布が掛けられていた。
何をやっているのだろう。
外は怖かった。別に取材されて名前が出るだの、そんなことが気になるわけじゃない。もっと本能的にただただ怖かった。
イヤでも秋吉秀一というペルソナをかぶらなくてはいけない。幾重にも折り重なった頑丈な仮面。
おれ本体など見えないほどの重たいその仮面は、もう二度と外せはしないだろうと思い込んだ。虚像だけが一人歩きしてゆく。
この部屋にいれば、誰もそんな目で見ることもない。やっと息がつけるはず。
なのに発作だけは執拗におれを狙ってきた。苦しい、苦しい、このまま息絶えてしまえ。
せめてピアノがあれば。
こんな安い賃貸マンションでピアノなど弾けるはずもない。わかっているのに、それでも弾きたかった。
どこかスタジオへ。そのためには外界に出なければ。堂々巡りの押し問答。
…ホントは何になりたいの?…
おれに訊くなよ。自分自身が一番わからないのに。
選択肢はたくさんあった。選べることもできた。いや、きっとその場でそれしか選べなかったのだろう。どれだけ道があろうとも、行くか行かないか、確率は二分の一なのだ。
選ばなかった方をどれだけ羨んだところで、おれ自身が今さら変われるはずもない。
過去には戻れない。
何もかも捨てたくても、おれには怖くてベランダにさえ出られない。
十も年下の麻衣にしがみつくように、おれは甘えた。抱きしめていて欲しい。できることなら一日中でも。どこにも行くな。おれを一人にしないでくれ。
自分を偽り続けた結果がこれか。おれは本当は何に…。
そのとき、携帯が鳴り響いた。ここに転がり込んでから機種を替えたから、番号を知っているものなどほんの少ししかいない。見慣れない番号。誰が?マネージャーか?
急いでボタンを押すと、麻衣だった。
「ゴメン、病院。ピッチ借りてるの。ちょっと入院しなきゃいけないって言われちゃったからさ、着替えだけ準備しといてくれない?」
入院?どういうことだよ!!事故か?倒れたのか?たたみかけるようなおれの質問に、彼女は言葉を濁した。
「とにかく用意だけしといて。秀一しかわかんないでしょ?どこに何があるかなんて。動いちゃいけないって言われてるから、実家に連絡してみる」
「おまえ…だって実家とは折り合い悪いから出てきたって。頼れないんだろ?母親とは口もきいてないって。第一、実家から何時間かかると思ってんだよ。おれが行くから。どこの病院だ!?」
「バカ、秀一が来れるわけないでしょ?部屋も出らんないのに。タクシーなんか乗れないでしょ?無茶言わないでよ。じゃあいい、友達に頼むから」
「おれが行く!!どこの病院だ!?いいから早く言え!!」
どこが悪いのかとしつこく訊いた。麻衣は根負けしたようにぽつりと言った。
切迫流産。五週目に入ったって。このまま動いてはいけないから出血が止まるまでは入院が必要だ…と。それからもっと小さい声で産婦人科の名前をつぶやく。そのまま電話は切れた。
おれは携帯を取り落とした。かたんと軽い音が響く。
喉がつまり始める。壁に寄りかかる。どうする気だ、秋吉秀一。おまえはこのままこの部屋から一歩も出ないつもりなのか。
とにかくすばやく荷物を作ると、おれは医師から処方されている規定量ぎりぎりのクスリを口に放り込んだ。震える手でドアノブを握りしめる。
開けられるのか、外界へと通じるこのドアを。
目をつぶる、気が遠くなる。
パニック障害は気の持ちようでも気のせいでもない。脳の誤作動。
気合いで何とかなるものなら何とでもしてやる。
けれどこの非常時にだって無情にも発作は起こりかける。
倒れたらそのときだ。どうせ行き先は病院、何とかしてくれるだろう。
おれは思いきってドアを開けた。
「秀一…」
あとは涙で声にならなかった。こぎれいな顔をくしゃくしゃにして麻衣は泣き続けた。
青白い顔に腕には点滴。どこか痛むか、と訊いても首を振るだけでただ泣きじゃくっている。
「安静にしなくちゃいけないヤツが、そんなに泣くなよ」
「だって、だって秀一が……」
荒い息を必死で抑えた。震える手はもう一方の手で。誰にも気づかれないように。
発作は起こり続けるだろう、これからも。
それでもいい。どこでぶっ倒れようとおれはもう気になどしない。どれだけの恐怖にも、必死に耐えてやる。
その代わり…。
「おれ、テレビの仕事辞める」
「うん」
「原点に戻る。ジャズの仕事、していいかな。また…ピアノ弾いていいか、な」
「うん、その方がずっと秀一らしい」
「収入激減するよ」
「いいよ別に。子ども預けられるようになったら、ちゃんと家計簿付けてパートに出るから」
化粧がほとんど落ちてすっぴんの女。モデルだなんて言っても誰も信じないかも知れない。
でもおれには、麻衣がとても輝いて見えた。
入院の手続きを終えて会計を待つおれに、見知らぬ女たちが声をかける。
「あ、あの。俳優の秋吉秀一さんですよ、ね?」
おれは、ここ数年ないほどのすがすがしい笑顔で応えた。
「よく言われるんですよ。そんなに似てますか?おれ」
ほら、本物がこんなとこいるわけないじゃない、ひそひそ声に思わず苦笑い。
手の震えが少しずつ治まる。脱力感も絶頂感も襲ってくる気配はなかった。
病院のドアをくぐる。
三ヶ月ぶりに見た真昼の空は、あくまでも青かった。
<了>
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