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後編 + エピローグ

 涙を、止めることは出来なかった。

 溢れ続ける涙はぼくの声を静かに奪い、クオンに話したいと思うのに、言葉を口にすることが出来ない。

 そんなぼくをクオンはベンチに座らせると、温かい缶コーヒーを買って来てくれた。何も言わずに隣に座り、静かに寄り添ってくれる優しさが、嬉しくもあり切なかった。

 暫くして、クオンが静かに立ち上がった。

「風邪をひきます。…とりあえず家に帰りましょう」

 煌めく儚い雪が舞う中、ぼくらは言葉なく歩き始めた。




 家に戻ると、クオンが改めて温かい珈琲を淹れてくれた。

 台所に立ち無言で珈琲を淹れるクオンの姿を、リビングのソファに座ってぼくはただ静かに見つめた。

 クオンは何も聞かない。聞いてこない。

 ぼくから話すことを待ってくれているのは分かっていた。

 なのに、まだ言葉が上手く口に出来ない。

 それが止まらない涙のせいなのか何なのか、ぼくにはよく分からなかった。

 目の前のテーブルに珈琲の入ったカップが置かれ、ぼくはクオンを見上げた。

 クオンはぼくと目線を合わせることなく向かいのソファに座ると、そのまま珈琲を飲み始めた。

 カップから上る白い湯気だけが、静かな時の流れを感じさせる。

 ぼくもカップを静かに手に取り、その温かさを両の掌に感じてからゆっくりと口に含んだ。

 クオンの淹れる珈琲は、いつも少しだけ濃かった。

 ニーナが淹れる珈琲は少し薄めで、同じように淹れているはずなのに何が違うのかと、ニーナはいつも不思議がった。

 父の淹れる珈琲は完璧で、母が淹れる珈琲はいつも分量が適当だったから、逆に同じ味だった事は一度もなかった。信じられない程濃い日もあり、色が透けて紅茶のように見える日もあり、でもそれがいいのだと、父も母も笑っていた。

 珈琲一つで、蘇る記憶がたくさんある。

 在りし日の楽しかった記憶が、次々と蘇っては流れていく。

 そして、もっとずっと古い記憶も。

 欠けていた記憶全てが、今はぼくの中に戻っていた。

「ぼくには、血のつながらない兄がいたんだ」

 ゆっくりとそう口にすれば、それは静かにリビングに響いた。

「あまり楽しい話じゃないけれど、それでもクオン、聞きたいかい」

 クオンは何も言わずにぼくを見て、そしてゆっくりと頷いた。


 ぼくの一番最初の思い出。

 記憶にある限り一番古い人生でもあり、忘れていた記憶の源流。

 それは、兄に関する記憶の全てだった。




 ぼくには血のつながらない兄がいた。

 両親の顔は覚えていない。

 ぼくも、兄も、それぞれ小さい頃に教会の前に置かれていて、育ての親はその教会の責任者でもある父だった。

 教会は街から少し離れた丘の近くに建てられてた石造りの、それこそ二十人も入ればいっぱいになるくらいの、小さい古い教会だった。


 ぼくの身体が弱かったせいか、気付くと兄はいつも守るように傍にいてくれた。

 兄とはおそらく、二つか三つくらいしか違わなかったんだろうと思う。

 なのに兄は遊ぶ時も、祈る時も、食事の時も、眠る時も、いつでも守るように傍にいてくれて、ぼくはそれが嬉しかった。

 それはぼくにとってはあたりまえ過ぎる程に普通で、でも、とても大切な事だった。


 父はもちろん厳しい所もあったけれど、それでもいつも優しかったし、ぼくを取り巻く世界の全ては、優しい兄と父とで全てだった。

 街に住む人たちは皆とても優しかったけれど、それぞれがとても貧しくて、自分たちの生活を守ることに精いっぱいだった。

 だから教会と言っても通ってくる人は殆どいなくて、大抵は集会所代わりにされるか、人が亡くなった時に必要とされるくらいのものだった。


 七歳か八歳くらいになったある日、気が付いたら街から人がいなくなってた。

 いつもは傍にいてくれる兄もいなくて、教会に戻っても父もいなくて、ぼくは必死に辺りを探した。

 探して、探して、探して。

 普段は入らない丘の向こうの森まで探しに行って、それでも見つからなくてずっと遠くまで歩いた。

 身体が弱くて元々体力もほとんど無かったから、すぐに疲れて動けなくなった。

 それでも休み休みどうにかまた街まで戻ってきて、そこで、あまりの街の変わりように驚いた。

 全てが、燃えていたんだ。




 ぼくのいた街は畑は痩せていたし貧しくて、生活はとても苦しかった。

 それでも、農作物の収穫が全くない訳ではなかった。

 充分な量ではなかったし、お腹いっぱいになることなんて一度も無かったけれど、一日に一度は少ないながらも食事を取る事は出来ていた。

 お皿一杯分のスープと固いパン。

 それは、生きるのに充分な量では無かったけれど、すぐさま死に至るほどの飢えという訳でもなかった。

 やがては尽きる食料を、どうにか少しずつ削るように食べていたんだ。


 だけど、周りの街はもっとずっと酷かった。

 何日も何も口に出来ない日が続いていて、人が、バタバタと死んでいるんだって聞いていた。充分に雨が降らなくて、作物が全滅した街もあったらしい。



 何も収穫できない。

 何も口にする事ができない。

 だから、食べ物を少し分けて欲しい。



 取り巻く街から助けを求められているのだと、大人がそう言っているのを耳にした。

 最初のうちは僅かな食糧の中から分けた事もあったらしい。

 だけどその噂を聞いた他の街からも、うちにも分けて欲しい、いや、うちから先に。と、次から次へと求められて、さすがにもう分けられるものは無いのだと断れば、今度は怒りと憎悪が向けられた。



 まだ食料はあるんだろう。

 あの街には分けたのに。

 どうしてこちらには分けてくれないというのか。

 自分たちさえよければいいのか。

 こんなに頼んでいるのに。

 こんなにみんなが苦しんでいるというのに。



 分けてもらえないと言うのなら。

 こんなにお願いしてもくれないと言うのなら。



 力ずくで奪えばいい。




 余裕をなくした人々がそう思い至るのに、そんなに時間はかからなかった。




 各家にわずかに残る食糧をあらかた奪いつくした他の街の人たちは、奪うだけ奪ってから街に火をつけた。

 証拠隠滅の意味もあったのかも知れない。

 自分たちのやっていることに後ろめたさもあったのかも知れない。


 街が一つ消えたのは自分たちが食糧を奪ったせいなんかじゃなくて、火がその全てを奪ったのだと、まるで事実を覆い隠すように街を丸ごと火で包んだ。

 教会は石造りだったから火を放たれることはなかったけれど、その代わりに中は荒らされ祭壇は壊され、十字架も無残に砕けた。




 まだぼくは小さかったから、その時は一体何が起こったのか全然分かってはいなかったけれど、それでも全てが終わった事は、何となく理解していた。

 父も、兄も、街の人たちもみんな一人残らず。

 死んでしまったんだって思った。


 どうして自分だけがここにいるのか、それだけがぼくには理解出来なかった。


 どうしてここで一人残されているのか。

 どうしてこんな時に限って兄は傍にいないのか。

 今思い返しても、それはぼくにも分かならない。何か理由があったんだろうとは思うけど、もうそれを知る術はなかった。

 とにかく、ぼくはもう何も考えられなくなってた。少し前まで傍にいた兄や、父や、貧しいなりにも優しく笑っていた街の人たちが全て、失われてしまった。

 もう、どこを探しても何もない。

 誰もいない。

 それだけが事実で。



 その時のぼくにはそれだけで充分な絶望だった。




 気付いた時には丘の一番上にある木の根元で、目の前に広がる森を見下ろしてた。

 どのくらいの時間が経ったのか分からなかった。数時間のような気もするし、何日も経ったような気もしてた。

 だけど、振り返れば燃える街が見えるその場所で、ぼくは反対側の森の方へ足を投げ出して、木に背を預けて座り込んだままずっと長い間、空と森だけを見ていた。




 いつもその場所で兄と二人、森を眺めて過ごしてた。

 街の向こう側から朝陽が昇るのを、兄と一緒に、あくびをしながら見ていた。

 森の向こう側へゆっくりと夕陽が沈んでいくのを、何度も寄り添いながら眺めてた。

 夜の星空も見上げた。

 流れる星の光も、丸くて大きな白い月も、色々な景色を兄と二人で眺めてた。




 その頃は、『月』とか『太陽』とか『星』なんて、そんなふうには理解してなかったから、ただ白く輝く光を、兄と二人で色々な事を想像しながら見上げてた。




 丸い月を見て『あれは天の国の扉だよ』って、ぼくに教えてくれたのは、兄だった。


 あれは天の国からぼくらを見下ろすために開けられた、神さま専用の扉で、それは何日もかけてゆっくりと開き、ゆっくりとまた閉まっていく。

 丸く見える時は扉が広く開いていて、そんな時は天の国の光がぼくたちのいるところまで力強く届くから、だからすごく綺麗に光って見えるんだよ。


 そう言って笑いながら、兄が、その光の食べ方を教えてくれた。




 天からの恵みの光だから食べればきっと良いことがある。

 お腹いっぱいにはならないけど、きっとすごい力になる。

 たくさん良い事が起こるよ。


 兄はそう言って笑ってた。


 今ならそれが優しい作り話だったんだろうって、それは理解しているよ。お腹を空かせた子供が考える、夢のような話だって。

 でも、それはぼくにとっては本当に、兄と二人で過ごす奇跡のようなドキドキする、とても楽しい時間だった。




 そんな風に兄と二人で過ごした丘の上で、兄と楽しく見ていた森や景色を、あの時と同じように見ているはずなのに、一人で見下ろしていたその時は、どこか酷く冷たくて色を無くしたように見えてた。

 空を見れば雲一つない青空で、真っ白な丸い月が一つ、真上に輝いてた。

 本当なら兄と二人で見上げて、今夜あたり食べようかって、そんな話をするほどの大きさの丸い月が浮かんでた。

 だけど、もう月を食べる元気さえも無かった。

 兄がいない。父もいない。

 誰もいなくなったこの街で、ぼくは何もせずただ一人で空を見上げてた。




 その時、雲一つない青空に、何かが光ったような気がしたんだ。




 わずかに首を傾けて、ぼくは光の方へ顔を向けた。

 小さな光は、まるで青空から降る白い雪みたいに、あちこちでキラキラと輝いてた。

 それが空一面に広がって、はっきりと見えるようになってくるとそれが真っ白な羽根だって分かった。

 信じられないくらいに、それは綺麗な景色だった。


 青空に広がる、無数の純白の羽根。

 その真上には天の扉である月が、丸く大きく輝いている。



 ああ、これはきっと天からこぼれてきた光なんだ。

 天の国の人たちは背中に翼があるって言うから、きっとあの扉からその羽根がこぼれてきたんだ。


 その時ぼくはそう思ったてた。


 見たことがないくらい透き通ったその白い羽根は、見上げた空一面に広がっていて、真っ青な空一面に、羽根自体がまるで輝きを放っているみたいに輝いて見えた。

 今まで見てきた景色の中で一番綺麗で、美しかった。

 だから。

 兄にも見せたかったなぁ。って、そう思ってた。


 空を舞う無数の羽根の一つが、ふわりとこちらに向かって降りてくるのが分かった。

 ヒラリ、ヒラリと舞いながら落ちてくるその羽根は、ゆっくりとぼくの目の前を横切り、投げ出したままだったぼくの左手の上に舞い降りた。

 だけど、手のひらには何の感触も無かった。

 何かが触れたような感じもなければ、熱くもないし、冷たくもない。

 不思議に思って手のひらを目の前まで持ち上げようとしてみると、あれほど動かすことが難しかった手足に僅かに力が戻って、すっと腕が持ち上がった。

 目の前でしっかりと羽根を見つめると、先ほどまで見たことがない程真っ白に思えていた羽根なのに、どこかくすんだような色に思えた。

 光の加減だろうかと手の角度を変えてみてみても、羽根の色は先ほどよりも少し灰色がかっているように思えた。

 不思議に思いながら見ていると、どこからか、ぼくの名を呼ぶ声が聞こえてきた。

 ずっと聞きたくて聞きたく仕方がなかったその声。

 聞き間違いじゃないだろうかって耳をこらしていると今度は、はっきりと聞こえた。

 先ほどよりもずっと近くで呼んでいた。

 丘を登ってくる気配もする。

 いつもぼくがここにいると、ぼくの名を呼びながら息を切らせながら走ってくる兄の声。その気配。

 すぐそばで、呼び声が聞こえた。

 覗き込むように回り込まれて、ようやくぼくは兄の姿を目にした。

 見慣れた服はあちこち黒く煤けていて、擦れてあちこち破けてた。

 あの火の中を走ったのか、服だけじゃなくって顔や髪も黒く煤けていて、皮膚も赤くなってた。

 酷い有様だったけど、兄が無事だった事が嬉しかった。戻って来てくれたんだって、そう思ったら嬉しくて、それまで苦しかった事とか悲しかった事が、全部嘘みたいに消えていった。


 今までどこに行ってたの?

 どうしてぼくを一人にしたの?

 父は、街の人は、みんなは一体どうしたの?


 聞きたいことはたくさんあったけれど、でも、そんな事はもうどうでもよかった。

 ただ兄がいる。それだけで他は何もかもがどうでもよかった。それだけでぼくは安心して、それだけでぼくは充分幸せだった。




 兄が耳元で何かを繰り返すけど、その声がなぜかよく聞こえなくなってた。

 首を傾げて見上げると、兄はハッとしたような顔をして、ゆっくりとぼくの傍に膝をつき、優しくぼくの身体を抱きしめた。


 土と煙の臭いがしたけど、その中にいつもの兄の匂いがして、ぼくは大きく息を吸った。

 ぼくが苦しくなったり辛くなると、兄はこうしていつも正面から抱きしめて安心させてくれた。

 父も同じようにしてくれたけれど、不思議と兄にされる方が安心したし、兄に抱きしめられると、そのまま眠ってしまうことも何度もあった。

 この時も強烈な眠気に襲われて、だけどその前に兄に綺麗な景色を見せたくて、がんばって目を開けてゆっくりと身体を離したんだ。

 そして、空を見上げて驚いた。

 あんなに空一面を覆っていた羽根が、一つも見えなくなってた。

 もう全部、地に落ちてしまったのかも知れないって、そう思って視線を下に移したぼくは、思わず息を飲んだよ。


 あんなに透き通るほどに綺麗だった白い羽根が。

 あんなにたくさん降り注いでいた沢山の白い羽根たちが。


 大地に触れた瞬間、黒く焼けたように色を変えて、砂のように散り散りに消えてしまうのが見えたんだ。




 次々に地に触れては黒く焼けて消えていく羽根を呆然と見つめていると、兄がぼくの顔を心配そうに覗き込んでくるのが分かった。

 ハッとしてぼくは左手の羽根を見つめた。

 先ほどよりまた少しくすんで見えるその羽根だけは、それでも黒く焼け焦げてはいなかったから、ぼくはホッとしてそれを兄の前に掲げた。

 一瞬、ぼくの手のひらを見つめて困ったような表情を浮かべた兄だったけれど、それでもすぐにあのいつもの優しい微笑みを浮かべて頷いてくれた。

 ああ、良かった。

 あの空一面に広がる美しい景色を兄に見せられなかったのは残念だったけれど、この白い羽根だけは見せれた。

 これが舞い落ちてくる姿がどんなに綺麗な景色だったか、後でちゃんと話してあげようって思った。

 きっとあの天の扉からこぼれてきた羽根だよって。だからこんなに綺麗な白い色なんだねって、そう言ってこの羽根を見せながら話そうって思ってた。

 あぁそれはぼくも見たかったな。って、少し羨ましそうに兄が言ったら、この羽根をあげようって思ってた。

 いつもぼくを喜ばせてくれる兄の為に、この綺麗な羽根を兄にあげよう。他に何も出来ない身体の弱いぼくが、ようやく兄に何か綺麗なものをあげられるって、そう思って何だか少しだけ嬉しかった。


 だけど、兄に抱きしめられているうちに、またあの強烈な眠気が襲ってきたんだ。

 兄や父を探して信じられないくらいずっとたくさん歩いたから、それも仕方ないかなって何となく自分でも思ってた。

 でもようやく兄と会えたばかりで、まだ眠ってしまいたくはなかった。兄に会えた喜びで、まだもう少し起きていたかった。

 ぼくがウトウトと眠りかかっているのが分かったのか、兄が少し寂しそうな、何だか辛そうな顔でぼくを見つめてた。

 泣きそうな顔をして見えたから、ぼくはとっさに兄に羽根を差し出した。

 兄は泣き笑いのような顔でぼくを見つめると、羽根の上からぼくの手を握りしめて、そのまま反対の腕でぼくの身体ごと強く抱きしめてくれた。

 いつも眠る時にするみたいに、大丈夫だよってポンポンと背中を優しく叩いてくれたから、だから、このまま少しだけ眠ってもいいかなって、そう思ってしまったんだ。

 少しだけ眠って、起きたら兄に羽根の話をしよう。

 白い羽根はぼくと兄の手のひらの間にあるから、風で飛んでしまうこともないから安心していられる。

 だから、起きてからたくさん話をしよう。

 ほんの少し眠るだけだから。

 兄はちゃんと戻ってきてくれた。これからもずっと傍にいてくれる。

 だから、もうぼくは大丈夫。

 安心して眠れる。

 そう思って、ぼくはゆっくりと目を閉じた。


 まさかそれが最期になるなんて。


 もう二度と目を開けることが出来ないなんて。



 二度と兄に会うことが出来ないなんて、その時は少しも思ってもいなかったんだ。




 次に目が覚めた時、たくさんの人がぼくの顔を覗き込んでた。

 自分がどこにいるのか一瞬理解出来なくて、でもそれよりも兄が傍にいない事が不安で、怖くて、ぼくはずっと震えてた。

 ぼくを覗き込む人たちに見覚えはなかったし、その人たちが話している言葉の意味も全然理解出来なくて、ぼくはとにかくずっと泣いていた。

 どうして兄が傍にいないのか、一体何が起きたのか、何一つ理解出来ない。

 身体もうまく動かせなくて、とにかくぼくはずっと泣いていた。


 少しずつ時間がたって周りの人たちの話していることが分かるようになってくると、そこは見覚えがないどころか名前さえ聞いたことがないような場所だったし、兄といた街がどこにあるのかも、それさえも分からなくなってた。

 本当に、夢でも見てるのかって思った。

 夢なら早く覚めて欲しくて、ぼくはずっと祈ってた。

 教会で育ってきたけど、今まで本気で神さまに祈った事なんてなかったから、やり方なんて全然思い出すことが出来なかった。父はちゃんと教えてくれてたはずなのに、膝を追って手を組むことくらいしか思い出すことが出来なくて、あの時どうしてちゃんと聞いておかなかったんだろうって、すごくすごく後悔した。


 でも、とにかくずっと祈ってた。


 何でもします。

 これからいい子にしますから。

 だから神さま、兄にもう一度会わせて下さい。


 ずっとそれだけを祈ってた。




 次に知らない場所で目覚めた時、ようやくぼくは気付いた。

 これは、普通じゃないんだって。


 本当に、何が起こったのか分からなかった。

 だって、ぼくは女の子になっていたんだ。

 夢じゃなければ何なんだって、本当に意味が分からなくなってた。

 でも、認めるしかなかった。

 どうして、とか。

 なんで、とか。

 考えても何一つ分からなかったけど、それでも一つだけ、分かった。ようやく実感したんだ。


 ぼくはあの時、兄の腕の中で死んだんだって。


 信じたくなかった。

 認めたくなんてなかった。

 だけど、さすがに夢じゃないってことだけは分かった。


 もう会えない。

 もう二度と会えない。


 しばらくはもう、その事だけしか考えられなくなってた。

 泣いても、叫んでも、暴れても何をしても、もうあの場所には戻れないんだ。

 そう思ったら身体も心も、何もかもが破裂しそうに苦しかった。

 声が枯れるほど大声で喚いて、狂ったように泣き叫んで、それなのに本当に狂う事も出来なくて。

 その頃のぼくは他の人から見たらとっくに狂ってるように見えたかもしれないけど、ぼくはずっと正気だったよ。いっそ本当に狂えたら楽なのにって、ずっとそう思ってた。


 段々、違う場所で目覚める度に、今度こそ兄といた街じゃないかって、それだけを期待するようになってた。

 唯一、それだけを望んで、それだけの為に生きてた。

 次に目覚める時は、兄の傍に。

 それだけをただ祈ってた。


 自ら死ぬっていう考えは不思議と一度も起きなかったけど、でも結局は死ぬことを夢見ながら生きてたから、ちゃんと生きてるって感じではなかったよね。

 どうしてこんな事になったのか、これから先一体どうしたらいいのか、どれだけ考えたって何一つ分からなくて、とにかくただ流されるようにして生きてた。


 目覚めた場所でうまく生きられた事なんて、一度もなかった。


 大抵の大人は、ぼくの事を持て余してた。

 そりゃそうだろうなって思うよ。訳の分からない事ばかり口にしてる、おかしな子なんだって思われるのは当然だった。

 だから大抵は手放されて、あまり良い環境とは言えない場所に捨てられたんだ。

 食べ物を与えられずに放置されたこともあったし、売られたり、殺されたこともあったよ。

 次第にぼくも、目立たないように静かに生きた方が楽だって気付いた。

 死ぬのは構わなかったし、それは次へ移れるタイミングな訳だから、ある意味望んだものではあるんだけれど、痛いのや苦しいのはどうしたってやっぱり嫌だったから、なるべく普通に振舞おうって思った。


 周りの子供たちと同じようにしよう。

 目立たないように大人しく、でも、時には子供らしく。

 そんな風に大人しく過ごして、次に兄の傍で目覚める事だけを祈りながら生きてた。

 ぼくはずっと一人で、そんな風に時が過ぎるのを待ちながら生きてた。




 何度か繰り返しているうちに、十歳以上に成長することがない事に気付いた。

 ただの偶然だったのかも知れないけれど、兄の年齢を超えない事はぼくにとっては唯一の救いだったよ。だって、兄の傍に戻った時、兄を見つけることが出来た時、自分の方が年上になってるだなんて全然想像も出来なかったから。

 それに十年っていう時間は、ぼくには大切な区切りだった。そこまで我慢すれば次のチャンスが来るんだって、そう信じて待つことが出来たから。

 終わりのない苦しみも、リミットがはっきりしていれば耐えられる。そんな気がしていたんだ。


 でもね。

 それでも何度も繰り返す絶望は、ぼくをとても疲れさせていたんだ。


 寂しくて、悲しくて、苦しくて。

 狂う事も出来ないぼくはには、もうどうする事も出来なくて。


 だから、初めてぼくは違う事を祈った。




 神さま。

 もう二度と兄に会うことが出来ないなら。

 会いたくて会いたくて仕方がない、大好きだったあの兄に、もう二度と会えないと言うのなら。


 せめて、少しだけでいいから。


 ほんの少しの間だけでいいから。




 忘れさせて下さい。

 兄の事を。

 大好きだった、兄の事を。




「神さまは本当にいるのかも知れないね。だって…ぼくの願いはかなったよ。神崎遙として生まれた時、兄の事は少しも覚えてはいなかったんだから」

 静かにそう告げて前を見ると、目の前に座っていたクオンは下を向いていて、表情を見ることは出来なかった。


 ぼくは、兄を忘れて生まれてきた。

 神さまが願いを叶えてくれたのか、それとも疲れた心が自衛のために兄を忘れさせてくれたのか、それは誰にも分からない事だけれど、ぼくの望みは叶った。兄に会えない苦しみからは解放されて生まれてきた。


 何度も生まれては死ぬことを繰り返してきたことは覚えていたけれど、最初の記憶、兄の記憶だけを忘れて、神崎遙として生まれてきた。そして初めて十歳というリミットを超えて大人になった。


 生きることに意味を見いだせない事はそのままに、悲しみと苦しみからは解放されて、歪になった記憶を抱えて、ぼくは今を生き続けてきた。

 それが幸せだったのかどうかはぼく自身、今もまだよく分からないままだけれど。




「思い出して、良かったですか…」

 囁くようなクオンの声に、ぼくは顔を上げた。

 俯いたままのクオンの声は小さかったけれど、静かな夜に良く響いた。

 もしかしたらまた、外では雪がチラつき始めているのかも知れない。

「思い出して、良かったって思ってますか。それとも、思い出さない方が良かったって、そう、思ってるんですか…」

 ゆっくりと顔を上げたクオンは、どこか緊張した表情をして見えた。

「…どうなんだろうね」

 フラッシュバックしていた過去たち。

 現実と過去の境目が曖昧で、忘れた何かを思い出せれば全てが、何かが取り戻せるような気がしていた。


 だけど実際には違っていた。

 取り戻したのはどうしようもない悲しみ。

 自分の中にあった寂寥感や孤独感の意味が、ただ、分かったと言うだけに過ぎない。

 でも。

「そうだね。忘れたくて忘れていたはずなのに、思い出せてホッとしてるよ」

 だってそれは、とても大切な人との思い出だったのだから。


 でも、あの時は本当に辛くて悲しくて苦しくて、少しでいいから手放したいと思った。

 僅かな時間でいいから忘却をただひたすらに祈った。他に縋るものなんてなかったから、一心に神さまに祈った。

 失いたい訳じゃなかった。

 全てを忘れてしまいたい訳じゃなかった。

 ただ、少しだけ心に凪いだ時間が欲しかった。苦しみから解放される時間が欲しかった。


 今なら分かる。

 あの時の自分には、心を休める時間が必要だったんだ。


 だって。


「ぼくは、死んでも終わりに出来ない」


 苦しみを終わりにする術がなかった。

 死んでも、忘れることが出来ない。

 何度繰り返し死んでも、何度他の誰かに生まれても、リセットする事が出来ない。

 悲しみはずっと引き継がれていく。

 せめて。

 それならせめて少しの間だけでいいから、この苦しみを思い出さずにすむようにさせて下さいって、それだけを最後は祈ってた。




 少し眠るつもりで、目が覚めたらたくさん話をするつもりで、なのに抵抗することなくそのまま死んでしまった自分が許せなかった。

 この先もずっと一緒にいられると、安心しきっていた自分が可笑しかった。

 あの時、兄の声が聞き取れなくなってた自分が悔しくて、何を言っていたのだろうかって何度思い返してみても、それを知る術がない事に苛立った。

 抱きしめた腕の中でぼくの命が消えていくのを、兄はどんな気持ちで見守っていたのか、そんな事を考えると息がとまりそうなくらい苦しかった。


 だけど。

 今はそれら全てを。

 静かに受け止めることが出来るような気がしていた。




 気付けば、クオンが苦しそうな顔でこちらを見ていた。

「…クオン?」

「オレ、酷いこと考えた…」

 頬を引きつらせ、泣きそうな顔で微かに首を振ったクオンは、下を向いて表情を隠した。

「オレ、ルカさんが苦しんでるっていうのに、自分勝手で酷い事、考えた…」

 下を向いたクオンの顔から、透明な雫がこぼれ落ちていくのが分かった。

「……クオン?」

「オレ、自分がこんなに自分勝手で残酷な奴だなんて知らなかった。ルカさんが苦しんでるのに、忘れられない事が辛いって泣いてるのにオレ、オレは……」

 クオンが下を向いたまま鼻をすすった。

 何かを堪えるように首を振ると、絞り出すように言葉を吐き出した。

「オレ、ルカさんの為なら何でもする。ルカさんがしたいと思う事、楽しいと思う事、たくさん出来るように何でもする。この先何回生まれ変わっても、生きることが楽しいって思えるように、オレ、オレ…何だってするから……」

 必死にそう繰り返すクオンを、ぼくは驚いて見つめた。

「クオン、どうしたの?」

 だけど、クオンはぼくの言葉が聞こえてないみたいに、泣きながら早口で繰り返す。

「思い出す度に楽しくなるような記憶を作りましょうよ。その為だったらオレ、何でもするから。オレ、ルカさんの力になりたいんだ。オレ、オレは本当に…」

「ねぇ、クオン」

 ビクリと、身体を揺らしてクオンが言葉を詰まらせた。

「ねぇクオン。教えて?」

 クオンは優しい。

 きっとぼくの言葉に何かを感じて、そして一人で罪悪感のようなものを感じてしまったのだろうと思った。

 人の機微に疎いぼくでも、さすがにそのくらいは想像がついた。

「ねぇ、一体何を考えたっていうの」

 クオンが、ゆっくりと顔をあげてぼくを見た。

 苦し気に寄せられた眉。揺らぐ視線。それでもクオンは真っ直ぐに、少し苦しそうな顔のままぼくを静かに見つめていた。

「死んでも終わりに出来ないって言った時…」

 いつものクオンとは比べ物にならないくらいに小さな声。それは、消えそうな程小さくて、聞いたことがない程に頼りなく聞こえた。

「ルカさんが、死んでも忘れることが出来ないって言った時…」

 クオンの目から、溢れるように涙がこぼれ落ちた。


「嬉しいって、思った…」




 死んでも終わりに出来ない。

 死んでも全部、忘れない。

 それはこれから先ルカさんが別の誰かに生まれ変わっても、ずっとオレの事を覚えてててくれるって、つまりはそういう事なんだって、そう思ったら、信じられないくらい嬉しかった。


 そう言ってクオンは俯くと、また透明な雫を零した。




 役者として舞台に立って、映画とかメディアに記録がたくさん残って、色んな人の記憶に残るような役者になりたいってずっとそれを目標にして頑張ってきたけど、でもそんな事はもう全部すっとばして、ルカさんはずっと覚えててくれるんだって、そう思ったら何だかすごく幸せだって思った。

 役者としてのオレも、それ以外の普段のオレも、全部、全部ひっくるめてルカさんの中に残る。

 オレが演じたあの男みたいに。ルカさんの書いたたくさんのノートの中の人たちみたいに、オレはルカさんの中に残る。

 ルカさんが書く次のノートにはオレの事も書かれるんだって、そう思ったら。…そう思ったらオレ、これ以上はないくらい幸せだって思った。




「オレ自身は多分死んだら全部忘れちゃうんだろうけど。…どれだけ忘れたくないって思っても、きっと全部忘れちゃうんだろうけど。でも、その分ルカさんは覚えててくれるんだって、そう思ったらオレ…」


 ごめんなさい。と、俯いたまま繰り返すクオンを、ぼくは不思議な気持ちで見つめていた。




 それは不思議な感覚だった。

 忘れていく者の感覚なんて、想像したことなんてなかった。

 クオンの事を忘れない。

 クオンやニーナや両親を、取り巻くすべての人たちを、ぼくだけはずっと忘れない。


 それを、クオンは嬉しいと言った。

 ぼくが覚えていることを、クオンは幸せだと言ったのだ。


「怒ってくれていいです。酷い奴だって、こんな奴だと思わなかったって、呆れられて当然です。でも、オレはそれでもルカさんの力になりたい。それだけは本当なんです」

 必死に謝罪を繰り返すクオンに、ぼくは静かに笑った。

「ねぇ、クオン…」

 名前を呼ぶと、クオンはまたビクリと肩を震わせた。

「ねぇクオン。顔をあげて」

 今度はなかなか顔をあげないクオンに、ぼくはもう一度その名前を呼んだ。

 ゆっくりと顔を上げたクオンの目は、見たことがないくらいに真っ赤に腫れあがっていた。

 思わず、ぼくは声を零して笑った。

 いつもはとても大人びていて、それこそ『兄』のようにさえ感じる頼もしいクオンが、子供のように赤く目を腫らして何度も『ごめんなさい』と繰り返す。

 今まで見たことがないそのクオンの様子に、堪えきれずにぼくは思わず吹きだした。

「ダメだよクオン、それはダメだ」

 ズルいよ、と続ければ、今度はクオンが訝し気に眉を寄せた。

「そんな顔で『ごめん』って…。もう、ギャップがありすぎて耐えられない」

 そう言ってぼくが声をあげて笑えば、クオンは僅かに耳を赤くしながらも、その苦し気な表情を和らげた。


「全然酷くなんかないよ」

 逆に、気付かせてくれた。

 全てを忘れてしまう者の気持ちを。

 忘れてしまう事の、辛さを。

「ぼくの書くノートにクオンやニーナが残るって、そんな感覚はぼくの中には無かったよ。ましてやそれを嬉しく思ってくれるなんて…」

 ぼくは自分のことばかり考えていた。

 周りに生きる人たちの事なんて、そういう意味では一度もちゃんと考えた事なんてなかったのかも知れない。

 ずっと過去に捕われていて、記憶が続くことに戸惑って、ちゃんと周りと向き合って生きたことなどなかったのかも知れない。


「生まれ変わりなら良かったのにって……」

 囁くようなクオンの声に、ぼくは首を傾げて耳を寄せた。

「代わりになんてなれないって分かってる。それでも、オレがその人の生まれ変わりだったら良かったのにって……」

 役不足だって分かってるけど、でももしそうだったら少しはルカさんの力になれたのにって、そんな事も勝手に考えた、と。

 そう、クオンが消え入りそうな声で呟くのを、ぼくは本当に、何とも言えない気持ちで見つめた。

 クオンは、優しい。

 ぼくを思って考えた事全てを、自分勝手な思い込みだと反省して、後悔して、謝罪する。

 謝る必要なんてないのに。

 ぼくの事を思ってくれたからこその、とても優しい気持ちなのに。

「…ありがと」

 兄の生まれ変わりに会う事なんて、あり得ない事だと分かっていた。小説や映画の中でならよくあるシチュエーションかも知れないけれど、そんな事が現実で起こるとは思えなかった。そんな事はあり得るはずもなかった。

 もし起こり得ると言うのなら、すでに過去の人生のどこかで、とっくに兄に会えていてもいいはずだった。それに。

「もし、クオンが兄の生まれ変わりだったとしてもね…」

 無い物ねだりなのは分かっていた。手が届かないモノを欲しがっているのだと知っていた。

 後悔と、恋慕が、全てを歪ませているのは分かっていた。

「それでも、ここにいるのはクオンでしょ」

 クオンがハッとしたようにぼくを見た。


 兄の魂に会いたい訳じゃなかった。

 兄の生まれ変わりに会いたいわけじゃなかった。

 会えればもちろん嬉しい。

 万に一つの奇跡が起きて、クオンが兄の生まれ変わりだったと言うのなら、それは確かに嬉しいけれど、本当に望んでいる事はそういう事ではなかった。


 あの日、あの時、ぼくを抱きしめてくれた『あの日の兄』に、ぼくはもう一度会いたいと願っていた。

「兄もきっと生まれ変わっているんだとは思うよ。だけど多分もう記憶なんて持ってない。ぼくの事を少しも覚えてないと思うんだ」

 やり直すことは出来ない。

 時を遡って兄に会うことは出来ないのだから。

 ずっと兄を探して生きてきた。

 そして兄を忘れて大人になって、だからこそ分かった事がある。

「ぼくはね。多分後悔しているんだ」

 兄に、ちゃんと『さよなら』が出来なかった事を。


 羽根の話をしようと思っていた。

 拾った羽根を渡して、綺麗だねって笑ってもらうつもりだった。

 兄がぼくを見つけて抱きしめてくれたことが、どれくらい嬉しかったか伝えたかった。

 夜になったら天の扉からこぼれる光を、二人で食べようって思ってた。

 そのどれ一つとして叶えられなくて、それどころかそのまま兄の腕の中で死んでしまうなんて、どれだけ兄を悲しませたか、悔やんでも悔やみきれなかった。


「ちゃんと『さよなら』が出来てたら、ここまで引きずらなかったのかも知れないね」

 この想いは永遠に、消えることはないのかも知れない。

 でも、今は思う。

 この想いを永遠に抱えて生きるのも、それも一つの形かも知れない。

 兄やクオンやニーナを、ぼくを愛してくれた人たちの思い出を抱えて生きるのも、それも良いかも知れない。

「だからね。…クオンにはクオンのままでいて欲しい」

 そう言うと、クオンがまた一瞬泣きそうな顔で首を振った。

「だったら…」

 一度声を詰まらせ、クオンはしゃくりあげるようにしてまた泣き始めた。

「だったら、ルカさんもルカさんとして生きてよ。もう二度と後悔しないですむように、いつ死んでも『自分らしく生きられた』って思えるように、ルカさんとしての人生を生きてよ……」


 ぼくは、静かに息を飲んだ。

 ぼくが。

 自分らしい人生を、生きる、こと。


「だって、今のルカさんはまだ……」


 確かに。

『死んでない』状態と『生きている』のは、似ているようで全く異なる。

 生きる目的を見失い、ただ時が過ぎるのを静かに待っているというのは、確かに『死んではいない』けれども、『生きている』とも言い難い。


「死にたくないって、思ってよ。『お兄さん』と一緒に生きた最初の人生だけじゃなくて、これからも、この先も、ずっと覚えてて楽しい事、たくさん経験して生きてよ」

 思い返す度に幸せな気持ちになれるような、そんな楽しい人生にしようよ、と。そう言われて思わずぼくはハッとした。


 兄と過ごした日々は、楽しかった。

 父と、兄と、街の人たちと過ごした日々は、貧しくて辛い事も多かったけれども、確かに幸せな日々だったと思い返せる。

 死にたくなかった。

 ずっと兄と一緒にいたかった。

 いくつも繰り返した人生の中で、死にたくなかったと思える人生は、確かに兄と過ごしたその一度きりだったと気付いた。

 そして。

「まだ、もう少し……」

 ぼくは、ようやく自分の気持ちに気付いた。

「まだ、もう少しこのままが良いって思ってた」

 まだ、神崎遙でいたいと。神凪ルカでいたいと。そう、思うようになっていた。

 過去を思い出しても、例えそれで自分が壊れてしまっても、まだもう少しだけ、あと少しだけでいいから、クオンやニーナたちと居たいと思っていた。

 もしかしたらその気持ちこそが。

「…そう、だね」

 独り言のようなぼくの言葉に、クオンがゆっくりと顔を上げた。

「ぼくはもうとっくに……死にたくないって、思ってた」

 まだこのままでいたい。そう思うこの気持ちは。

「ぼくはまだ死にたくない。まだもう少しだけでいいから、クオンやニーナと一緒に、今のこの時代を生きていたいって思ってる」

 口に出してみれば奇妙なセリフだなと、自分でも少し可笑しく思った。

 だけど、もし今あの時みたいに唐突な別れが訪れたら。そんな事を考えるだけで身体が震えた。どうしようもなく怖かった。

 人はいつ死ぬか分からない。

 別れはいつも突然で、おそらくは後悔の無い分かれなんて一つもない。

 それでも自分らしく生きれれば、悲しくとも周りはそれを受け入れる。

 きっと良い人生だったに違いないと、そう思って見送れる。

 そんな事にやっと、今更のように気付いた。

「ほん、とに……?」

 クオンが泣き笑いのような顔でぼくを見つめた。

 半信半疑のようなその顔に、ぼくはゆっくりと頷いた。

 クオンの舞台を見るのは楽しかった。

 牧野さんやクオンの役者仲間の子たちと一緒に騒ぎながらお酒を飲むのも楽しかったし、彼らの笑い声を聞くと何だかそれだけで嬉しくなった。

 ニーナとクオンと三人で、一緒に飲んだ珈琲は美味しかった。

 父や母の子供に生まれて良かったと思うし、祖母や先代の話を聞くのも好きだった。

 思い返せばどの記憶もみな笑顔と、そして小さな幸せに包まれていた。

 静かな優しさを、感じていた。

「こんなに恵まれた人生も、なかなか無いかも知れないね」

 心配してくれる人たちに囲まれて、ぼくは知らないうちにこんなにもたくさんの幸せに包まれていた。

 もしかしたら。

 たくさんの過去の幼い人生も、自分が気付きさえすれば、優しい人たちに囲まれていたのかも知れない。

「それに、やらなきゃならない事も残ってるしね」

「やらなきゃ、ならない事……?」

 赤く腫れあがった目元を拭いながら、クオンが不思議そうに繰り返す。

「クオンとの約束も、二つある」

「オレとの、約束……」

「そう。クオンとした、未来への約束」

「あ…」

 クオンが、戸惑うように瞳を揺らした。

「月の…食べ方……」

 そう。一つは、次の特別な満月の日に月の食べ方を教えるというもの。そしてもう一つは。

「……脚本、書かなきゃね」

 一瞬、何を言われたのか分からないような表情で、クオンは呆然とぼくを見つめた。

 そしてすぐに「えっ」と言って驚いた顔のまま固まったクオンに、ぼくはまた声を出して笑った。

「ちゃんと書くよ。クオンを主人公にした話をね」

 ありのままのクオンを主人公にした話を。

 ぼくの過去をアレンジしたストーリーなんかじゃなくて、ちゃんと一から考え出したオリジナルの話を。

「ホントはまだ他にもたくさんあるんだよ?」

 ニーナと三人で帽子を買いに行かなくちゃいけないし、クオンは良いお酒を買ってこなくちゃいけない。

 冷蔵庫にあるたくさんの食材をちゃんと料理して、ぼくに食べさせてくれなくちゃいけないし、次の買い物はぼくにお金を出させてくれなくちゃいけない。

 一つ一つ丁寧に口にしていけば、クオンはまた泣きそうな顔をして下を向いた。

 言いながらぼく自身も、こんなにも約束がぼくを守っていたことに気付かされた。

 自らした約束じゃなくても、こんなにも優しい絆がぼくを未来へと導いてくれる。

「もう一つ、約束、追加してもいいですか……」

 クオンが下を向いたまま呟いた。

「うん、いいよ。何でも言って」

 顔を上げたクオンは、もう泣いてはいなかった。

 赤い目元はそのままに、けれどとても真剣な目。

「次の人生でも…」

 クオンはそこで一度深呼吸するみたいに大きく息を吸い、静かにぼくを見つめた。

「…オレに月の食べ方を教えて」

 ぼくは思わず息を止めた。




 何と答えていいのか分からなかった。

 色々な要素が入りすぎていて、何から答えればいいのか分からない。

 けれどクオンはぼくの返事を待たずに、そのまま話し続けた。

「…約束して。次の人生でも、オレに月の食べ方を教えるって」

 揶揄っているようには見えなかった。

 本気で、約束しようとしている。

 何と返せばいいのか分からず戸惑っていると、更にクオンは続けた。

「オレ、次の人生でもルカさんの傍に行くから」

 まるで当たり前の事のように、もう決めた事だと言わんばかりにきっぱりとそう宣言したクオンは、冗談を言っているようには見えない。

「クオン…何を……」

「オレ、忘れると思う。自分のことも、ルカさんのことも、何もかも全部忘れると思う。だけど、」

 だけど。

「オレ、絶対にルカさんの傍に行くから」

 だからその時はまた月の食べ方を教えて。

 そう言い切ったクオンの言葉は、まるで自分に言い聞かせているようにも聞こえた。


 ふと、これはクオンの優しさなのだと思った。

 ぼくの未来を守ろうとしてくれている?

 たった一人で旅をするような終わりのない孤独を、クオンはこの約束で守ろうとしてくれている。

 次に生まれたその先で。

 クオンの気配を感じる事が出来るように。


 クオンはゆっくりと首を振った。

「適当に言ってるって、そう思ってるのかも知れないけど、違うから。オレ、ちゃんと傍に行くから」

 クオンが何を言おうとしているのか分からなくて、首を僅かに傾げた。

「役者仲間に霊が見える人がいるって、前に話したことがあったと思うけど、そいつに色々聞いたんだ。霊の事とか、魂の事とか」

 その役者仲間が言うには、人は、肉体を選んで生まれて来る場合があるらしい。『この人の子供に生まれよう』と、母親を選んで生まれて来る場合もあるらしいし、生まれる前の魂同士が『必ず会おう』と約束をして、それぞれ別の遠い場所に生まれる事もあるという。

「色んなケースがあるらしいけど、とにかくそう言うことが出来るんなら、オレは絶対にルカさんの傍に行くって決めたから」

 真剣な顔でそう宣言するクオンは、決めたからには絶対に出来ると信じて疑ってないようだった。

「覚えてなくても絶対に、オレ、ルカさんを見つけるから」

 一瞬、眩暈のような不思議な感覚に包まれた。

 過去に出会った人たちが、脳裏に次々と浮かんでは消えていく。

 もしかしたらその中に、クオンがいた事があったのかも知れない。と、その可能性を思ったら、何とも不思議な気持ちになった。

 そして、もしかしたらその中に。

 過去に出会った人の中に。

 兄も、いたのかも知れない。

「……だから、ちゃんと月の食べ方を教えて」

 ぼくは、信じられないくらい穏やかで、落ち着いた気持ちになっていた。

 初めて、前を向いて生きれるような気がしていた。

 生きることを。

 繰り返し生き続けることを。

 初めて素直に受け入れられるような気がした。

「…ありがと」

 ぼくはしっかりと頷いた。

「何度でも、月の食べ方を教えるよ。いつでも、何度でも、教えてあげる」

 だから、ぼくを見つけて。

 月の食べ方を教えてって、何度でもぼくに聞いて欲しい。

「だけど…」

 ぼくは苦笑しながらクオンに言った。

「だけどね、クオン」

 ぼくの言葉に、クオンはほんの少し緊張した表情をした。

 何を言われるのだろうかと、不安になったのかも知れない。

 本当にクオンは優しい。

 いつも真っすぐに正直に生きるその姿は、傍にいてとても心地よかった。

「本当はそう言うセリフはね、クオン…」

 どうしてこんなにもぼくを気遣ってくれるのか分からなかったけれど、そのクオンがくれる優しい気持ちは素直に嬉しくて、でも少しだけ、くすぐったい。

 だからぼくは照れくささを隠すように、ちょっとだけ意地悪く笑った。

「将来、恋人になる人に言ってあげた方が良いと思う」

 驚いた顔をしたクオンは、しばらくして視線をあからさまに泳がせた。

 自分の言った言葉を思い返して、その意味を考えているのだろう。

 しばらくすると、クオンは耳まで顔を赤くした。

 ぼくはまた笑った。

 声をあげて笑った。

 真っ赤になったクオンが怒ったように何か色々と言っていたけれど、それも聞こえないくらいにぼくは笑い続けた。

 嬉しくて泣くと言うことが、こんなにも温かい気持ちになるのだという事を、ぼくは初めて感じていた。









エピローグ







 懐かしい景色の中に佇んでいた。

 丘の上を走る風を頬に感じて、思わずホっと息を吐いた。

 緑の匂いまで感じ取れるような気がする。

 目を細めて辺りの景色を見回してみた。

 夢だということには、すぐに気づいた。

 けれど、二度と見ることは叶わないと、二度と戻る事は出来ないと、そう思っていた景色を前に身体が震えた。


 兄と二人で過ごした景色を、夢に見るのは初めてだった。

 どんなに強く望んでも、一度も見ることが出来ずにいた。

 だからこんなふうに夢として、思い返せることが何だかとても嬉しかった。


 丘の木のすぐそばに、誰かがもたれ掛かっている事に気付いた。

 予感めいたものを感じながら静かに近づくと、それが、とても小さくて幼い少年だと分かった。

 身につけている服は黒く焼け焦げていて、破れた服の隙間から見える肌にも血が滲み、投げ出された手足は驚くほどに細かった。


 ああ、あの時の自分は、こんなにも小さな子供だったのか。

 改めてこうして目の前にその姿を見てみれば、夢だと分かっていながらも、それは何だかとても悲しい事に思えた。


 遠くから、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。


 思わず身体が跳ねあがった。

 不規則に息が乱れて、鼓動が速くなっていく。

 何度も名を呼ばれて、身体が緊張に震えた。

 ゆっくりと声の方に顔を向けた。


 会いたくて、会いたくて、会いたくて。


 ずっと会いたくて仕方のなかったあの兄が、丘を駆け上がってくるのが目に映った。

 ずっと焦がれていたその姿。

 戻りたくて仕方のなかったあの時に、やっと戻れたような気がした。

 けれど。

 その兄のあまりに幼い姿に思わず息を飲んだ。

 確かに、記憶の中にある兄の姿そのものなのに。

 信じられないくらいに小さな子供に思えた。


 大人びた印象が強かった。

 いつでも一緒にいてくれて、父と共に自分を見守ってくれていた大好きな兄。ぼく自身の生きる支えでもあり、兄さえいてくれれば何も怖いものはないと感じていた。

 けれど今、目の前で丘を駆け上がってくる兄のその姿は、木にもたれ掛かる子供と同じくらいに幼くて、華奢でか弱い少年にしか見えない。


 焼けた服、少し焦げて短くなった髪、煤けて黒くなった細い手足。


 それは涙が出る程儚くて、壊れそうに脆い子供だった。

 その、兄の声が聞こえる。

 あの時はきちんと聞こえなかった兄の声が、こうして今、聞こえることが不思議だった。

 夢だからこそ起こり得る奇跡なのだと、分かっていながらもどうしようもなく胸が熱くなった。

「なんで勝手に地下から出たんだ。あそこにいれば安全だって、あれだけ言っておいたのにっ」

 兄の言葉が聞こえてきて、遠い昔の記憶が蘇る。

 地下。

 それはあの、教会の地下にあった倉庫のことだろうか。ぼくはそこにいろと言われたのか。うまく、思い出せない。

「待ってろって言ったのに。必ず戻るから待ってろって言ったのにっ」

 そう言いながらぼくの前に回り込んだ兄は、ぼくの姿を見て息を飲んだ。

 ああ。この表情は覚えている。

 少し怒ったような、けれど少し哀しそうな兄の顔。

 そしてそのまま何も言わずに、抱きしめてくれたことを覚えている。

 今なら分かる。

 兄はぼくを一目見て、とても危険な状態だという事が分かったのだ。

 兄がゆっくりと膝をつき、ぼくの身体を抱きしめるのを見つめた。

 ぼくの背に手を回し、安心させるようにゆっくりと撫でてくれている。

 兄に抱きしめられて安心した表情を浮かべているかつての自分を見下ろして、ぼくは微かに首を横に振った。


 眠るんじゃない。

 そのまま眠ったりするんじゃない。


 夢だと分かっているのに、どうしようもないと頭では分かっているのに、それでも込み上げる衝動を抑えきれずに声を出した。

 出した、つもり、だったのに。

 それは一言も音にならずに、風のようにふわりと辺りに消えて行った。

「…大丈夫だよ。もう何も心配することはないんだ。オレはずっと傍にいるから」

 耳元で話し続ける兄の声だけが、それだけがはっきりと聞こえる。

「もう離れたりしないから。ずっと傍にいるから」

 何度も、何度も、そう繰り返しながら背中を撫で続ける兄の目に、涙があふれているのが分かった。

 泣いていたなんて、知らなかった。

 全然、気づきもしなかった。

 泣いていることを気付かせないように、ぼくを不安にさせないように、声を震わせることもなく泣いていたのだと、この時初めて気づいた。

「もう安心していいんだよ。ゆっくり休んでいいんだ。疲れたよな。不安だったよな。こんなになるまでずっと一人で走り回って、ずっと、オレを心配して探してくれてたんだよな」

 こぼれる涙を拭いもせず、ただ優しく背を撫で続けてくれる兄の姿に、ぼくは息を止めて膝をついた。

 震えだす身体を、止める術はなかった。

 兄は分かっていたのだ。

 ぼくがどうしてこうなったのか。そして、これから何が起こるかを。

「ごめんよ。心配させるつもりじゃなかったんだ。お前を安心させるためにも、父さんたちの様子をちょっと見てくるだけのつもりだったんだ。まさかこんなことになるなんて、全然知らなかったから……」

 兄は、あの崩れた教会を見たのだろうか。

 そこにいるはずのぼくが地下にいない事に気付いて、焼けた街を探しまわってくれていたのだろうか。

「お前が眠る時には必ず傍にいるって、前に約束しただろ。だから、もう離れないよ。ずっと傍にいるから。…だから安心していいんだ」

 ぼくが身体を離して兄を見上げると、兄はあわてて肩で涙を拭い、差し出したぼくの左手に自分の手をそっと重ねてくれた。

「ずっと握っててやるよ。もう絶対に離したりしない。だから安心して眠っていいんだ。…オレも、一緒に眠るから」

 その時、ぼくは気づいた。

 差し出した左手に、白い羽根がなかった。

 慌てて周りを見回しても、羽根の一つさえも見ることは出来なかった。

 どうして?

 兄に、白い羽根を見せたつもりだった。

 見せた時、笑ってくれたと思っていた。

 でも実際には、ぼくの手のひらに白い羽根は見えない。

 見えていなかったのだろうか。

 ぼくが見た白い純白の綺麗なあの羽根は、幻だったと言うのか。

「このまま一緒に眠って、夜には天の光を食べよう。今日は特に大きく扉も開いてるから、きっとたくさん零れてくるよ。それからまた一緒に眠ろう。もう絶対に離れたりしないから。どこにも行ったりしないから」

 話し続ける兄の腕の中で、ぼくがゆっくりと目を閉じていくのが分かった。

 だめだ。目を閉じちゃいけない。

 そう心は叫んでいるのに、声は少しも音にはならない。

 兄はしっかりとぼくを抱きしめ続け、耳元で話し続ける。

「これから一緒に良い夢を見ような。森を走り回って、一緒に木に登って、オレたちは夢の中でもずっと一緒にいるんだ」

 兄が、ぼくの身体を強く抱きしめた。

 兄の腕の中のぼくはもう、少しも動くことはなかった。

 兄が、身体を震わせながらぼくの肩に顔を埋めた。

 そして、しゃくりあげるようにして泣き始めた。

「大丈夫。きっと、天の光が導いてくれる。だからオレたちは、これからもずっと一緒にいられる。きっと願いは叶うから。だから、安心して眠っていいんだ。オレは、夢でもお前を見つけるから」

 兄が、ぼくと重ねていた手を更に強く握りなおした。

 まるで互いの手で一つの祈りをささげるみたいに、強く重ねて呟いた。

「どこにいても必ずお前を見つけるよ。夢の中でもどこでも、お前を必ず見つけるから、だからオレたちはこれから先もずっと一緒だ」

 まるで自分に言い聞かせるみたいに。まるで、神さまに祈りをささげるみたいに。動かないぼくの身体を抱きしめたまま、兄は囁くように繰り返した。

 ぼくはただ静かに、それを見つめる事しか出来なかった。







 目覚めた時、しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。

 ゆっくり周りを見回して、見慣れたベンチに座っている事に気付いて、ようやく公園に来ていた事を思い出した。

 昨夜雪が降ったなんて思えないくらい、降り注ぐ陽射しは暖かかった。

 思わずうたた寝してしまった自分に苦笑しつつ、携帯を取り出して時間を確認すると、まだ八時になる前だった。

 ほんの十分足らずの時間に、随分と長い夢を見たような気がしていた。

 朝の公園は、比較的人は少ない。

 見回しても人の姿はほとんどなく、たまに公園を横切るように歩く人を見かけるけれど、ベンチに座って休む人など殆どいない。

 ぼくは横に置いておいた缶コーヒーを一口飲んで、息を吐いた。

 すっかり冷めきってしまったそれは、何だか少し苦みを増したように思えた。

 ここは、お気に入りの場所だった。

 池と、それを囲むようにして立つ緑の木々。

 何故この場所が好きなのか、どうしてこんなにも自分がここに執着していたのか、その理由が何となく分かった。

 雰囲気が似ていたのだ。兄と見下ろしていたあの森に。

 生きる意味が分からなくて、ずっと普通に生きれなくて、どうしていいのか分からなかったそんな時に、この公園を見つけた。

 ここに座ってこの景色を見ていると、不思議と気持ちが落ち着いた。ここで月を食べると、不思議と足りない何かが満たされるような気がしていた。

 それらは全部、失っていた兄との記憶に繋がっていた。


 先ほど見た夢が、ただの夢だとは思えなかった。

 夢だと頭では分かっているのに、自分の中の何かがあれはただの夢ではないと叫んでいた。

 兄は、全て知っていた。

 全て承知したうえで、ぼくを抱いたまま静かに眠らせてくれていたのだと思い知る。

 さよならが、出来ていないと思っていた。

 死ぬつもりなんてなかったから、いつものように少し眠るだけのつもりだったから、ぼくの心はずっとそこに置き去りにされてしまっていたけれど、兄は全部分かっていた。

 だから祈ってくれたのだと分かった。

 夢でもまた会えるように。いつまでも一緒にいられるように。

 その事がぼくの中の悲しみを、優しく包んでくれるような気がした。痛みや後悔の苦しみを、和らげてくれるような気がしていた、


 ただ一つ。

 あの純白の羽根の事だけが、ぼくの心を乱していた。

 兄には見えていなかったのかも知れない、と今なら冷静に思い返せる。

 空一面を覆いつくす程に舞い降りていた純白の羽根に、兄が気付かないはずがなかった。あんなに綺麗な美しい羽根に、兄が気付かないはずがないのだから。

 もしかしたら。

 あれは自分だけが見た幻だったのかも知れない。

 消えかけた命だけが見ることの出来る綺麗な幻。人が最期に見る美しいモノ。天からこぼれた光がくれた奇跡の幻だったのかも知れない。


 それでも。

 見せたかった。と、今でも思う。

 あの羽根を見せながら、綺麗だねって笑って話したかった。


 あんなに綺麗な景色を。

 あんなに純粋で綺麗な白い羽根を、見たことはなかったから。

 後にも先にも、ずっと見ていたいと思うような景色は、他に一つもなかったから。

 たとえ幻だと言われても、脳裏に焼き付いた景色は消すことは出来ない。


「あ……」


 そう言う事か。と、不意にぼくは理解した。

 クオンの言っていた言葉の意味。

 思い返す度に幸せな気持ちになれるような、そんな経験をしようよ、と、それはこういう意味だったのかと思った。

 ぼくは、永遠に忘れない。

 いつまで続くのか分からない道だけれど、それでも大切な記憶は何度も繰り返し思い返し、ぼくの中に確かに残り続ける。

 そんな大切に思える記憶を、たくさん作って行けばいいのだ、と。初めてそんなふうに思えた。

 綺麗なモノを、たくさん見たいと思った。

 あるがままの世界を、たくさん見たいと思った。


 ぼくは目の前の景色を見つめた。

 兄と見ていた森に似ている、いつも来ている公園。

 この公園の景色も、ぼくはきっと忘れない。

 それはとても素敵な、大切な事に思えた。


 今日こそはクオンを心配させる前に戻ろうと、ぼくは缶コーヒーを掴んで立ち上がった。

 家を出る時、キッチンのテーブルの上にメモを残してきていた。

『公園まで散歩してきます。一時間で戻ります』

 まだ家を出てから一時間も経っていない。

 もしかしたらクオンはまだ寝ているかも知れないな、なんて思いながら公園の入り口に顔を向けると、こちらへ歩いて来るクオンの姿が目に映った。

「え、なんで」

 携帯を取り出し時間を確認してみる。

 まだ八時を少しすぎた時間だった。

 家を出たのは七時半くらいだったから、まだ一時間は経っていない。

 携帯に着信した履歴もないし、ぼくは戸惑いながらクオンに近づいた。

 困惑しながらも、思わず先に謝る。

「ごめん。メモ、残しておいたつもりなんだけど…」

「あれじゃ、いつから一時間なのか分かんないよ」

 少し呆れたようにクオンが笑う。

 一時間で戻る。とメモには書いておいた。

 けれど確かに。

 それが何時に書かれたものか分からなければ、何時に戻るか分からない。

 自分の間抜け具合に、ぼくは思わず呆然とした。

「気にしないで下さい。オレも、ちょっと散歩したかったから」

 ついでにこのまま駅前まで行って、朝食でも食べて帰りましょう。そう言ってクオンが笑うのを、ぼくは不思議な気持ちで見つめた。

 この公園にいる時、いつもクオンが迎えに来た。

 今年の初めに月を食べたあの日も、一昨日食べたあの日も、そして今日というこの日も。

 昨日、クオンはぼくを見つけると言っていた。次に生まれた先でも、全てを忘れてしまっても、必ずぼくを見つけると、そう言ってくれていた。

 奇しくもそれは、兄の最後の言葉と同じだった。

 もしかしたら本当に、クオンの中には兄の魂があるのかも知れない。

 そして繰り返してきた過去の短い人生の中でも、ぼくの傍らにはいつでも、兄の魂が寄り添ってくれていたのかも知れない。

「…どうしたんですか」

 ぼくが笑うのを見つけて、クオンが顔を覗き込んできた。

 ぼくは静かに首を振った。

「なんでもないよ」

 きっと、ぼくは今日の事を忘れない。

 次にどこかに生まれても、誰も知らない場所に生まれても、きっとぼくはこの日の事を思い出す。

 クオンがくれた優しい約束。

 兄の残してくれた想いを。




 全部、ぼくは、忘れない。





 これで一区切り、完結となります。

 長いことお付き合いいただき、ありがとうございました。


 当初、タイトルは違ったものでありました。

「堕天使の羽根」

 あまりにあまりなので、今回の「月を食べ、羽根に触れ、君を想う」に変更しました。今もこのタイトルで相応しいのか、実はまだ満足はしていません。これからも、まだ考え続けるかも知れません。


 途中、読みづらく思われた部分もあったかもしれませんが、それも必要なエピソードだったとご承知下さい。


 結果として「どうして記憶が継続するのか」「どうして十歳以上に成長しなかったのか」について明確に文章にはしませんでしたが、匂わせたつもりではあります。察していただけると嬉しいです。お察しいただけなかったとしたら、ひとえに文章力不足という事で猛省いたします。申し訳ありませんでした。


 今後、続きという訳ではありませんが、これに関係する小説は書き続けるかもしれません。その時はまた、よろしくお願い致します。


 拙い文章にお付き合い下さり、本当にありがとうございました。

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