身投げした神の妾
「どうして私を捨て置いて、他の女と夜をともにするのです?
ゼオナレスさまは私だけを愛するとおっしゃったではありませんか」
夜更けの寝室に男と女が居た。
床から上体だけを起こし、身体をひねって男を見上げる女の顔は、汗ばんだ長い髪に隠れ、蝋燭の灯りの下でも、はっきりと見ることは出来なかった。
だが、その声から、年がかなり若いことがうかがえた。
女が見上げる先には、見た者が途端に体を硬直させるような、威厳に満ち溢れた男の顔があった。
その長い髪や髭はすべて白く、背丈のみならず齢も女より遥か上、親と子、いや、それ以上の年の差があるように思われた。
この老齢の男の姿だけが暗がりの中でもよく見えたのは、男の全身から光が放たれていたからである。
神々しいとさえいえる光だった。
男の光に包まれた姿と、影となってはっきり見ることが出来ぬ女の姿とは、ひどく対照的だった。
2人の関係性、さらに2人の今後を暗示しているかのように。
「もう2度と私から離れないでください。
どうか、ずっとここに、私の元に居てください。
それが叶わないのなら、私も一緒に天界に連れて行ってください」
男と女、それぞれの相手への態度には、かなりの温度差があり、男は女を疎ましく感じているように見えた。
しかし、切羽詰まっている女は、それに気づいていなかった。
女はさらに身体を起こすと、男の腰のあたりに華奢な両腕を回し、すがりついた。
それでも、男の顔つきは変わらなかった。
「悪いが、それは出来ん。
わしは天も地も統治する天界の大神で、おまえはただの人間だ。
おまえと結婚することなど出来ぬのだ。
たとえ、お互いがそれを望んでいたとしてもな」
「いや、いやでございます。
離れたくありません」
女は男の言葉に納得しなかった。
「もう、これ以上、おまえと暮らすことは出来ぬ。
わかってくれ」
男の発する言葉の響きからは、女に対する愛情は、もはや微塵も感じられなかった。
女は男の体から離れると、顔を伏せた。
すぐに、すすり泣く声が聞こえてきた。
一方で、男はうんざりした顔を隠そうともせず、さらけ出していた。
「おまえはじきにわしの子を産むであろう」
男が素っ気なく言うと、女は長い髪の下に顔を隠したまま、男を見上げた。
「私の身体にゼオナレスさまの子どもが宿っているというのですか?」
「神の子として、たくましく、美しく、賢い子どもとなるであろう。
大切に育てるのじゃ」
言い終わった時、男はその背をすでに女に向けていた。
「子どもが二十歳になった時、首の下、両肩の中央に星の形をした痣が浮かび上がる。
わしの子、天界を支配する神ゼオナレスの子である証だ」
それきり、男の声はしなくなった。
男の気配はすでに部屋の中から消えていた。
男が外に出る音はまったくしなかった。
男がこの部屋に入って来た時と同じように。
女はなおも泣き崩れていた。
夜が明け、太陽が天頂に昇っても、涙は頬を流れ落ちた。
女がようやく顔を上げたのは、陽が暮れ、辺りが闇に包まれた後だった。
「たとえ神の血を引いていようと、私を捨てた憎きゼオナレスの子どもなど育てられようか。
いや、この世に産み落とすことすら出来ようか。
こうなったら、この命を絶ってやる。
わが身体に宿るゼオナレスの子どもの命とともに。
それが、それだけが今の私の唯一の願い。
ゼオナレスへの復讐・・・・・・」
女はひざまずいたまま、上を向いた。
その顔は恐ろしいものへと変わっていた。
天界の大神ゼオナレスに別れを告げられた次の夜、女は崖の上からその身を投げた。
女の身体は崖の下の深い淵へと沈んでいった。
この様子を陰から見ている者が居た。
「気の毒なこと・・・・・・。
残念じゃが、このわしが生きている限り、災いの種がこの世から無くなることなどあり得ぬ」
しゃがれ声でそう言い、淵を見下ろしていたその者は、暗色の頭巾をすっぽりとかぶり、その素顔を隠していた。
しかし、その下から覗く大きな目は、異様にぎらつき、口元は歓喜の笑みを浮かべ、大きく裂けていた。