対立する2人の麗しき女神
天界の女神シャナンは父である大神ゼオナレスの命を受け、王の間へと続く廊下を早足で進んでいた。
純白の衣装にその身を包んだ女神の容姿は均整がとれていると同時に、清廉な神々しさに満ちていた。
まっすぐに伸びた茶褐色の髪の下には綺麗な輪郭の顔、さらに、その顔の部位の一つ一つは、整いすぎるほど絶妙に整っていた。
そして、女神の2つの瞳は、朝の光を受けた宝石のようにまばゆく輝いていた。
父ゼオナレスの元へ続く廊下は延々と伸びていたが、歩を進める女神はうんざりしてはいなかった。
シャナンが父ゼオナレスに呼び出されることは滅多にあることではなかったが、彼女はこの時をいつも心待ちにしていた。
背筋を綺麗に伸ばした見惚れる姿勢のまま、長い廊下を進む女神の視線はまっすぐ前方に向けられ、その表情はほとんど変わらなかった。
だが、結んだ口元がわずかに緩んでいることで、厳粛な印象の中にかすかな柔和さを醸し出していた。
女神はようやく、奥の扉の前に辿り着いた。
建造物の内部にあるにも関わらず、王の間の扉は見上げるほどに大きかった。
シャナンは一呼吸置いた後、扉に向かい、凛とした声を上げた。
「父上、娘のシャナンがただいま参りました」
一瞬の間を置き、重々しい音を立てて扉が内側へと開いた。
シャナンはゆっくりと数歩中へ進んだ。
弾んだ足取りになりそうなところを、どうにか堪えた。
シャナンの入った位置からゼオナレスの玉座へはまだだいぶ距離があった。
それにもかかわらず、彼女の足はそこで止まっていた。
わずかな時間ではあったが、彼女の聡明な頭が混乱した。
彼女の視界に、あり得るはずのない光景が飛び込んできたからである。
ゼオナレスが座っているはずの玉座には誰も座っていなかった。
父である天界の支配者は気まぐれなので、シャナンにとって、これは想定できないことではない。
彼女を動転させたのは、ゼオナレスの玉座の隣の席、本来はゼオナレスの后でシャナンの母である慈愛の女神レーゼが座るはずの席に、別の者が座っていたことである。
シャナンはすぐには声を発することが出来なかった。
その場所を占有していたのは、女神アルラだった。
波打つ金色の髪を持つこの美しい女神は、剥き出しとなった両脚を絡ませるように組み、深く腰掛けたまま、頬杖をついてシャナンを見ていた。
目線の高さでいえば、立っているシャナンの方が上のはずだが、アルラは低い位置から見下ろすようにシャナンを見ていた。
美を司る女神だけあり、アルラの姿は煌びやかで優雅だった。
その美の質は、シャナンのそれとは異なり、両の瞳はより大きく、鼻はより高く、唇はより厚く、顔の輪郭も整ったシャナンと比較して若干のくせがあった。
さらに、清楚な雰囲気のシャナンとは対照的に、頭部に銀色のティアラを冠し、側頭部には藍色の長い鳥の羽が飾られていた。
太腿までを覆い隠す短めのドレスはまばゆく七色に輝き、細い手首には腕輪が幾重にも連なり、その先の5本のしなやかな指には、それぞれ異なる宝石が配された指輪をはめていた。
しかし、そうした装飾すら霞むほどに、この女神が持つ生来の美はまばゆく、際立っていた。
これが、多くの神々が最も美しいと認め、ほぼすべての男性の神々を虜にする女神の姿である。
「よく来たわね、わが娘」
この美しい女神はそう言うと、シャナンに視線を向けたまま、脚だけを組み替えた。
わずかな間ではあるが、沈黙が生じた。
シャナンは最初にこの光景を見た時、父ゼオナレスが考えた悪い冗談かと思ったが、すぐに、そうではないらしいと考え直した。
重苦しい空気が流れる中、シャナンが口を開いた。
「私は父の命を受け、こちらに参りました。
しかし来てみれば、父ゼオナレスは不在で、何故かあなたが居る。
しかも、父ゼオナレスの妻である王妃レーゼの席に座って。
どういうことなのか、説明していただけますか」
シャナンは立ったまま、上目遣いにじっとアルラの顔を見据えた。
アルラはフッと鼻で笑うと、シャナンから一度目を逸らし、再度シャナンに目を向けた。
「私があなたを呼んだのよ。だって、私はあなたの父であるゼオナレスさまの正式な妻になるのだから。
私の言葉はゼオナレスさまの言葉も同じ。憶えておきなさい」
「気でも狂われたのかもしれませんが、わが父ゼオナレスの妻は慈愛の女神レーゼ、わが母にございます。
たしかに、現在の彼女はゼオナレスとともに暮らしてはいませんが、わが母レーゼがゼオナレスの后であることに変わりありません」
アルラの言葉に対し、シャナンはすぐさまそう言った。
淡々とした口ぶりだった。
一方で、アルラは不敵な笑みを浮かべたままだった。
「ええ、今はまだ、ね。
でも、じきにそれは変わるわ」
「じきに変わる?
どういうことでしょうか、それは?」
落ち着いた口調の中に、シャナンの感情の一端が垣間見られた。
「この天界を統治する気高きゼオナレスさま。
ああ、あなたの父君でもあったわね。
彼が私に約束してくださったの」
「約束?何を?」
シャナンは間髪入れずに尋ねた。
アルラはシャナンから目を逸らした。
焦らすように間を置いた。
「知りたい?」
シャナンは口を開かなかった。
ただ、じっとアルラを見据えていた。
その視線はさらに険しいものになっていった。
アルラはこのシャナンの様子を見るのを、楽しんでいるかのようだった。
「妻であるレーゼ様と別れること。
そして、空位となった王妃の座に私を迎え入れること。
この2つを私に約束してくださったのよ」
アルラは嬉しそうに言い、必死で笑いを押し殺そうとしたが、かすかな笑い声が紅い唇から漏れた。
話しながら感極まったのか、大きな瞳は潤んでいた。
「そのようなこと、あるはずがございません、絶対に」
シャナンは強く言い放った。
が、アルラはすぐさま釘を刺すように言った。
「そう思うのなら、ゼオナレス様に直に訊ねてみることね」
シャナンは何も言えなかった。
アルラは、自身が腰かけている王妃の席を見回した。
「この椅子には長いこと誰も腰かけていないようね。
このままでは錆びついてしまうわ。
誰かが座ってあげないと。
もちろん、天界の支配者の妻にふさわしい女性でなければならないけど」
「私はあなたを母とは、天界を治めるゼオナレスの后とは決して認めません」
アルラがシャナンから視線を背けがちなのに対し、シャナンの視線はアルラの顔にずっと向けられていた。
アルラは顔を上げた。
2人の美しい女神の視線が交錯した。
アルラの口元には笑みが浮かび、シャナンの唇は強く固く結ばれていた。
「あなたがどう思おうと勝手だけど、私がゼオナレスさまと結婚することは決まっているの。
つまり私はあなたの母になるのよ。
そして、今後、私の言うことには全て従ってもらうことになる。
さっきも言ったように、私の言葉はゼオナレスさまの言葉も同じなのだから」
アルラの言葉に、シャナンは首を横に振った。
「私はあなたのような方になど、絶対に従いません」
シャナンの言葉からは強い意志が感じられた。
一方で、冷静さもまだ失われてはいなかった。
「私の言うことが聞けないというの?
何度も言うように、それはゼオナレスさまの言葉を聞かないのと同じこと。
ゼオナレスさまへの反逆とみなされるわね。
そのような不届き者には罰を与えなければならない。
特別に重い罰を」
アルラは頬杖をつき、首を傾けたまま言った。
「私があなたを父の后として、また、私の母として認めることは決してありません。
従って、どこの馬の骨とも知れぬ者の決めた、荒唐無稽な罰など受けるつもりは毛頭ありません」
まったく自分に従おうとしないシャナンに、アルラは初めていらつく表情を見せた。
「どうしても、私の言うことが聞けないというのね」
「はい。
下品な振る舞いで、王妃の座を盗み取ることを恥ずかしいとも思わぬ者の戯言など、聞くに値しません」
この言葉に、アルラは眉を吊り上げ、恐ろしい形相でシャナンを睨みつけた。
「何よ、自分は父親を肉欲の対象と見ているくせに。
私にゼオナレスさまを取られるのが悔しいんでしょ」
アルラはヒステリックな声で言った。
「何をおっしゃっているのでしょう?
私は永遠に誰とも結婚しないという誓いを立てています。
そんなことがあろうはずがありません」
「どうだか」
アルラは吐き捨てるように言うと、横を向いた。
感情を露わにしているアルラに対し、シャナンは冷静な表情を浮かべていた。
「ところで父は?
ゼオナレスはどこに居るのです?」
シャナンはわずかに顔を動かして広間を見回した。
言葉を交わしている2人以外、王の間には誰も居なかった。
「ゼオナレスさまは下界にいらっしゃったわ」
「下界に?」
アルラはまた脚を組み替え、上体を少し前に傾けた。
「ゼオナレスさまったら、人間の女なんかと浮気してらっしゃったのよ。
わが夫となる方だというのに、恥ずかしいかぎりだわ。
本来なら、その女を八つ裂きにするところだけど」
アルラはそこまで言うと、シャナンに視線を向けた。
シャナンは変わらずアルラをじっと見据えていた。
「ゼオナレスさまが、どうしても、と言うから、命だけは助けることにしたわ。
その代わり、その女とはきっちり別れてもらうことにした。
今、その女と会われてるはずよ。地上でね」
アルラはおおげさにため息をついた。
「それにしてもゼオナレスさま、長いことお気の毒だったわ。
お后さまに魅力があったなら、浮気などせずに済んだのに。
しかも、よりにもよって人間の女なんかと。
あら、ゼオナレスさまのお后さまはあなたのお母さまでいらっしゃったわね。
私としたことが失礼なことを。
ごめんあそばせ。
でも、言ってもいいわよね。
もうじきお后さまではなくなるんだから」
シャナンは何も言わず、じっとアルラの顔を見据えていた。
一方で、アルラは勝ち誇ったように、うっすらとその口元に笑みを浮かべていた。
「私がゼオナレスさまの妻となったなら、絶対にあの方の目を他の女になど向けさせない。
必ずつなぎとめて見せるわ。
だって、私はこの世で一番美しいんだから」
アルラは波打つ金色の髪を、片手でかき上げた。
「そして、おまえには必ず私に従ってもらう」
キッとシャナンを睨んだアルラの顔は、美しくも鬼神のごとき恐ろしいものになっていた。
だが、アルラの言葉を聞いて、シャナンが怯むこともなかった。
「何度も言っていますが、私があなたに従うことなど決してありません」
シャナンの言葉にアルラはうんざりしたような表情を浮かべ、再び脚を組み替えた。
「強情な女ね。では、こうしましょう。
ゼオナレスさまご自身に決めていただくの。
ゼオナレスさまにとって大事なのが、正式な王妃であるこの私なのか、それとも別れて用済みとなった元妻の娘なのか。
ゼオナレスさまがお決めになったことなら、お互い文句は無いでしょう」
シャナンは何も言葉を発せず、アルラに背を向けた。
そして、そのまま扉に向かって歩き出した。
「娘が母の前から退出するのに何も言わないつもり?
挨拶ぐらいしたらどうなの?」
シャナンの背後で声がした。
アルラは立ち上がっていた。
シャナンは一瞬だけその場に立ち止まった。
が、再び歩き出すと、そのままこの部屋を後にした。
純白の衣装に身を包んだ女神は、一度も後ろを振り返らなかった。
「どこまで失礼なの!
でも、愚かな女。
これで邪魔者を始末する口実が出来たわ。
消し去ってやる。
私の目の前から。
永久に」
アルラは王妃の椅子に再び腰を下ろした。
そして、口の端を歪ませ、音も立てずに笑った。