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屋敷からの追放

 羊皮紙を開くと、そこにはすでにオイゲンの名が記入されていた。

 メイドがやってきて、ペンとインクを用意する。今すぐ署名しろ、というわけだ。


「おい、どうした? もしや、僕と離婚したくない、と言うんじゃないんだろうな?」


 その言葉を聞いて、ヒーディがくすくす笑う。

 何が面白いのやら、という気持ちしかこみ上げてこない。


「それとも、公爵夫人の座を降りるのが嫌なのか?」

「いいえ、そういうわけではありません」

「だったらなぜ、すぐに記入しない」

「突然すぎますし、それに」

「それに?」


 私はお祖父様にイーゼンブルク公爵家を守るように言われていた。

 それ以外にも、財産や使用人の管理はもちろんのこと、典薬貴族としての社交界での付き合いや、治療中の患者についても、任されていたのだ。

 それらのすべてを、ヒーディができるとはとても思えない。


「やはり、公爵夫人としての地位が惜しいのか! お前はそれを、三年もの間、ヒーディから奪っていたんだぞ!」

「奪う?」

「そうだ! 僕は彼女と結婚するつもりだったのに、お祖父様が許さないから――」


 何を言っているのか。オイゲンはお祖父様にヒーディを紹介しようとしていたことなど一度もなかった。

 ただ、私との結婚にひたすら難色を示し続けていただけである。


「いいから、つべこべ言わずにさっさと署名しろ!」

「いきなりすぎます。やりかけの仕事もありますし」

「バカか! お前ひとりでイーゼンブルク公爵家の仕事を回していたわけではないだろうが!」


 それに関しては、オイゲンの言うことは間違っていない。

 イーゼンブルク公爵家では、お祖父様の弟子だった薬師が大勢いる。

 私がいなくても、彼らがいれば典薬貴族としての名は保てるだろう。


「では、今後の仕事は工房長の指示に従って――」

「いいや、この屋敷のすべてはヒーディに任せるつもりだ。なんせ、ヒーディはありとあらゆる魔法薬の頂点とも言われている、〝エリクシール〟を作ることができるからな!」


 エリクシールというのは、作成がもっとも困難とも言われる魔法薬である。

 まず、材料集めがとてつもなく難しく、調合も非常に複雑だ。

 私もお祖父様が臥せってから毎日作っていたが、集中力が途切れるとあっさり調合を失敗してしまうほどである。


 魔法学校で成績最下位だったヒーディが、エリクシールを作れるわけがないのだが。


「信じていない、という顔だな。まあ、いい。お前の個人的な感情なんて、至極どうでもいいからな。とにかく、一刻も早く署名するんだ!」


 もうここまで言いだしたら、止めることなんてできないだろう。

 イーゼンブルク公爵家には私以外にも優秀な薬師は大勢いるし、幸いと言うべきか、他にも典薬貴族は存在する。

 街の人々が魔法薬に困る、という事態にはならないだろう。


「そういえば、お前、お祖父様から金や宝石を受け取っていないだろうな?」

「いいえ」


 お祖父様から受け取ったもっとも大切な財産は、魔法薬についての知識である。

 オイゲンも同じ物を受け取っているはずなのに、どうしてこうなってしまったのか。よくわからない。


「お前が所持するドレスや宝石は、すべてヒーディの物だからな! 一個たりとも持ち出すんじゃないぞ!」

「もちろん、そのつもりです」


 この屋敷にある物に対する執着はいっさい持ち合わせていない。

 むしろ、私のお古でいいのか、と問いかけたくなったが、新たな争いの種を蒔くことになるだろうと思ってぐっと飲み込んだ。


「だったら、離婚に応じるように」

「わかりました」


 あっさり従ったので、拍子抜けしたのだろうか。オイゲンは目を丸くしている。

 相変わらずヒーディは嬉しそうだった。


 本当にくだらない。そう思いながらペンを握る。すると、オイゲンがはっ! と呆れたように息を漏らす。


「お前のその緑色に染まった手は、いつ見ても気持ち悪いな!」


 緑色に染まった手とは、薬草の採取と調合によって汚れたものである。

 薬師ならば皆、このように緑の手を持っているのだ。

 当然と言うべきか、オイゲンとヒーディの手は緑色に染まっていない。


「しっかり手を洗って、手入れをするように言っていただろうが」


 爪の中まで入り込んだ薬草の汁は、洗った程度では落ちない。

 薬師ならば常識であろう知識も、オイゲンは持ち合わせていなかった。


 あれはいつくらいの話だろうか。

 かつての彼は私の手を握り「ベアトリスの手は働き者の手だ、とても美しい」なんて正反対のことを言ってくれた。

 当時の私はそれが嬉しくて、お祖父様から打診があった結婚を受け入れたのだ。

 けれども実際は本当に美しいと思っていたわけではなく、よく働く使い勝手のよい伴侶を手にしたかっただけなのだろう。


 彼の言葉の真意を見抜けなかった私が悪いのだ。

 何もかも忘れよう。そう思いながらインクを浸し、名前を書く。


 ――ベアトリス・フォン・イーゼンブルク


 彼とは親戚なので、離婚しても名前は変わらない。なんとも不思議な気分だ。

 オイゲンは羊皮紙を私から取り上げるように手に取り、にやりとほくそ笑む。


「はははは、あはははは! ついに、この忌まわしい結婚が解消されるぞ!」

「オイゲン、よかったわね!」

「ああ、ヒーディ、君のおかげだ」


 オイゲンとヒーディは抱擁を交わすだけでなく、私の目の前で熱烈な口づけまでし始めた。

 離婚承諾書を役所に提出するまで、私達はまだ夫婦なのだが。

 不貞行為を堂々と働く二人を前に、深く長いため息が出てしまう。

 そんな私の様子に気付いたオイゲンが、メイドに命じた。


「おい、この女をこの屋敷から追い出せ。一家の恥になるから、裏口から追い出すように」


 メイドは深々とお辞儀をしたあと、私の腕を取る。


「ベアトリス様、どうぞお外へ」

「……」


 どうやらすぐに追い出すつもりらしい。

 抵抗する気も起きず、立ち上がって裏口を目指す。


 オイゲンやヒーディも見送ってくれるようで、いちゃいちゃしながら私のあとに続いた。

 裏口の扉を開いて外に出ると、オイゲンが私に向かって旅行鞄を投げつけてくる。


「お前がお祖父様が死んでから着ていた、陰気くさい喪服は持っていけ! 縁起が悪いからな。あとは――」


 オイゲンはヒーディに視線を移す。

 ヒーディの手には離婚承諾書が握られていて、それを私に投げつけてきた。


「ベアトリス、これまでご苦労様。これからはこのあたしが、公爵夫人になるから、死なない程度に頑張りなさいね」


 そう言って、裏口の扉がバタン! と閉められた。

 がちゃん、と大げさな音を立てて施錠までされる。

 北風がひゅーっと吹き付けた。はあ、とため息を吐くと、白い息がふわりと漂う。

 空は曇天。凍えるような寒さだ。まるで私の心情を表すような空模様にも思える。


 ここにいても仕方がない。まずは役所に行って、離婚承諾書を提出しなければならないだろう。


 踵を返し、一歩踏み出したところ声がかかる。


『おい、ベアトリス、荷物をまとめてどこに行くんだよ。また薬草採取の旅か?』


 レースの首輪を付けた黒猫が、木の上から下り立った。 

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