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日直日誌

変身

作者: 葉月コノハ

 血塗れの手で日記をめくり、読み返す。いつからだったか書き始めて、今日にいたるまで欠かさず記し続けた自分の足跡だ。


 十二月十七日。十八日。十九日。手の震えをおさえ、その中に兆候(・・)を探し求める。

 二十日。二十一日。二十二日。二十三日。二十四日。それは徒労に終わった。そこには平和で幸せな日々が、間違いなく自分の筆跡でつづられているだけ。


 十二月二十五日、未明。今までもらった中でいちばん最低で最悪なクリスマスプレゼントと一緒に、私は独り、勉強机の椅子の上で体育座りをしてすすり泣く。買ったばかりの真っ白な寝間着は、血の赤でぐっしょりと染まっている。身体中を駆け抜ける激しい痛みに涙を溜めながら、どうして。どうして私がと意味のない問いを自問し続ける。嗚咽を呑み込むことしかできない自分は、ひどく矮小な存在。


 夜が明ける直前、泣きじゃくる私は(さなぎ)だった。羽化してしまうのがただただ怖い、一匹の蛹。


 **



 十二月二十五日、金曜日。三年C組四十二番の女生徒、若月瑠璃が欠席した。


「おい春樹、なに見てんだぁ?」

 クラスメイトに肩を叩かれ、はっと我に返る少年。彼はその空席に目を向け、終わることのない物思いに耽っていた。

「若月さんだろ? まったく、視線が露骨だぞ」

「ち、違うっての…………」


 石原春樹。彼は照れ隠しと言わんばかりに生物の資料集を開くと、ページの上に顔を伏せた。だがその表情は何かを思い詰めたかのように暗い。絞り出した声も低く、か細いものだった。

「さっき職員室で、先生たちが話してるの聞いちゃってさ。…………若月さん、胡蝶症(・・・)になったらしい」


 話しかけたクラスメイトは一瞬流そうとしたが、すぐに真顔になって、顔を上げた石原を見つめた。そしてその目がふざけてなどいないことを悟ると、言葉を失って黙りこくる。十秒間ほどまごついていた彼だったが、授業開始のベルが鳴ったのをいいことに、そそくさと自分の席に戻っていった。


 ここで石原が情報を漏らさなくとも、どうせ明日には学校中がその話題にもちきりになる。ここで胡蝶症とはそういう病気なのだ。誰もが奇異のまなざしを向け、面白半分に指をさす。




 胡蝶症。

 一億人に一人の確率で発症する奇病。


 発症一日目。左右の肩甲骨と腸骨が急激に伸長し、皮膚を突き破って体外に露出する。

 発症二日目~四日目。棘のように伸びた肩甲骨と腸骨それぞれの周囲に、まるで蝶の翅をかたどるように薄い膜が生成される。症状の名前である『胡蝶』は、この膜にちなんで名づけられる。

 発症五日目~七日目。形成された『翅』が鱗粉のような粉末で覆われる。この粉末は蝶のそれと同じく、色鮮やかなものである場合が多い。


 その珍しさゆえに、発症原因から有用な治療法にいたるまで多くが謎に包まれている。



 石原が開いたページには、当てつけのように色とりどりの蝶の写真が載っていた。鮮やかな青色の蝶につい視線を向けてしまい、彼は気まずくなって乱暴にページを閉じる。青。瑠璃。




 石原は蝶が好きでは無かった。その美しい容姿と裏腹に、飛び回る様子はたどたどしく、掴んだ指に力を籠めれば死んでしまう儚い生き物だからだ。中国やギリシャでは蝶は魂の象徴であるという話を、たしかどこかで耳にしたことがあるような気がするが、それが真実ならばまさにその通りだと彼は思う。


 死者の魂、ゆらりゆらり。飛び立つ蝶の姿がそれに重なり、その命を曖昧に散らす。


 だが彼が好もうが好まなかろうが、一週間後、彼の想い人は蝶になるのだ。




 **




 一月四日。受験を控えた生徒たちに与えられる休日は短く、学校はそそくさと再開した。若月瑠璃はまだ欠席を続けている。日数的には丁度、彼女が羽化(・・)を迎えた頃合いであった。


「なぁ春樹。見舞い、行ってみないか?」


 新年の挨拶もすることなく、神妙な面持ちのまま石原に話しかける男子生徒がいた。彼の名は大沢千尋。石原の旧友であり、相談相手。そして二十五日の朝、石原と言葉を交わしたあの生徒である。


「胡蝶症は珍しい病気だろ。ここら辺の病院じゃ対処できなかったみたいで、県立医大の附属病院に入院しているらしい」

「知ってる。三つ隣の駅だろ」

「行ったのか?」

 石原はじろりと大沢を睨むと、そっぽを向いた。

「…………行けるわけないだろ」

「どうして」

「どうしてじゃねえよ。どんな顔して行けばいいってんだよ。『お前も見物に来たのか』なんて言われるのがオチだ」


 年が明けて早々、隣のクラスの男子が数名ほど、面白半分で若月さんの様子を見に行った。石原が言っているのはその話である。だが彼らはその心の奥を見透かされたように、個室の扉を開けるなりこう言い放たれたのだそうだ。


見世物小屋(フリークショー)にでも来たつもり? 随分と高尚な趣味ね』


 男子たちは挨拶もせず、逃げるように帰っていったという。元々つっけんどんな物言いで有名な女の子だったが、病に臥せってからはさらに刺々しくなっているとも石原は耳にした。いちクラスメイトに過ぎない彼が彼女のもとを訪れたとして、何かが変わるわけでもない。


「でも春樹は冷やかしで行くわけじゃないだろ。あいつらとは違う」

「そんなこと若月さんに判るもんか。余計なことして嫌われたくない。それに…………」



 それに、の続きを石原は言えなかった。彼の意を汲んで、大沢も続きを促さなかった。

 それに、彼は興味があった(・・・・・・)のだ。もちろん心配なのは事実である。胡蝶症は難病を併発しやすいとも聞く。真剣に彼女の身を案ずるその一方で、彼は見てみたかった(・・・・・・・)


 美しい蝶の翅をその背に携えた、若月瑠璃の姿を。

 その姿は目に焼き付いて離れないだろうということは、見るまでもなく判り切ったことだった。



 **


「ガーベラだ。花言葉は希望、前進」

 大沢は帰宅後すぐに石原宅を訪ねてきた。彼の手には花束が携えられていた。


「要らないよ」

 一瞥で顔を逸らす石原。その煮え切らない様子を見かねて、大沢は畳み掛ける。


「なに意地張ってんだよ。入学式以来、三年越しの想いを伝えるチャンスだぞ。今精神的に一番やられてるのは若月さん自身なんだから、今こそ寄り添ってやらなくてどうする。ほら、男を見せろ」

「お前が持ってけよ千尋。まったく優しい奴だよ、お前はさ」


 石原は自嘲気味に言い捨てた。大沢はその言葉に大きくため息をつくと、彼の胸に花束を押し当てた。

「もし行かないんだったら、俺はお前との縁を切るぞ。お前が墓に入るまで、薄情者と罵り続けてやる」

「ああもう…………わかった。わかったよ」


 大沢の迫力に気圧され、彼は電車に乗り込んだ。通常は見舞いに花束は許可されない病院であるとのことだったが、胡蝶症は室内に花が置いてある方が体調に良いとされるため、例外的に許可された。


 若月の個室の前まで来ると、大沢は飲み物を買ってくると言って席を外した。気を利かせたつもりだろう。


「…………失礼します」

 おそるおそる扉を開ける。石原の視界に飛び込んできたのは、病室には似つかわしくない景色だった。部屋を埋め尽くさんばかりに並べられた、色とりどりの花、花、花。その中心で、黒髪の少女が顔をこちらに向ける。



「どうも、あの…………」


「見舞いに来てくれたの。ありがとう」

 石原の予想に反して、若月はさっぱりと彼を迎え入れた。視線が注がれた花束が恥ずかしくなって、押し付けるように差し出す。

「ガーベラです。花言葉は希望、前進…………らしいですよ」

「察するに、大沢君の差し金ね」

「…………あれ、バレました?」


 躊躇いがちに差し出した花束を、華奢な両腕がひょいと受け取った。思わず顔を上げ、そして彼はようやく、彼女の全身を見た。

「でもありがとう。わざわざ来てくれて」

 教室での彼女と同じように、含みを持たせた笑みを浮かべる若月。だがその姿は同じではない。入院着を身にまとった彼女は、鬱陶しそうに背中へ目を遣った。

「ほら私、名前瑠璃でしょ。気を利かせて翅も瑠璃色なの」


 上体を起こしている彼女の背中には、目を見張るほど美しい、大きく立派な瑠璃の翅が四枚。それはあまりにも本物の蝶の翅のようで、今にも飛び立っていってしまいそうな儚さを添えていた。彼は思わず、息を呑む。


「体調、大丈夫?」

 あまりじろじろ見ると気分を害してしまうかもしれないと思い、石原は目を逸らして口を開いた。若月はその様子にふっと笑うと、目を閉じる。

「冷やかし百パーセントで来てるわけじゃないんでしょ。追い返したりしないから安心しなよ。あ、そこの椅子」

 彼女は話の途中で思い出したように、部屋の隅に立てかけたパイプ椅子を指さす。


「座っていいよ」

「どうも……」


 大沢に焚きつけられていざ来たは良いものの、二人の関係性はあくまでクラスメイト。ここ一週間の学校の様子を話してしまえばすぐに話題など無くなってしまう。


「…………ここ、花の香りでむせ返りそうでしょ。母さんが毎日持ってくるのよ。別に花が無くなったって、死ぬわけじゃないのにね」


 花びらをちょいちょいとつつく若月は、花束の中から一本だけ取り出すと、傍らの空の花瓶の中に突き刺す。

「痛みとかは?」

「無いわ」


 彼女は即答した。嘘だった。今でこそ鎮痛剤で誤魔化しているが、出血も数日おきに繰り返す。見映えには美しい蝶の翅は、人間の身体にとっては本質的に異物なのだ。彼女の言葉に含まれたゆるやかな拒絶の意は、石原にももちろん伝わった。


「……学校は、いつごろに来れそう?」

 話題を逸らすべく、彼は明るい声で問いかけた。だが彼の意図に反して、若月は淋しさを湛えた目をそっと向ける。


「…………来て欲しい?」



 背後の瑠璃色が眩しい。胡蝶症のもっとも厄介な点は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ということだ。彼女が学校に戻ってくるときは、もちろんその四枚の翅も一緒である。


「僕は…………来て欲しい、けど」

 それを強制するのは酷である。街中から奇異の目に晒されるのは避けられない。

「まあ正直な話、退院できるのは卒業式の前後みたいだから、もう登校することは無いと思う」

「そっか………」

 安堵と落胆は混ざり合って、どろどろと石原の喉を塞いだ。取り繕う言葉をかけようにも喉につっかえる。



「…………失礼しまーす。大沢です、どうも」

 二人が無言になったところで、タイミングを見計らったかのように、缶ジュースを抱えた大沢が勢いよく病室の扉を開けた。


「俺もお見舞いに来たよ。お茶とジュースどっちがいい?」

「ジュースを頂くわ。この病気、身体が砂糖を欲するのよ。ほんものの蝶になったみたいでしょ」


 自嘲気味の彼女の言葉に大沢は黙って頷くと、桃の缶ジュースを差し出す。石原には緑茶を投げてよこすと、どこからか持ってきたパイプ椅子を石原の横に並べる。


「受験、どうするん?」

「一応受けるつもりでいる。共通テストまでに退院できると良いけど」


 若月も石原も大沢も、国公立の大学を受験する予定であった。受験を一か月後に控えた今は追い込みの時期。がむしゃらに勉強し続けて然るべき彼らであったが、その病室は緩やかな停滞の中にいた。


「大沢君はH大だったよね」

「家から通えるからな。若月はK大だったっけ。受かったら下宿するのか?」

「どうだろう。先のことはまだ、見えない」


 若月と大沢が話に花を咲かせている間、石原は部屋に並べられた本物の花に目を向けていた。そうしてぼうっとしているうちに、この部屋の違和感(・・・)に彼は気付く。花に覆い尽くされたこの部屋は、だが徹底して清潔なのだ。土一粒も無い。花に釣られる虫がいない。すべてはただ、若月瑠璃というひとりの蝶のため。


「------石原君は、勉強の調子はどう?」

「え、ああ…………まあ、ぼちぼちよ」


 石原も若月と同じK大志望である。が、若月は模試でも成績上位の常連であるのに対して、石原の方はあまり芳しいものではなかった。学校の先生も若月には太鼓判を押している。石原は今日の小テストにも苦戦する始末である。



「そうだ。三人とも合格できたらさ、K大の近くにある植物園に行かない?」

 若月は思いつきにぽん、と手を叩く。

「いいね。おい春樹、お前だけ落ちるなよ?」

「嫌味かっての。はいはい、受かりますよ」


 それはつかの間訪れた、取り戻された日常の景色のようであった。三人の交流はいままでほとんどなかったが、案外話はよく合った。ここが教室であれば、今からでも仲の良い友人になれたかもしれないと、そう思える瞬間だった。


 しばらくすると、若月の母親が見舞いに現れた。丁度いい時間だったので、二人はそこで引き上げることにした。




 **


 病院の消灯時間は早い。まだ眠くないというのに、部屋は暗闇と静寂に包まれる。


 暗がりに並ぶ花々は不気味ですらあった。私は逃げるように視線を逸らし、ベッドの上でうつぶせになる。枕に顔をうずめてしまえば、見たくないものを見なくても済む。



 もし私の背中に生えたモノが本物の蝶の翅であるならば、そう、幾分かはマシだろう。でもこれ(・・)はただの肉塊である。見た目こそ瓜二つであれど、骨と、皮膚と、肉の集積に過ぎない。その内実が醜さであることを、当の私は知っている。


 ネットを見れば、胡蝶症患者は天使のようだと褒める者もいる。妖精みたいだと羨む者もいた。だが現実はそうではない。クリスマスの日、突然押し付けられたこの贈り物に感謝したことなど一度もない。自由に空を飛ぶために神様が蝶に与えた翅は、私にとっては枷に過ぎなかった。


 中国やギリシャでは、蝶は魂を象徴である。単語の綴りすら同じである地域も多い。その二つの本質は同義なのだ。であるならばさしずめ、私は魂そのものである。



 はぁ、と大きくため息を吐き出し、目を瞑る。今日来てくれた石原君。いつだったか、彼が自分に好意を持っているという話を耳にしたことがあった。かつて真人間であった頃の私は、恋の対象であったかもしれない。だが今の私は誰が何と言おうと化け物だ。化け物が人間と恋に落ちるのは、安っぽい映画の中だけでいい。フランツ・カフカはグレゴールに幸せな結末与えただろうか。否、彼が受け取ったのは投げつけられた林檎だった。


 私が受け取るのもその類であろう、とぼんやりと思っている。



 **








「おい春樹、遅いぞ」

「悪い。寝坊した」

「お前すぐそこに住んでるんだろう。しっかりしろよ」


 今日は真夏日である。八月十四日の正午、彼ら二人は植物園にいた。

「いやぁ、まさかお前が受かるとはなあ」

「その話何回目だよ。良いから早く行くぞ」

 二人は入館料を支払うと、汗をぬぐいながら園内に入った。雲一つない快晴から逃げ、涼みを求めて木陰へ向かう。

「若月さんもいれば、良かったのにな」


 大沢はぽつりとつぶやく。


 三月の末日、彼女は帰らぬ人となっていた。予想外の大学合格に喜び、あれこれ手続きに追われていた石原がそれを知ったのは、丸一か月も後。高校の担任を訪ねた時のことであった。

 卒業してしまえば、たとえクラスメイトであろうとも近況を把握するのは難しい。特に若月瑠璃は、卒業後すぐに遠くの県の病院に転院してしまっていた。近況を把握しているのは担任くらいであったのだ。


 だがしかし、彼女の死を耳にしたとき、石原はほとんど驚かなかった。蝶と魂のイメージが常に重なっていたからだろうが、ああ、やっぱり(・・・・)とすら思ったのだ。病室の彼女の身にまとっていた儚さは恒久的な美しさではなく、終を目前にしてひときわ輝く蝋燭のそれであったのだと今になって思う。


 何日も何日も彼女の死を頭の中で反芻しても、それでも涙一粒出てきやしなかったのは自分でも驚いた。この悶々とした思いが頭の中から胃の中まで降りてきて、食欲がすこし無くなっていたのが唯一の変化といったところだろうか。自分の薄情さには、つくづく嫌気がさす。だが嫌気がさそうがささまいが、石原には後を追う度胸も無い。彼自身は、日常を歩み続けなければならなかった。カレンダーの日付に追われるようにとりあえずの日々をこなし、今日に至る。



 見舞いの日の約束は、一生果たされることはない。



「…………で、どうするよ。男二人で植物見て、楽しいか?」

「言い出しっぺは若月さんだろ。律義に集まってるだけ褒めてほしいよ」




 湿度の高い空気が纏わりつくこの感覚は、不思議と不快では無かった。

 蜜を求めて舞うミヤマカラスアゲハの瑠璃の翅が、二人の前を揺らめく。目で追うだけの勇気を、最後まで石原は持っていなかった。それが正しいかどうかは、今の彼にはわからない。

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― 新着の感想 ―
[良い点] オリジナリティがすごいです。 短編にしておくのはもったいない作品かと。
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