背筋が凍り付く瞬間
「ベアトリス、ここでいいだろうか?」
オイゲンは寝台の端に座り、隣をぽんぽん叩いて誘ってくる。
いいわけがなかった。
「君との初夜を行っていないことを、ずっと後悔していたんだ。あのときの僕は、ヒーディに騙されていたんだよ」
彼はいったい、何を言っているのだろうか。
初夜にオイゲンが私に言った言葉は、一語一句覚えている。
――お前を本当の妻にするつもりはない! 真なる妻はこのヒーディだ!
私は寝室から追い出され、裸足で屋敷の廊下をとぼとぼ歩いた。
そのときの惨めな自分自身を思い出してしまい、なんとも言えない気持ちになる。
「そういえば、ヒーディはどこにいるのですか?」
「ああ、彼女は追い出してやったよ」
「そんな……妊婦を追い出すなんて」
「あ、いや、別宅に移ってもらっただけだよ」
彼の言う〝別宅〟とは、私から取り上げた元実家である。
ヒーディは生活の拠点を移したようだ。
この屋敷の荒んだ環境を見たら、それが正解なのではないか、と思ってしまった。
おそらくだが、オイゲンはヒーディとの関係を切ったわけではないのだろう。
いいように言いくるめて、拠点を移しているだけなのだ。
何もかも、想像していたとおりだった。
オイゲンはいつになく真面目な表情で、私に訴えてくる。
「ベアトリス、あの日の初夜を、今日、やり直そう」
ぞわりと悪寒が全身を駆け巡る。
彼とそのような関係になるなど、死んでもお断りだ。
オイゲンが手を伸ばしてきたので、即座に回避する。
「な、なんだ、恥ずかしがっているのか?」
「いいえ、気持ち悪くって」
「き、気持ち悪いだと!?」
「ええ。朝から具合が悪くて」
「あ、ああそういう意味だったのか。てっきり僕に対して気持ち悪いと言ったものだとばかり……」
気持ち悪いというのはオイゲンに対する言葉だったものの、なんとか誤魔化せた。
「オイゲン、客間でゆっくりお話ししましょう」
「ああ、そうだな。具合が悪いのならば、そのほうがいい」
そんなわけで、オイゲンと共に客間へと移動する。
エルツ様はすでに屋敷内へ侵入しただろうか。
何かお祖父様が残していますように、と祈るばかりである。
客間も他の部屋同様、清潔感などいっさいない。埃臭く、咳き込んでしまった。
「ベアトリス、本当に体の調子が悪いみたいだな」
「ええ……」
「そこまでしてでも、僕に会いにきてくれるなんて、光栄だよ」
オイゲンと会話するたびに、全身に鳥肌が立っている。
寒気を感じるのは、暖炉に火が灯っていないこと以外にも原因がありそうだ。
「ベアトリス、君は僕と別れてから、どうしていたんだ?」
「宿を転々としておりました」
「収入は?」
「薬草を売ったり、魔法薬を作ったり、いろいろです」
「魔法薬師の工房でない場所で、魔法薬を作るのは大変だろう?」
「ええ、まあ、そう、ですね」
「だったら、一刻も早くここに戻ってくるといい。君が使っていた製薬室はそのままにしている」
そのままにしているのではなく、私と一部の魔法薬師以外入室できないようにしているので、中に入れなかっただけだろう。
「使用人の姿が見えないようですが」
「あ、ああ、皆、都合が悪くなって退職していったんだ。ひとり、新しく雇ったメイドがいるけれど」
先ほど見かけたメイドだろう。
顔を見た覚えがないと思っていたら、新入りだったようだ。
ただ、その彼女もお茶の一杯すら運んでこなかった。
もしかしたら、私のことは突然現れた女狐と思っているのかもしれない。
「メイド以外にも、使用人は必要でしょう?」
テーブルクロスはお酒でも零したのか汚れているし、床にはゴミが散乱している。
とてもではないが、客を招き入れるような空間ではないだろう。
使用人がいなければ、屋敷も死んでしまったように朽ちてしまうのに。オイゲンはそういったことすら気を回すことができないのだ。
「心配しないでくれ。僕はなんとかやっているから」
屋敷がこの状態で、よく心配しないでくれと言えたものである。
「ただ、そうだな。使用人がいないと少しだけ不便かもしれない。よかったら、君がもといた使用人に声をかけて、戻ってくるように説得してくれないか?」
なぜ? という疑問は、喉から出る寸前でごくんと呑み込んだ。
「ベアトリスがいなくなってから、本当の気持ちに気付いたんだ。僕にはベアトリスしかいない。心から愛している。この先一生君以外誰も愛さないから、もう一度やり直そう」
エルツ様の名前を叫んで助けを求めなかった私を褒めてほしい。
彼は私を利用するためならば、心あらずの愛すら口にできる不誠実な男性なのだろう。
オイゲンは視線を下に落とし、私の指先を凝視する。
「緑色の手は相変わらずなんだな」
「ええ、毎日薬草を摘んでおりますので」
「ベアトリスのその手は、働き者の証だ。とても美しいよ」
そう言ったら私が喜ぶとでも思っているのか。
離婚届を突きつけたさい、緑色の手を気持ち悪いと言ったことはしっかり覚えているのだが。
私の緑色の手を利用し、馬車馬のごとく働かせるつもりなのは幼子でも想像できるだろう。
「ベアトリス、その手を、握ってもいいかい?」
「それは――」
どう時間を稼ごうか、と思った瞬間、窓ガラスを叩くコツコツという音が聞こえた。
エルツ様の使い魔であるブランが、撤退の合図を知らせてくれたようだ。
もう、我慢しなくていい。
そう思って立ち上がる。
「ベアトリス?」
「申し訳ありませんが、オイゲン、あなたとやり直すつもりはございません」
はっきり宣言すると、オイゲンの表情が歪んだ。
「僕がここまで言って、頭まで下げているのに、受け入れないというのか?」
「ええ。天と地がひっくり返っても、あなたとやり直すつもりはございません」
「だったらなぜ、僕に会いにきたんだ!?」
「それは――誠意を見せていただけるのであれば、何か手を貸そう、と思ったまでで」
「誠意は十分見せただろうが!」
「メイドを部屋に連れ込んで、お戯れになっている様子のどこが誠意なのでしょうか?」
「そ、それはさっきも説明しただろうが! メイドのほうが、僕を求めてきたんだ」
立場が弱いメイドに責任を押しつけるなんて、彼は私が思っていた以上のしようもない人間だったわけである。呆れて言葉もでない。
「ベアトリス、ごちゃごちゃ言っていないで、僕の言うことを聞け! そうすれば、元通りの裕福な暮らしをさせてやる!」
「どの口がおっしゃっているのでしょう?」
魔法薬師達だけでなく、使用人にすら見放され、彼のせいで歴史あるイーゼンブルク公爵家の名声も地に墜ちた。
そんな状態から元の生活に戻れると信じているなんて、愚かとしか言いようがない。もしもイーゼンブルク公爵家が信用を取り戻せるとしたら、何百年とかかるだろう。
オイゲンが寝室でメイドと話していたように、私さえ戻ってくれば、イーゼンブルク公爵家の栄光を取り戻せると勘違いしているのだ。
そんなわけないのに、おめでたい人だ、と思ってしまった。
「ベアトリス、逃げるな。僕の言いなりになれ!」
「それが本心だったのですね」
「だったらどうした!!」
いったい誰が、オイゲンになんか従うのか。
そう思った瞬間、彼は叫んだ。
「先生! この生意気な女を捕らえてください!」
突然、黒い魔法陣が浮かび上がる。
そこから登場したのは、鳥マスクの人物だった。




