100人の母と1つの呪い
レーゼは天界に戻ると、自身の神殿に女神たちを呼び集めた。
乳白色の丸みを帯びた柱が並ぶ神殿の内部には美しい装飾が施され、床には煌びやかな絨毯が敷き詰められており、辺りには芳しい匂いを放つ香が焚かれていた。
だが、それら諸々のものが集まった女神たちの美の前には霞んでいた。
1人でも十分過ぎるほどに美しい女神ではあるが、およそ百人が一堂に集まった神殿内の光景は、あまりの艶やかさに目も開けていられぬほどだった。
理由も聞かされぬまま集められた女神たちは、ざわめき立っていた。
夫である大神ゼオナレスの不貞を忌み嫌って地上に降りた慈愛の女神レーゼ。
彼女がこれほど早く地上に戻ってくるとは、誰も思っていなかったからである。
レーゼがこの場に姿を現すと、ざわついていた女神たちは静まった。
レーゼは女神たちの前にある台座の前に進み、ゆっくりと口を開いた。
「本日あなたたち女神に集まってもらったのは、どうしても、あなたたちの力をお貸しいただきたかったためです。
今しがた、私は地上において、殿方に捨てられ命を絶った一人の人間の女を見つけました。
残念ながら、女の命を救うことは出来ませんでした。
ですが、身体には、新しい、別の命が宿っていました。
私はその生命をこの人形に移し、天界へ戻りました」
そこまで言うとレーゼは、人形を取り出し、頭上に差し上げた。
女神たちの視線がいっせいに人形に向けられた。
「この人形には、亡くなった女の、子どもの命が宿っています。
しかしながら、このままでは生きていくことが出来ません。
そこで、あなた達に力を貸してほしいのです」
レーゼの言葉に、女神たちは再びざわめき出した。
慈愛の女神レーゼと、その夫である大神ゼオナレスの仲はこのところ険悪になっており、それは誰もが知るところであった。
レーゼに力を貸すということは、ゼオナレスを敵に回すことにもなりかねない。
そのため、自らすすんでレーゼに力を貸そうとする女神は居なかった。
「どうしたのです?
憐れなこの子に祝福を与えようという者はいないのですか?」
レーゼは呼びかけたが、女神たちは静かに佇んだままだった。
「あなた方は、この憐れな子を見捨てようというのですか?」
レーゼはなお一層感情を露わにし、悲痛な声を上げた。
女神たちはやはり静まり返ったままだったが、少しの間の後、1人の女神が前に進み出た。
純白の衣装に身を包んだ、大神ゼオナレスと慈愛の女神レーゼの娘、女神シャナンである。
栗色のまっすぐに伸びた髪をなびかせながら進む女神の美しさは、居並ぶ他の者と比べても際立っていた。
顔や全身の均整だけなく、露わになった腕やその先の指までも、これ以上無いほどに整っていたが、垣間見える気品のためか、あるいは奥に見え隠れする芯の強さのためか、どこか近寄り難さを感じさせた。
「おお、シャナン、力を貸してくれるのですね」
レーゼの声は上ずっていた。
シャナンはレーゼの前に立つと恭しく頭を下げ、それから顔を上げると、ゆっくりと口を開いた。
「母上、たかが人間の子どもに私たち天界の神々が、そこまでする必要があるのでしょうか?
女は自ら命を絶ったのですよね?」
「シャナン、何ということを言うのです。
あなたは亡くなった女の悲しみや苦しみを理解できないのですか?」
レーゼは嘆くように言った。
「同情はいたします。
だからといって、私たちが一々気に留めていてはキリがありません。
そもそも、母上の子ではないのですよ」
感傷的な母とは対照的に、娘である女神シャナンの声や振る舞いは淡々としたものだった。
「ああ、何て薄情な」
レーゼはそう言うとうなだれ、手に持った人形を見つめた。
「この子には何の罪もありません。
それなのに、この世に生まれ出ることすら出来ないなんて・・・・・・」
言い終わらぬうちに、レーゼは人形の上に涙を落した。
女神たちはなおも静まり返っていた。
シャナンは大きなため息をついた。
その後、母であるレーゼの側に歩み寄り、母の手に自身の手を重ねた。
シャナンは、ここまでまったく見せなかった柔らかな視線を母であるレーゼに向けた。
「母上の干渉好きにも困ったものです。
ご安心ください。私が最初にこの子に祝福を与えましょう」
シャナンの言葉にレーゼは言葉を詰まらせ、娘である女神を見つめた。
シャナンはレーゼの手から人形を受け取ると、目の前にある台座の上にそっと置いた。
母であるレーゼのみならず、すべての女神たちの視線が女神シャナンと台座の上の人形に注がれた。
「私はこの子に健康な体を贈りましょう」
そう言うとシャナンは、優雅に上体を屈めた。
そして、台座の上に置かれた人形に、ゆっくりとその麗しい顔を近づけた。
シャナンはそのまま、人形に自身の唇を押しつけた。
女神全員が、その様子を見つめていた。
シャナンが唇を離すと、人形は見る間に生気を帯び、手足には関節が生じ、その先にはそれぞれ5本の指が現れた。
女神たちの顔に、驚きの色が浮かんだ。
シャナンは顔を上げ、女神たちの方を向いた。
「私の仕事は終わりました。
次はあなた達の番です」
シャナンは台座の上に目を移し、もう一度女神たちの方へと向き直った。
「この子には、まだ顔も無いのですよ」
シャナンの言葉に、まだざわめきが収まらぬ中、1人の女神が前に進み出た。
波打つ金色の髪に、宝石のように煌めく青い瞳を持つ女神だった。
頭上で輝くティアラから、すべての指に嵌められた指輪まで、派手に着飾ったその女神の振る舞いは、女神シャナン、さらにはその母である慈愛の女神レーゼよりもなお優雅に見えた。
その女神は、シャナンを斜め前方に見る位置まで進むと、立ち止まった。
整った顔立ちのシャナンに比べ、この女神の顔は、目も鼻も唇も睫毛さえも派手に思われた。
「おお、アルラ、あなたもこの子に祝福を与えてくれるのですか?」
レーゼの言葉を受け、女神アルラはその麗しい顔をわずかにそちらに向けた。
「ええ、お后さま。私もこの子に祝福を授けますわ。
美を司る女神の私ではなく、他の者が先にこの子に容姿についての祝福を与えたなら、この子が将来さぞや悲しむでしょうから」
アルラは、シャナンに一瞬目を、鋭い視線を向けた。
対するシャナンは少しも動じることはなく、顔もまったく動かさなかった。
アルラは台座の前に進んだ。
シャナンと同様、台座に置かれた人形を上から覗き込むと、ゆっくりとその顔を近づけた。
ウェーブのかかった金色の髪が彼女の顔に、さらには人形の上にかかったので、アルラは両手を自身の耳の前に添え、髪を首の後ろでまとめた。
アルラの白く艶めかしい首筋が露わになった。
「私はこの子に顔を与えましょう。
誰もが美しいと思うような顔を」
そう言うと、アルラは両手で髪を押さえたまま、ゆっくりと麗しい顔を人形に近づけ、そのまま口づけした。
アルラが唇を離すと、布の塊だった人形の頭部に、はっきりとした顔が現れた。
「なんて可愛らしい」
レーゼが感嘆の声を上げた。
慈愛の女神だけでなく、遠巻きに見ていた他の女神たちも声を上げ、同時にため息が漏れた。
それは赤子の顔であったが、とても愛らしく、表情は輝き、見る者の視線を惹きつけて離さなかった。
「アルラ、あなたに感謝いたします」
台座の前から退こうとするアルラにレーゼが声をかけると、
「このたびのこと、どうか、ずっと憶えておいてくださいませ」
アルラはやはり優雅な表情を浮かべて言い、そして、やはりシャナンに視線を投げかけた。
2人はお互いに目を合わせただけで、言葉は発しなかった。
アルラは女神たちの元へと戻って行った。
「この子に祝福を与える者は他にいないのですか?」
レーゼがさらに呼びかけた。
レーゼの娘シャナン、美を司る女神アルラ、2人の女神が祝福を与えたことで、他の女神たちも堰を切ったように、次々と台座の上の人形の前に進みだした。
「野山を獣よりも速く駆ける足を」
自身がすらりとした肢体を持つ女神はそう言うと、シャナンやアルラと同じく、人形に口づけした。
すると、人形の2本の足が先程よりも伸び、逞しくなったように見えた。
「私は普段は見えぬ翼を差し上げましょう」
別の女神はそう言って人形に口づけした。
女神の言葉通り、その翼は目に見えなかった。
「私は生涯不自由することが無い程の富を授けましょう」
豊満な身体を煌びやかなドレスで着飾った女神が、人形に口づけをした。
女神たちから次々と有形無形の贈り物が与えられた。
これを見ていた慈愛の女神レーゼは、感激の面持ちになっていた。
「私だけではありません。
この子に祝福を与えたものはみな、この子の母です」
女神たちからの祝福は、さらに続いた。
人形(すでに可愛らしい赤子の姿になっていたが)が置かれた台座の前には、なおも祝福を与えようとする女神たちが列をなしていた。
この列に並んでいる女神の一人が、ぽつりとつぶやいた。
「憐れな子どもだって?
これほどたくさんの女神の祝福を授かったら、他の人間どもはきっとあの子に嫉妬するに違いない」
すると、そのすぐ後ろに並んでいる女神が小さな声で、やはりつぶやいた。
「そうかもしれないね。
では、私は人間どもの嫉妬を少しばかり、かき消すものを贈ることにしようかね」
先に口を開いた女神はこれを聞き、後ろを振り返った。
そこには、この華やかな場所には相応しくない、くすんだ黒のヴェールに全身を包んだ女神が立っていた。
振り返った女神は不審に思ったが、ヴェールで顔が隠されていたため、それが誰なのか分からなかった。
前に並んでいた女神は顔を動かし、このヴェールの中を見ようとした。
ほんの少しだけ、隠された顔が視界に入った。
これを見た女神の顔は恐ろしさのあまり凍りつき、ふらつくように女神たちが並ぶ列から離れた。
黒いヴェールをかぶった女神は、何事も無かったかのように前に進んだ。
女神たちの祝福はさらに進んでいた。
慈愛の女神レーゼの顔は、嬉しさのあまり紅潮していた。
「なんて素晴らしい光景なのでしょう。
女神たち皆がこの子に祝福を与え、この子の母となるなんて」
ヴェールをかぶった女神はだいぶ前方に進んでいて、丁度、その前に立つ女神が祝福を与えようとしていた。
「私はこの子が、魔物に殺されることはない、という祝福を与えましょう」
そう言うと、その女神は他の女神と同じように台座の上の人形に口づけをした。
「魔物に殺されることはない、なんと素晴らしい祝福でしょう。
これでこの子は、病で死ぬことも、戦で死ぬことも、魔物に殺されることもありません」
女神レーゼの声は歓喜のあまり上ずっていた。
この子が病で亡くならないということも、戦で死なないということも、別の女神が与えた祝福である。
この時、ヴェールをかぶった女神がつぶやいた。
「ふん、間抜けな女だねえ。
病気や戦や魔物以外に、人が死ぬ理由はいくらでもあるんだよ」
祝福を与えた女神が台座の前から退き、黒いヴェールをかぶった女神の順番となった。
顔を隠したこの女神は、しずしずと台座の前に進んだ。
華やかな衣装に身を包んだ女神たちの中で、この女神の外見は異様に思われた。
集まっていた女神たちはこの女神から距離を置き、遠巻きに見ていた。
ヴェールをかぶった女神はゆっくりと、裾を絨毯に引きずりながら前に進んだ。
慈愛の女神レーゼはこれまでと変わらず、笑みをその柔らかな顔に浮かべていたが、娘であるシャナンは、この女神を注意深く見ていた。
やがて、ヴェールをかぶった女神は、台座の前に進んだ。
すると女神は、頭からすっぽりかぶっていたヴェールを外した。
女神の顔が露わになった。
遠巻きに見ていた女神たちは、アッと声を漏らし、一斉にざわめきだった。
睨まれれば凍りつきそうな恐ろしい目、特徴的な長く大きな鉤鼻、顔全体には深いしわが幾重にも刻まれ、頬の数カ所にあばたがあった。
ぎょろりとした2つの目が、ぐるり周囲を見まわした。
鋭い眼光で睨まれた女神たちは、恐ろしさのあまり震え上がった。
「おまえは嫉妬の女神ジギル、どうしてここにいる?」
女神シャナンが凛とした声を上げた。
「おや?私がこの場に居てはいけないのかえ?」
ジギルと呼ばれた女神は、その顔に笑みを浮かべていた。
背筋が凍りつくような笑みだった。
「おまえのような者を呼んだ覚えなど無い」
シャナンの口調が激しくなった。
だが、女神ジギルはにたにたと笑うばかりで、まったく動じなかった。
「シャナン、落ち着きなさい。
せっかくいらしてくださったのに失礼ですよ」
母である慈愛の女神レーゼは、優しくシャナンを諫めた。
「母上、このような疫病神、さっさと追い出しましょう。
必ずや災いをもたらすに違いありません」
シャナンは堪え切れず叫んだが、レーゼは首を横に振った。
「そのようなことを言うものではありません。
彼女もまた、女神の一人なのですよ。
私たちが心を尽くして接すれば、災いなどもたらされるはずがありません」
シャナンはそれでも引こうとはしなかったが、ここでジギルが口を開いた。
「さすがは大神ゼオナレスの后であるレーゼさま、よくわかっていらっしゃる。
私が災いをもたらすなど、あろうはずがない。
ところで、せっかくこのような場に来たのですから、私も可愛らしいこの子に祝福を与えたいと思うが、よろしいかな?」
「ええ、もちろん、お願いいたします」
レーゼはすぐさま、うなずいた。
「母上!」
シャナンはなおもレーゼに詰め寄ったが、レーゼは自身の言葉を覆そうとはしなかった。
「レーゼさま、あなたはこの子に祝福を与えた者は皆、この子の母だとおっしゃいましたよねえ?」
ジギルの声に、シャナンは振り返った。
台座の前に立つジギルは、不敵な笑みを浮かべ、レーゼを見ていた。
「ええ、言いました」
レーゼは柔らかな微笑を浮かべ、答えた。
「承知したよ」
そう言うとジギルは、赤子にその異様な顔を近づけた。
さらに、その大きな目で台座の上の人形をじっと見た。
今にも、取って食うのではないかとさえ思われる顔だった。
「私はとっても悪い母親だよ。
おまえを見捨てて死んだ、おまえの母のように」
ジギルの口元に、歪んだ笑みが浮かんだ。
「悪魔め」
シャナンはジギルを止めようと飛び出した。
だが、シャナンが台座の元に着くより早く、ジギルが言葉を言い終えた。
「それでは、この私は・・・・・・、この子を愛した者が、必ずや不幸になるという宿命を授けることにいたしましょう」
ジギルの言葉に、シャナンの動きが止まり、見守っていた女神たちも凍りついた。
ただ、慈愛の女神レーゼだけが、
「なんということを言うのです」
血相を変え、悲痛な叫び声を上げた。
だが、嫉妬の女神ジギルはそちらに顔を向けることもなく、そのまま台座の上の人形に口づけをした。
長大な鼻を脇にどけるようにして。
神殿内は静まり返っていた。
ジギルの口づけの時間は永遠に続くかと思われた。
やがて、ジギルは人形から唇を離し、顔を上げた。
そして、満足したように神殿内を見回した。
女神たち全員が、呆然とした表情を浮かべていた。
「たとえ、神であろうと人間であろうと、男であろうと女であろうと、この子を愛した者は誰であれ、決してこの宿命から逃れることは出来ぬ。
祝福を与えたこの私が、この世に存在している限りはな」
静まり返っていた女神たちが、ざわめき出した。
嫉妬の女神ジギルはにたりと笑うと、台座の前を離れ、この場を立ち去ろうとした。
すでに、ジギルの後に並んでいる女神は居なかった。
ジギルは数歩進んだところで足を止めた。
ジギルの前に、慈愛の女神レーゼが立っていた。
自身の首の下に両手を重ねて置いた女神は、ひどく取り乱していた。
「ジギル、お願いです。
今の言葉、取り消してください」
レーゼが必死に懇願した。
「レーゼさま、私があの子に与えた祝福は、もはや私自身でも取り消すことは出来ませぬ」
「あんなものが祝福だというのですか」
レーゼが語気を荒げ、ジギルに詰め寄った。
ジギルは自身の胸に手を当て、不敵な笑みを浮かべながらうなずき、
「この子の母親である私からの祝福でございます」
そう言うと、ざわつく女神たちの方へ歩いて行った。
女神たちは、波が割れるように脇へとよけた。
ジギルは振り返りもせず進み、神殿から姿を消した。
直後、ふらつき倒れそうになった慈愛の女神レーゼを、娘である女神シャナンが後ろから支えた。
「ああ、何ということでしょう」
レーゼはシャナンに身体を預けたまま、額に手の甲を当て、天井を仰ぎ見て嘆いた。
「母上、あの子のことは諦めましょう。
よいではありませんか。あの嫉妬の女神の祝福、いえ、呪いを除けば、赤子は大きな幸運を約束されたのですから。
母上はあの子に十分過ぎる程の施しをなさいました」
シャナンの言葉にレーゼは首を横に振った。
「いいえ、それではあまりにもあの子が可哀そうです。
私はあの子を愛します」
「そんなことをすれば、ジギルの呪いで母上に不幸が訪れることになります。
考えてもみてください。あの子は母上の実の子でもなく、たまたま拾っただけなのですよ。
人間の子どもにそこまで肩入れする必要などありません。
あの子は一生、他の者から離れて一人で暮らせばいいのです」
シャナンは強く言ったが、レーゼは首を横に振るばかりだった。
「他者の愛を知らずに過ごすなんて、あまりに空しい。
かまいません。私は、私だけはこの子を愛します。
それによって、私にどんな不幸が降りかかろうとも」
レーゼは身体を起こし、台座の上に目をやった。
人形は、すでに赤子の姿になっていた。
愛らしい赤子は無邪気な笑顔を浮かべ、レーゼとシャナンを見ていた。
レーゼは目を細めて赤子に微笑み、シャナンはただ、じっと赤子を見つめていた。