魔法医エルツの研究室へ
ビー・ブルームという名で働くには、別人を装わないといけない。
髪でも染めたらいいだろうか、と思って庭で染め粉として使えそうな薬草を探したが、見当たらなかった。
変装用の眼鏡もなければ、鬘などもあるはずもなく。
今日のところは外套を着込んで、頭巾を深く被るという、いつもの外出の装いで出勤することとなった。
転移魔法の魔法巻物を破ると、一瞬でエルツ様の研究室に移動する。
四方八方、本がずらりと並ぶ薄暗い部屋だった。
そこにいたのは、看護帽に白衣をまとったネズミ妖精と――悲鳴をあげながら一心不乱に書き物をする短髪の青年であった。
「うわあああああああ!!!!」
私がやってきたことにも気付かないほど、集中しているようである。
いったい何をしているのか、気になって覗き込むと、処方箋を書いているようだった。
『こんにちは! 患者さんでちゅか?』
ネズミ妖精がつぶらな瞳で私を見上げていた。
白いネズミ妖精で、毛並みがよく、愛らしい。大きさも私の膝丈ほどしかない。
と、見とれている場合ではなかった。
「私はエルツ様の専属魔法薬師となります、ビー・ブルームと申します」
『まあ! 魔法薬師様でちゅか! ようこそおいでくださいました!』
ネズミ妖精はにっこり微笑み、私がやってきたことに気付かない青年のもとへ向かった。
『クルツせんせ、魔法薬師様がいらっしゃっておりまちゅ』
クルツと呼ばれた青年は、ネズミ妖精の声など届いていないようだった。
このような状況には慣れているのか、ネズミ妖精は困った様子など見せていない。
ネズミ妖精がふーー、と息を吐いた次の瞬間、跳び上がって一回転する。
長い尻尾で、クルツと呼ばれた青年が手にしていたペンを叩き落とした。
「うわっ!!」
『クルツせんせ、魔法薬師様がいらっしゃっておりまちゅ!』
「あ、ああ!!」
ここでようやく、私の存在に気付いたようである。
「あの、はじめまして。本日よりエルツ様の専属魔法薬師となります、ビー・ブルームと申します」
「ああ、君が!!」
クルツと呼ばれた青年は、テーブルに両手を突き、血走った目で私を見つめる。
「よかった! 助かった! 俺、もう限界で!」
彼はテーブルに広げられていた紙の束をかき集め、私へと託す。
「俺、処方箋を書くのが苦手で! 魔法医長の記録簿もくそ汚くて読めないし、魔法薬の種類も多すぎて混乱していて!」
君だったらすばらしい処方箋を書ける! と紙の束を押しつけられてしまう。
よくよく見たら処方箋であった。
処方箋は魔法医でないと書けないので、押しつけられても困るのだが。
それよりも、このお方はいったいどこのどなたなのか。気になったので聞いてみる。
「その、あなた様は?」
「俺は魔法医長の副官で、一番弟子でもある、クルツ・フォン・ヴィンダールスト」
「ヴィンダールスト?」
エルツ様の家名と同じだ、と思ってよくよく彼を見てみたら、耳がわずかに尖っていた。
その視線に気付いたのか、耳に触れながら説明してくれる。
「ああ、そう。俺は魔法医長と同じクリスタル・エルフ、ヴィンダールスト家の者なんだ」
千年以上にもわたり、ヴィンダールスト家の当主は国内の貴族との婚姻を重ねてきた。
そのため、エルフの血は極限まで薄くなり、見た目や寿命はその辺の人と変わらないという。
「ただ、魔法医長だけは別なんだ。先祖返りの見た目だけでなく――」
どん!! と大きな音を立てて、扉が勢いよく開かれた。
やってきたのは、エルツ様である。
昨日見かけた軍服に似た制服に、白衣を合わせた姿だった。
「クルツ、そなたはまた、勝手に私の研究室に入りよって!」
「だって、たまにわからない魔法薬とかあって、この部屋だと調べながらできるから」
「立ち入るな、と言っていただろうが!」
「ビー・ブルームさんがくるから?」
「違う! ここは私の私的空間だからだ!」
エルツ様も私の存在に気付かず、クルツさんと喋り続ける。
声をかけるタイミングを探っていたら、見かねたネズミ妖精が動いてくれた。
エルツ様の白衣の裾を摘まみ、控え目にくいくい引く。
「ん、なんだ?」
『エルツせんせ、専属魔法薬師様がいらっしゃっておりまちゅ』
「なんだと!?」
怒りの形相で振り返ったエルツ様と目が合う。
「お、おはようございます」
「おはよう」
すぐにエルツ様は私に背を向け、クルツさんの首根っこを掴んだ。
そのまま持ち上げ、部屋の外へ投げ捨てるように追い出す。
バタン! と扉は勢いよく閉められた。
「すまない。予定外の者が部屋にいたようで」
「い、いいえ」
「あれは私の弟子で」
「クルツさん、ですね」
「ああ、もうあの者はそなたに名乗っていたのだな」
クルツさんはエルツ様の遠い親戚に当たる人で、医術を学ぶために働いているという。
「そこにいる医獣は、私と契約しているネズミ妖精のモモだ」
『よろしくでちゅう』
ネズミ妖精のモモは、かわいらしく小首を傾げながら挨拶をしてくれた。
医獣というのは、魔法医と契約を交わす妖精や幻獣を示す言葉である。
魔法医の助手を務められるほどの頭脳を持つ、非常に賢い子達なのだ。
エルツ様は私が手にした処方箋に気付くと、盛大なため息を吐いた。
「あいつ、まだこれを片付けていなかったのか」
なんでもクルツさんは、エルツ様が診察した患者の記録簿をもとに、処方箋を作成する作業を行っていたらしい。
「クルツは治療はまあ得意なほうなのだが、処方箋を書くのが絶望的に遅くてな」
「はあ、そうだったのですね」
ただ、彼の仕事が遅かったとしても、テーブルに積み上がった記録簿の量は多い気がする。
「今日は患者様が多いようですね」
「ここ一ヶ月ほど、特にな」
王室典医貴族と名乗っているものの、王族だけを診ているわけではない。
他の魔法医が匙を投げた患者の中で、特に重い症状を持つ者達が診断を受けにくるのだ。
「このところ、市井の魔法医が送る処方箋の薬を調薬できる者がおらず、ここに送られてくるようだ」
「えー、それはもしかして、イーゼンブルク公爵家がこれまで引き受けていた患者が、エルツ様のもとへやってくるようになった、というわけですか?」
「まあ、そうだな」
「も、申し訳ありませんでした!」
私がオイゲンと離婚し、イーゼンブルク公爵家に仕えていた魔法薬師がいなくなったしわ寄せが、エルツ様に集まっていたなんて思いもしなかった。
「いや、気にするな。もともと、重い病気や症状を持つ患者の多くを、イーゼンブルク公爵家が引き受けていただけだ。長年、負担も大きかっただろう」
それは祖父の指示のもと、ずっと行っていたので、私にとってはそれが普通だと思っていた。
「昨日、そなたと別れてから少し調べてみたのだが、イーゼンブルク公爵家で働いていた魔法薬師達は、現在、王室典薬貴族であるザルムホーファー家の当主のもとにいるらしい」
「そう、だったのですね」
行く当てもなく、困っているのではないか、と心配していたので、心から安堵した。
「その件で、ザルムホーファー魔法薬師長と話したのだが、彼はそなたを探しているようだ」
「私を、ですか?」
「ああ。彼はグレイの一番弟子で、同じようにグレイの愛弟子だったそなたを心配している」
一度、ザルムホーファー魔法薬師長に会ってみないか、と提案された。




