魔法の手鏡を使って
夕食を食べ、お風呂に入り、あとは眠るだけ――と言いたいところだが、エルツ様に偽名で働きたい、という旨をお伝えしなければならなかった。
布団の上に魔法の手鏡を置き、その前に座り込んで、何度目かわからないため息を吐いた。
いつでも気軽に連絡してもいい、と言ってくれたものの、なかなかそういうわけにもいかない。
もしもエルツ様の都合が悪い時間帯だったら、と考えると、どうしても尻込みしてしまうのだ。
あまり遅い時間になるのもよくないだろう。
こういった要望は早いほうがいい。もしもエルツ様が私が働くというのを周囲の人達に伝えていたら、偽名を使うこともできなくなるから。
自らを奮い立たせると、魔法の手鏡を持ち上げる。
一言、エルツ様と呼びかけるだけだ。
すーーーーと息を吸い込んで、大きく吐き出す。
腹は括った。
エルツ様、と口にしようとした瞬間、魔法の手鏡に魔法陣が浮かんだ。
「――ベアトリス・フォン・イーゼンブルク、そこにいるだろうか?」
「きゃあ!」
突然名前を呼ばれたので、驚いて魔法の手鏡を投げてしまう。
幸い、着地は布団の上だったので、鏡が割れずに済んだ。
伏せられた手鏡から、驚くような声が聞こえた。慌てて拾い上げる。
「エルツ様、ごめんなさい!! たった今、連絡を取ろうとしていたのですが、何も言っていないのに声が聞こえたので、びっくりしてしまって」
「いや、気にするな。それよりも――」
魔法の手鏡に映し出されたエルツ様は、気まずげな様子でいた。
「あの、何か粗相をしてしまいましたか?」
「粗相ではなく、その……」
エルツ様はこちらを直視せず、明後日の方向を向きながら言った。
「少し冷え込むので、ガウンか何か着たほうがいいのでは?」
「いえ、寒くはないのですが」
キッチンストーブから伝わる熱が、寝室を温めてくれている。
だから平気だ、と返そうとした瞬間、エルツ様が遠回しに伝えようとしていたことに気付いた。
現在の私は、下着が透けそうなくらいの薄いシュミーズを纏うばかりであった。
これはお祖母様が使っていたもので、かなり色っぽい一着だと思っていたものの、どうせこの家には妖精以外いないと思って着用していた。
一ヶ月間着ているうちに、初めに感じていた羞恥心など忘れていたのだろう。
再び魔法の手鏡を投げそうになったものの、なんとか堪える。
「も、申し訳ありません! 上着を着てまいります!」
魔法の手鏡をそっと置いて、ガウンを着込む。
胸元が見えていないか確認してから、魔法の手鏡を表に向けて持ち上げた。
「お待たせしました」
「いや、構わない」
恥ずかしくて、穴があったら入りたいような気持ちになってしまう。
どうして、この恰好のまま連絡を取ろうと思ったのか。
慣れに加えて、夜だから気が抜けていたのだろう。
「その、見苦しい姿をお見せしてしまい、申し訳ありませんでした」
「私は何も見ていない」
ありがたいお言葉だったものの、エルツ様は遠い目をしていた。
お目汚しをしてしまったわけだ。
エルツ様はゴホンゴホンと咳払いしたのちに、何事もなかったかのように話しかけてくれた。
「ベアトリスよ、私に連絡するつもりだったと言っていたが、何か用事があったのか?」
「はい」
「ならば、先に話してくれ」
ピンと背を伸ばして居住まいを正し、セイブルと話したことをエルツ様に伝えた。
「なるほど。王室典薬貴族である、ザルムホーファー家の者達に配慮をしたい、と」
「配慮というよりは、私自身の保身かもしれませんが」
エルツ様は腕を組み、しばし考え込むような体勢を取る。
「そうだな。離婚したからといって、私のもとで働くとなれば、王室典薬貴族の座を狙っているかもしれない、と変に勘ぐる者がいるかもしれない。王宮での余計な問題を回避するためにも、ベアトリス・フォン・イーゼンブルクとしてでなく、別人として振る舞うほうが平和に過ごせるだろう」
なんでも王宮内は非常にギスギスしていて、他人を出し抜いてでも出世したい、という者達がわんさかいるようだ。
「基本的に、王宮で働くのは、ハゲワシのようなずるい者ばかりだ」
賢く、正義感に溢れ、善良な者ほど蹴落とされるような世界らしい。
「四六時中私の傍にいるだろうから問題など起きないだろうが、念には念を入れて、用心しておいたほうがいい」
そんなわけで、王宮で偽名を使うことを許可された。
「して、どのような偽名がいいか、考えているのか?」
「いいえ、許可をいただくことしか考えていなくて、まだ何も」
「そうか」
偽名を名乗るときは、ぼんやりしているときも反応できるよう、本名に近いものがいいという。
「愛称でもいい。何か幼少期に、使っていたものはないのか?」
「あります。両親からは〝ビー〟と呼ばれておりました」
「なるほど、蜜蜂か。蜂蜜色の髪に相応しい名前だな」
手入れが行き届いていなくて、少しくすんだ私の髪色を、蜂蜜色と認識してくれるとは、夢にも思わなかった。
もしかしたら、魔法の手鏡がそう見せてくれている可能性もあるが、それでも嬉しい。
「名前はビーで、家名はどうする?」
「母の旧姓である、ブルームを名乗りたいです」
「蜜蜂花か。いい名前だ」
思いがけず、華やかな名前になったようだ。
「そなたによく似合っている。それでは、ビー・ブルームよ、これからよろしく頼む」
「はい!」
エルツ様のもとで働くための懸念材料がなくなって、ホッと安堵することができた。
「その、エルツ様のほうのご用はなんだったのですか?」
「いや、昼間、契約を強制したのではないか、と思ってな。偽名を使ってまでも働いてくれるようで、安心した」
どうやらエルツ様は、私に断る機会をくれようとしていたらしい。
もしかしたら先にその話を聞いていたら、辞退していたかもしれない。
「まあ、契約にあるとおり、辞めたいときはいつでも言ってくれ。すぐに破棄するから」
「ありがとうございます」
ひとまず頑張ってみよう。それでもしも務まらないようであれば、お役目を辞退すればいいのだ。
「エルツ様、私はいつ頃出勤すればよいのでしょうか?」
「いつでも。一週間後でも、半月後でもいい」
「でしたら明日、王宮へまいります」
期間が空いたら、せっかくの決心が鈍ってしまいそうだから、なるべく早いほうがいい。
いつでも構わないというので、さっそく出勤してみよう。
「服装など、規定はありますでしょうか?」
「あるにはあるが、明日はひとまず私服できてくれ」
「承知しました」
思っていた以上に長々と話してしまった。そろそろ切ったほうがいいだろう。
「エルツ様、本日はいろいろとお世話になりました。明日から、どうぞよろしくお願いします」
「ああ、わかった」
どうやって通信を切ればいいのか迷っていたら、想定外の言葉がかけられる。
「おやすみ、ビー」
その言葉を聞いたのは、何年ぶりか。かつて、両親が毎晩のようにかけてくれたものだった。
少し泣きそうになりながら、おやすみなさい、と返す。
エルツ様は淡く微笑んだのちに、通信を切ってくれた。
今日一日で、いろんなことがあった。
明日から大変だろうけれど、目的もなく暮らすよりはいい。
エルツ様の専属魔法薬師として、頑張らなければと気合いを入れたのだった。