祖父の遺言状
グリちゃんは『ぴいいっ!』と勇ましく鳴く。
用事があれば、いつもみたいに呼んでくれ、と言っているような気がした。
「ありがとうございました」
『ぴーいっ!』
グリちゃんは大きな翼を動かし、助走もなしに大空へと飛び立って行く。
そんな彼女に手を振り、見送ったのだった。
「では、セイブル、ここでお別れですね」
『ああ、またな!』
私が再度、ここへやってくる日は訪れるのだろうか。
わからないけれど、彼にも「また会いましょう」と言って手を振っておく。
グリちゃんやセイブルと別れ、屋敷の裏門から貴族街の通りに出る。
私が歩く後ろを、アライグマ妖精の姉妹がちょこちょこと軽やかな足取りでついてきていた。
今日は特別寒いようで、ガクブルと震えてしまう。
こんな寒い日に、作業用のワンピースとエプロンのみで外に放りだされてしまったのだ。
お金なんて持っていないので、通りすがりの小売店で外套すら購入できないでいた。
震える私に気付いたのか、特に毛並みがもこもこしているモフが、襟巻きになってあげようか? と声をかけてくれた。
ありがたく、モフの体を抱き上げ、首に巻き付けておく。
すると、体がぽかぽかになって温かくなっていった。
まず、役所に向かい、婚姻関係の窓口に離婚承認書を提出した。
特に質問されることもなく、あっさり受理されてしまう。
「こちら、婚姻破棄書となっております。再発行はできませんので、大切に保管しておいてください」
「ええ、わかりました。ありがとうございます」
ついに私はオイゲンから解放された。
これでよかったのか、と自問自答するものの、答えは浮かんでこなかった。
今は彼個人について気にしている場合ではない。
前を見て、しっかり生きなければ。
続いて銀行省に立ち寄る。ここには私がこれまで個人的に稼いだお金と、お祖父様が私に宛てた遺書を預けているのだ。
これまでお祖父様の死を認められず、遺書も読めないでいた。
イーゼンブルク公爵家の屋敷を離れる今、きちんと向き合わないといけない。
王都にある銀行省の本部は、劇場かと見紛うほど大きな建物で、五階建てだったか。
出入り口には警備兵がいて、関係ない者が入れないよう、警戒態勢が敷かれていた。入館には銀行省に登録した手形が必要となる。
扉に描かれた魔法陣に手をかざすと、自動で開く。
薬獣であるムク、モコ、モフは特に止められもせず、そのまま一緒に入館できた。
私がやってきたことは、手形を通じて担当に伝わっているらしい。
眼鏡をかけた年若い銀行員、リリー・ベルが走ってやってきた。
「イーゼンブルク様、いらっしゃいませ!」
「こんにちは」
「こんにちは! 今日はいかがなさいましたか?」
「祖父の遺書と、預けていたお金をすべて下ろそうと思いまして」
「承知いたしました。奥の部屋をご案内しますね」
イーゼンブルク公爵家はともかくとして、私は銀行省にとって貴賓でもなんでもない。
預けている金額もそこまで大金ではないのに、いつも丁重にもてなしてくれる。
貴賓室で待っていると、香り高い紅茶と茶菓子が運ばれてきた。
ムクとモコ、モフの分の魔宝石も一粒用意してくれる。
彼女達は嬉しそうに、魔宝石をカリコリと音を立てながら食べていた。
しばらく待っていると、ベル銀行員が銀盆に金貨が入った革袋とお祖父様の遺書を運んできてくれる。
ただ、私が預けていた品だけではなかったので、首を傾げることとなった。
「あの、そちらの木箱に入っている品はなんでしょうか?」
「こちらはグレイ・フォン・イーゼンブルク様よりお預かりしておりましたお品です。イーゼンブルク様がいらっしゃったとときに渡すよう、頼まれておりました」
木箱にはカードが添えられており、そこには〝ベアトリスへ〟とお祖父様の字で書かれていた。
カードには、〝この木箱の中にある品を、処分してくれ〟とある。
中に入っていたのは、信じがたいものだった。
「こ、これは――!?」
木箱の中には、〝王室典薬貴族〟の証である外套が収められていた。
王室典薬貴族というのは、魔法薬師の権威であり、王族にもっとも近しい存在として認められた唯一の存在が名乗ることを許される身分だ。
イーゼンブルク公爵家の当主は何世紀にもわたって、王室典薬貴族を名乗り続けていた。
しかしながら十年前、伯父――オイゲンの父親の死をきっかけに、お祖父様は王室典薬貴族の地位を返上してしまった。
これまで世襲で名乗っていたのに、王室典薬貴族の座が他家に渡る結果となる。
その判断を下した理由として、伯父の早世があがっていたものの、お祖父様は多くを語らなかった。
手元に残った王室典薬貴族の証であった外套は誉れであるはずなのに、どうして処分するように頼んだのか。
オイゲンでなく、私に頼む意図はカードに書かれていなかった。
お祖父様のお願いに気を取られている場合ではなかった。金貨も確認しないといけない。
金貨の数はちょうど百枚。金額にして百万ゲルト。
これは地方に薬草採取に行ったさいに現地の村人などに魔法薬を売って稼いだものや、私個人の常連さんからの報酬である。
住む場所と食べ物さえ選ばなければ、半年くらいは暮らせるだろう。
「きっちり揃っています」
「あとは、こちらのお手紙ですね」
銀盆の上にあるのは、今となっては懐かしいお祖父様の文字であった。
そこには〝愛しい孫娘ベアトリスへ〟と丁寧な文字で書かれてある。
「退室しますので、どうぞ中身もしっかりご確認ください。終わりましたら、テーブルにありますベルを鳴らしてくださいませ」
「ええ、ありがとうございます」
ベル銀行員はぺこりと会釈したあと、貴賓室から去って行った。
お祖父様の手紙に手を伸ばすと、指先が震えているのに気付いてしまう。
いつか、お祖父様の遺言に向き合わなければならないと覚悟は決めていたはずなのに、未だに死を受け入れられないのだろう。
これからはひとりで強く生きなければいけない。そのためにも、お祖父様の遺言を受け取ろう。
もしも、生涯を通してオイゲンを支えてくれ、と書かれていたら、彼に頭を下げて、イーゼンブルク公爵家のために魔法薬を作り続けないといけない。
そのときは別に家を借りて、屋敷に通わせてもらおう。
新しい妻ヒーディを迎えた家庭に、首を突っ込むつもりは毛頭なかった。
「はあ……」
ため息をひとつ零すと、ムクとモコ、モフが私の膝に手を添えてくれる。
まんまるの瞳を向け、力づけてくれているように見えてしまった。
そうだ。私はひとりではない。
ムクとモコ、モフや、グリちゃんだっている。
みんなで楽しく暮らすための試練を、乗り越えないといけないのだろう。
意を決し、お祖父様の手紙を手に取る。
「あら?」
手紙が思っていたよりも重たくて驚いてしまった。
しっかり触れてみると、何やら便箋の他に細長く固い何かが同封されているようだ。
テーブルの上にあったペーパーナイフを手に取り、開封した。
封筒を傾けると、銀色をした美しい鍵がポロリと手のひらに転がり落ちてくる。
「なんでしょうか……?」
見覚えのない鍵に、思わず首を傾げる。
イーゼンブルク公爵家の鍵の形はすべて把握しているが、どの部屋の物でもなかった。
「いったいどこの鍵なのでしょうか?」
ボソリと呟いた言葉に、アライグマ妖精の姉妹が口を揃えて答えた。
『それは隠者の住まいの鍵だよ!!』
聞き覚えのない言葉に、頭上に疑問符が降り注ぐ。
これがなんの鍵かは、おそらくお祖父様からの手紙に書いているのだろう。
胸に手を当てて息を大きく吸い、吐き出す。
気持ちを落ち着かせてから、二つ折りになっていた手紙を開いた。
まず、手紙に書かれてあったのは、〝これまでご苦労だった。お前は誰よりもイーゼンブルク公爵家のために努力し、患者のためによりよい魔法薬を作り続けた功労者だろう〟という労いの言葉であった。
胸がいっぱいになり、まだまだ頑張れる、これからも魔法薬を作っていきたい、とお祖父様に伝えたい気持ちがこみ上げてきた。
そんな願望は、二度と叶わないけれど……。
続いて、お祖父様の最後の願いが書かれていた。
――ベアトリス、私の我が儘のせいで、オイゲンと結婚させてしまい、本当に申し訳なかった。
私の死後は、自分が好きなように生きるといい。お前の人生を犠牲にして、オイゲンの傍にいる必要はない。さっさと別れて、誰よりも幸せになれ。それが、私の最後の願いだ。
そんなメッセージを見た瞬間、涙がポロポロと零れ落ちる。
お祖父様はオイゲンとの結婚に対して謝っていたが、私は彼との結婚を後悔していない。
オイゲンと結婚したことにより、お祖父様と本当の家族になれたような気がして、とても嬉しかったから。
お祖父様がオイゲンを助けるよう望んでいたら、それを叶えようと思っていた。
けれども、お祖父様の最後の願いは私が幸せになることだった。
ならば、それを叶えるために、精一杯自分自身のために生きるしかない。
「お祖父様、ありがとうございます」
遺言書を胸に抱き、感謝の言葉を口にしたのだった。
手紙はそれで終わりではなく、二枚目もあった。
そこには、エルミタージュについての詳細が書かれていた。