第三十八話:海の底に棲まう者
沈黙を守っていた海面が波打ち嵐のように暴れる。天候もさっきまで青空だったのにどんよりと薄暗くなり、パラパラと小雨が降ってきた。
荒れる海に船体が揺れてティルたちは落ちないように踏ん張る。そして海面からーーぬるりとおぞましい触手が這い出てきた。
それから全体が露わになったそれは、タコのような姿をした巨大な怪物だった。
「これがクラーケン……」
あまりの大きさに皆は絶句しながらも、恐ろしさよりもバーソロミューは凄絶に笑った。
〈私を呼ぶのは誰だ〉
『この声は、あのクラーケンの声なのか…?!』
クラーケンの声は直接頭の中に響いてくるような声だった。誰もが緊張で声が籠る。その中でバーソロミューは口を開けるのはやはり度胸があるのか。
「それは私めでございます」
クラーケンは声の主に気づいて、バーソロミューと話を交わす。
〈ほぅ、お前がか それで人間風情が私に何ようだ〉
普段であれば鉄砲をぶっ放しそうな発言だが、侮辱的な言葉に苛つきもしないのも、現時点では圧倒的弱者はバーソロミューの方だからだ。強かに好機を狙っていた。
「はい、是非あなたのその強大な力をお貸しいただけないでしょうか」
言葉は丁寧だったが、軟弱な人族のためにどうして力を貸さないといけないとクラーケンの癇に障る。
〈なぜ私がお前のような下等生物の言うことを聞かねばならんのか〉
バーソロミューは申し訳ないことと深く礼をした。
「はい、おっしゃる通りでございます お詫びとしてこの娘に歌を披露させていただきます」
バーソロミューはレーネスを前に出させた。
「さあ、お嬢さん 歌ってもらえるかね」
「は……はい」
レーネスは恐怖で声を震わせながら返事をした。その時エドワードとノアと目が合い、覚悟を決めた。
(私が守る エドワードくんとノアさんを)
息を吸い、呼吸を整えレーネスは歌い始めた。
その時世にも美しい歌声が響きわたる。その声を聞いたクラーケンは徐々に怒りが治り、穏やかになった。
〈この歌は何と心地よい 私の心を癒してくれる〉
クラーケンは大人しくなっていく、催眠状態となった怪物にバーソロミューは今が絶対の好機だと捉える。
それを見たリントは「やばい」と焦る。
「おいおい、あれじゃクラーケンと契約できそうだぜ?! あんなのと契約されたらたまったものじゃないぞ」
それぞれに緊張が走る。
「さあ、我がしもべとなるがいい 偉大なる海の怪物、クラーケン」
お互いの血の一滴を交わし、契約成立とすることができる。
クラーケンは普通の状態であればそんなこと聞かないだろうが、催眠状態となっている今は関係ない。
クラーケンは返事を返した。
〈いいだろう……私の血をとれ〉
クラーケンが触手を出そうとして、バーソロミューは前に歩み出す。
「やばいね、これは」
アルビダが魔法を展開しようとしたが、ロロノワが声を上げる。
「やめた方がいい、これが見えないかい」
「……っ」
「あいつ」
ロロノワの脅しに、アルビダ達も止めようとするが人質がいれば身動きができなかった。そしてあともう少しで触手が届きそうになった時だった。
クラーケンの触手がピタリと止まった。
「クラーケン、もう少し近づいてくれると助かるのだが」
優しく語りかけるがクラーケンは何も聞こえていない様子にバーソロミューは違和感を感じた。
それは何かを感じている様子だった。その直後、天候がまた急変する。
クラーケンが現れた時のように波が荒れて稲光がある光景に誰もが恐怖と不安に駆られた瞬間だった。
その時に、それは忽然と現れた。
海面から出てきたのは二つの目ん玉を持つ大蛇が現れたのだ。身の丈はクラーケンよりも小さいのだが、迫力があった。
けれど怪物のクラーケンの前に現れても堂々としていた。一方クラーケンはさっきの厳かさはどこへやら微動だに動けず萎縮していた。
催眠状態だったが恐怖の感情が勝り理性を取り戻したものの、クラーケンは後退していく。
〈そなたと争うつもりはない……っ〉
その様子はまるでガタガタと恐怖で震える子供のようである。そして、我先にと何処かへと消えていってしまった。
「おいっ、どこへ行くのだーー!?」
絶叫したバーソロミューは折角呼びよせたクラーケンがいなくなったことに言葉を失う。
(何故逃げていった……?! いや考えろ、クラーケンが逃げたと言うことはあれはもっと強いと言うことか……こうなれば)
レーネスを捉えたバーソロミューは彼女に口を開く。呆然としていたレーネスは悲鳴を上げる。
「ひゃ?!」
レーネスのいきなりの暴挙にノアとエドワードは非難の声を上げる。
「あんた何を」
「てめえっ」
クラーケンが去ってしまったことでバーソロミューの計画を崩れたが、また新たな計画を作り変えることにした。
それは残酷で身勝手な変更だった。
「予定が変わった この娘を生贄にしてあの怪物の契約を持ちかけよう」
「何だと……?!」




