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中編

『その後、どうなんですか』

 買い物の途中で寄った教会で、ボロボロと泣いていたことをニーナから聞いたクオンは、それからと言うもの、毎日のように連絡をしてくるようになっていた。

 大抵は夜、眠る前の時間に『今いいですか』とメールが来て、それに対して『いいよ』と返すとすぐさま電話が掛かってきた。

『まだ、時々見えるんですか』

「大丈夫だよ」

『ルカさんの大丈夫はあまり信用できないんですけど』

 不機嫌そうにそう言われて、ぼくは思わず苦笑した。

「確かにいろいろ見えてはいるけど、あれからほとんど外出なんてしてないし、そんなに実害がある訳じゃないんだよ」

 あれ以来、家にいる時や誰かと一緒にいる時、ニーナと話をしている時などには、世界が二重写しに見えることはなかった。それだけが今のところ唯一の救いのように思えた。

『実害って…。そういう問題でもないと思うんだけど』

 言いたいことは分かっていた。

 けれど自分でコントロール出来るものではなかったから、正直どうしようもなかった。

 医者に行こうとは思わなかった。

 全てを。過去をも含めた全てを、医者に話せるはずもなかったから。

「そうだ。ニーナが今度はクオンも一緒に買い物に行こうって言ってたよ」

『え、ニーナさんが?』

 一瞬、突然話題を変えたことに何か言おうとした気配があったけれど、話がニーナの事だったせいか、クオンは少し驚いたような声を上げた。

「うん。帽子が似合いそうだから、何か選んであげるって言ってた。舞台が終わって落ち着いたら、一緒に行こうって言ってたよ」

『…ルカさんも一緒、ですよね』

 本当は二人だけで行っておいで。と、そう言ってしまいたかったけれど、そんな事を言ったらクオンは遠慮してしまうだろうから、曖昧に返事をしておいた。

『…ところで、夜はちゃんと眠れてるんですか』

 うまく話が変えられと思ったけれど、やっぱりそう簡単にはいかなかった。と同時に、本当にクオンはぼくの事をよく理解していると感心する。

「前よりはちゃんと、眠れているよ」

 本当は、全然眠れてなどいなかった。

 ちゃんと眠れたと言えるのは、クオンとニーナが泊っていったあの夜。

 あの時だけは、本当に久しぶりに夢も見ずに眠った。

 そしてあれ以来ほとんど、ちゃんと眠れた日などなかった。

 眠るのが怖かった。

 次にどこで目覚めるのか。

 次も『神崎遙』で目覚める事が出来るのか。

 それが分からなくて、眠るのが怖かった。

 今まで死ぬ事を怖いと思ったことなどなかったけれど、意識のないうちに自覚もなく全てを失う事は、何故かとても怖かった。

 そんな事を考えながら眠ると、必ずと言っていい程また別の誰かになって目覚める夢を見た。その感覚が苦しくて、少しずつ眠ることが怖くなり、どんどん眠れなくなっていった。

『舞台を見て、から、なんですよね』

 やっぱり隠し事は出来ないか、と、ぼくはクオンには聞こえないように携帯を離してため息をついた。

『オレのせい…ですか』

 オブリビアスの舞台の日。クオンと男の姿が重なって見えたあの時から、確かに色々なモノが重なって見えることは多くなった。

 けれど、あれが初めてという訳ではなかった。

「元々、フラッシュバックはあったんだよ」

 以前からも時々、唐突に過去が現実と重なる事はあった。

 こんなに頻繁ではなかったし、見えている時間もこんなに長くはなかったけれど、それでも、時々発作のようにそれは起こった。

 小さい頃にはそれが原因で眩暈をおこし、酷いときには倒れてしまうことも幾度かあった。

『話したくなかったら話さなくてもいいですけど…』

 らしくもなく小さな声でクオンが言う。

『…何が、見えてるんですか』

 過去の景色が重なって見えるとは言ったけれど、何がどう見えているのかは、クオンにもニーナにも話してはいない。

 何が見えているのか。

 どんなふうに見えているのか。

 言われてから改めて思い返してみると、それは少しずつ変化してきているような気がした。

 最初は透明に重なって見えた景色が、今でははっきりと見えていて、手を伸ばせば触れられそうな程に現実味を帯びている。

 見える景色も、同じものが多かった。

 建物はほとんどが石造りで、そしてその街にあるだろう教会。

 二つに折られた十字架のある、あの、崩れ落ちた教会。

「イメージ的には、そうだね。ジャンヌダルクの時代にありそうな街の景色…って言ったら伝わるかな」

 実際にはもっとずっと古い時代のような気がする。

 何年前の記憶かなんて古すぎて自分でももう分からないけれど、いくつもある過去の中でも古い記憶だと言うことだけは感じていた。

 もしかしたらいつも同じ過去のヴィジョンを見ているのかも知れない。そう気づいて少し驚いた。

 考えた事などなかったけれど、見える景色に何か意味があるのかも知れない。

『ルカさんが覚えてる最初の記憶って、どんなもの、なんですか』


 最初の、記憶。

 覚えている限り最初の、ぼくの中の過去の記憶。

 今まで誰かに話すことはもちろん、まだノートにさえ書いていない、最初の記憶。

 それは。


 一片(ひとひら)の、羽根


 今まで見たことがないくらいに真っ白で。

 これこそが純白、。

 そう思う程に綺麗で、美しくて儚い、一片(ひとひら)の『羽根』。


 それがぼくの手のひらの上、その真ん中に。

 ふわりと乗っている記憶だった。



 その羽根が手に乗るまでの出来事や、その後のことはまるで覚えていないのに、その純白の羽根の記憶だけは鮮明だった。

 あまりにも綺麗で儚くて、ぼくは握りしめることも出来ずに大事にずっとそれを眺めていた。

 だけど、それは純白の羽根のはずなのに。真っ白な羽根を見ているはずなのに、何故か感じている色はくすんだような灰色で、何故か思い出すたびに少し哀しい感じがした。


『鳥の羽根、ですかね』

「多分ね。でも、調べてみたけど、何の羽根かは分からないんだ」

 今の生を受け成長し、パソコンを使えるようになった時に一番最初に検索したのが、その羽根を持つ鳥のことだった。

 色々探しても、検索の仕方を変えても、色も形も何一つ。似たものを持つ鳥さえ見つけることは出来なかった。

 ああ、でも。と今さらのように気付く。

 羽根から感じる時代と、二重写しに見える時代が、どこか同じような気がした。

 もしそうなら現実に重なって見えるヴィジョンも、とても古い記憶になる。

「…なんだろうね」

 全てを思い出したいような。でも、出来れば思い出したくないような。そんな不思議な感覚にとらわれる。

 過去を覚えていると言っても古い記憶はそれなりに薄れていて、最初の頃の記憶は、もはや途切れ途切れと言うよりも、古いアルバムの写真を見るような感覚に近かった。

 それなのに今、おそらくは見えているヴィジョンはその時代の記憶で、思い出せないはずなのにはっきり幻視として見えているという事実が、自分でも何故か不思議に思えた。

 この記憶は、自分の中のどこに記録されているものなのだろう。


『…ルカさん?』

「ん? 何でもないよ。大丈夫」

 心配そうなクオンの声に笑って返事をしながら、ぼくは軽く首を振った。

「ねぇクオン。今、大阪にいるんだよね」

『そうですよ。明後日から三日間は大阪公演です』

「その後、東京に戻って二公演?」

『はい、来週の日曜日が千穐楽です』

 東京で行われる最終日。いわゆる大千穐楽と呼ばれる日は、またニーナと二人で行く予定にしていた。

「この舞台が終わったら、次は何をやる予定なの?」

『実は映画が決まったんですよ!』

 嬉しそうに声を上げたクオンは、今が夜中だという事を思い出したのか、慌てて言葉を詰まらせた。

 苦笑しながら促せば、声を落としながらも嬉しそうに続ける。

『主役ではないんですけど、結構重要な役を貰えたんです』

 しかもオーディションを受けて取った役ではなく、先方から指名されて決まった配役だと言う。

『舞台はもちろん好きですけど、オレ、元々は映像の方から始めてるんで、やっぱりちょっと嬉しいですね』

 デビュー作は映画だったと聞いている。

 チョイ役だったとは言うけれど、セリフも名前もあったというから、新人でそれはすごい事だったのだろうと想像がつく。

「クオンは将来、映画俳優になりたいの?」

 なりたいもの。

 やりたい事。

 自分の心が求める、未来の姿。

『そうですね。映画で主役とかやれたら最高ですね』

 いつかは自分が主役の映画を。

 いつかは自分が主役の舞台を。

 それを、出来るだけたくさんの人に見て欲しい。

『あ…』

 一瞬、何かを思いついたかのようにクオンが短く声を上げた。

「ん、何?」

『あ、いや。別にこれは…』

 口ごもるクオンを更に問えば、あきらめたように笑う声が聞こえた。

『ルカさんがオレを当て書きして小説を書いてくれれば、オレも主役になれるかなって』

 思わず返事に詰まった。

 言われた言葉が予想外すぎて、理解するのに少し時間がかかった。

 沈黙をどう思ったのか、クオンの慌てたような気配が電話越しに伝わってくる。

『すいません、勝手な事言いました。忘れてください』

「あ、いや。いいんだよ。その、考えた事がなかったから」

 一から創作して小説を書こうと、そんな風に考えた事など無かった。

 今まで書いてきたものはノートを基本に作り上げてきたものばかりで、それはつまり自分の過去に少し手を加えて書きなおしてきた話しばかりで、一から全てを創作した何かを、書いてみようと思ったことなどなかった。

『今まで書いた小説は全部、ノートが基本ってことですか』

「そうだね。…そうなると、もしかしてオリジナルの小説とは言えなくなったりするのかな」

『なに言ってるんですか』

 少し呆れたようなクオンの声が電話の向こうで低く響く。

「クオンの当て書き、ね。考えておくよ」

 過去の記憶と関係のない、まったく新しい何かを書く。

 そんな事は考えたことなどなかったけれど、クオンを主人公にして書くのなら、それも面白いかも知れない。

『でも、何かちょっと怖いですね』

 そう言って笑うクオンの声は、怖いと言いながらも何だか嬉しそうに聞こえた。

 ぼく自身の過去には関係のない、いわゆる本当の意味で初めて書く『小説』。

 クオンを主人公にした、完全オリジナルの作品。

 初めて。

 本当に初めて。

 小説を書くという事を。

 楽しみだと、思えたような気がした。




「ノート、読みに来たんじゃなかったの?」

 大阪公演を終えて東京へ戻ってきたクオンは、その足でぼくの家に来ていた。

 連日の舞台や移動の疲れもあるだろうに、それを押して来たからには、てっきりノートを読みに来たのだと思っていた。

「それは来週、舞台が終わってからの楽しみにとっておきます」

 じゃぁ一体何のために、と言いかけて、大阪土産と共に台所のテーブルに置かれた沢山の食材を見て、ぼくは口をつぐんだ。

「ニーナさんも最近仕事が忙しくて来れなかったって言ってたし、ルカさんの事だから、ちゃんと食べてないんじゃないかと思って」

「あのね、何度も言うけど、ぼくだってお腹は空くんだよ。いくら執着してないって言ったって、お腹が空いたらちゃんと何かは食べてるよ」

 そうは言いながらも確かに、最近は出前や宅配ピザばかりだった気もするし、少なくとも一日三回は食べてはいなかった。

 それでも、舞台で地方に行っていたクオンがあわてて食材を買い込んでくるほど切羽詰まった生活をしているつもりはなかった。

「宅配モノでも食べてるだけ安心しました。外出しないようにしてるって言ってたから、何にも食べてないんじゃないかって心配してたんです」

 一体どこまでぼくは生活能力がないと思われているのだろう。

 宅配モノや出前はもちろん、今の時代はネットを使えば、温かい食事もインスタントな食品も、外出せずにどんなものでも手に入れることが出来る。

 クオンが心配するような事は、起こりようがない。

「クオンも、ぼくを生活破綻者だと思い始めているんだね」

「否定はしません」

 温めるだけで食べれるモノを大量に買い込み、きっちりと冷蔵庫と冷凍庫にそれらを並べて満足そうに頷くクオンの表情は、それこそニーナと姉弟なんじゃないかと思う程にそっくりに思えた。お湯を入れるだけのインスタント食品を、それだけは身体に悪いからと言って買ってこないところなんかも、本当によく似ていると思った。

「でもこれ、ルカさんの為だけって訳じゃないんですよ。オレ、基本的に料理するのが好きだから、食材買うのとかホント楽しくて。今日は冷凍ものとかばっかりですけど、それでもこういう買い物するの久しぶりだったから、ちょっと何だか楽しかった」

 照れたように笑うクオンの様子から、それは本心なのだろうという事は伝わってきた。

 それにしても。

「これはちょっと買い過ぎじゃ…」

「そうでもないですよ。オレはいつも買う時はこのくらいは買ってるし、まぁせいぜい五日分くらい…かな?」

 一カ月くらいはどうにかなりそうな量を見て五日分と言うクオンの感覚には、やっぱりどうにもついていけそうにない。

 それでも黙ってお金を渡そうとしたら、勝手に買ってきたものだからお金はいらないと断られた。

「え、だってこんなにたくさん…」

「今度、ちゃんと料理しに来ますから、その時は食材代、お願いします」

 今度。

 また次の機会に。

 思えばクオンは時々、こうやって次の約束をしたがる。

『今度、食事しに来てくださいね』

『次の機会にまた読ませてください』

 意識して言っているのか、あるいは無意識のうちのことなのかは分からなかったけれど、ニーナや他の人が言う『また今度』とは、少し違ったニュアンスに聞こえるのは気のせいだろうか。

「ルカさん?」

「あ、うん。分かった。…ありがとう」

 確かに、これだけあればしばらく食事には困らない。これでまた安心して、引きこもりのような生活が出来るだろう。

「ところで、さっきからちょっと気になってたんですけど…」

 台所の隣にあるリビング。

 そのソファの脇に、段ボールや小包が、半分崩れるようにして積みあがっている。

 一見して通販で買ったと分かるそれらに、クオンは呆れたようなため息をついた。

「もしかして全部、本、ですか」

 テーブルに積み上げた本や、まだ段ボールに入ったままの本もある。

 重ねられた小包はまだいくつか開けてない物もあり、全部あわせたら百冊近い本を一度にまとめて買ったことになる。

「うん。ちょっと調べたいことがあってね」

「にしても、ちょっと一気に買いすぎじゃないですか」

 これじゃオレの食材買いと大して変わらない買い方じゃないですか。と笑いながらソファに近づいたクオンは、テーブルに乗った一冊の本を手に取って動きを止めた。


 クオンの顔から、笑顔が消えるのが分かった。

 ああ。よりにもよってそれを最初に手に取ってしまったのか。

 こんなタイミングでクオンが来るとは思っていなかったから、買った本を広げたままにしておいたのがいけなかった。

 無言のままぼくを見つめるクオンに何と言っていいか分からず、ぼくは視線を本に落とした。

 ゆっくりとソファに近づき、クオンの手から本を抜き取ると、表紙を下にしてそれをテーブルに置きなおした。

「ただの資料だよ」

 言い訳のような言葉に、クオンはゆっくりと首を振った。

「でも、これは……」

「調べもののためだよ。…だから大丈夫」

 青ざめた顔でぼくを見つめるクオンは、ぼくの言う『大丈夫』を、少しも信じている様子はなかった。




 見える過去の景色が、自分の中にある一番古い記憶だと感じていた。

 枯れ木のように細く焼け残った黒い木々。

 崩れた低い建物が並ぶ街並み。

 その奥にある、朽ち果てた石の教会。


 人の気配などなかった。

 どれだけ記憶をたどっても、どれだけ思い返そうとしてみても、それ以上思い出すことが出来ない。

 それでも、純白の羽根の記憶と何か関係があるような気はしていた。

 同じ時代の記憶だと感じていた。

 だから、それに関係してそうな本を手当たり次第にかき集めた。


 壊れた街。

 折れた十字架。

 崩れて朽ち果てた石の教会。


 そして一片(ひとひら)の、純白の羽根。


 どうしてそこから始まったのか。

 どうしてそこからずっと記憶は続いているのか。

 どうして自分だけが覚えているのか。

 何度も繰り返し『死んでは生まれ』てくる記憶を、どうしてぼくだけが覚えているのか。

 これは何かの罰なのか。

 ぼくは自分でも知らないうちに、何か罪を犯してしまったとでも言うのだろうか。




 インターネットが世界中の情報を一瞬で集め、結果を画像として小さなパソコンの画面に表示してくれるようになったこの時代に生まれて、それでもぼくは過去の人生を調べようと思った事はなかった。

 純白の羽根については調べたけれどそれだけで、何度も繰り返す十年ほどの短い人生を、改めて振り返って確認する事なんて、ぼくには必要のない事だった。

 誰かに証明する必要もない。

 誰かに理解して欲しい訳でもない。

 目を閉じればそこに思い出すことが出来るたくさんの過去をあたらめて確認する事なんて、ぼくにはどうでもいい事だった。


 けれど今、こうして幻視のように過去が現実に重なるようになった今、分かるものなら知りたいと思った。調べて分かるものなら、とことん調べてみようと思った。


 そこに、何が、あったのか。

 自分はどうして、忘れないのか。

 それと同時に。

 どうして思い出せない部分があるのか。

 ぼくは一体、何を思い出せずにいるのか。


「覚えている過去は全部、宗教的な環境だった気がするんだ」

 思い出すものの全てに、十字架の影がちらついて見えていた。

「思い返すとね、いつも過去に感じるのは孤独とか死のイメージばかりなんだ。十歳までしか生きられない人生で、しかもその半分近くは誰かの手にかかって命を落としてきているんだから、まぁいいイメージな訳はないんだけれどね」

 身体が子供だと考え方も子供のままなのか、過去の自分はその状況をどうにかしようとか、意味を見つけようとしたり行動するような事は一度もなかった。

 どうして。なんで自分だけがこんな記憶を。そう思って苦しくなった事があったような気はする。けれど、気づいた時には全てを、あるがままの現実を、冷めた目で見つめて過ごすようになっていた。


 出来るだけ静かに時を過ごす。

 出来るだけ苦しくないように最期を迎える。

 それだけを考えて、生まれては死ぬことを繰り返していた。


「他にも自分と同じような人がいるんじゃないかって、そう思ったこともあったよ」

 でも、そんな人はいなかった。

 一人も見つけることは出来なかった。

 小さな子供が聞ける範囲の人間に、そんな人がいるはずなんてなかった。

「『神崎遙』になってから初めて、世界には、前世の記憶を持った人が何人もいるって知ったんだ」

 それでも、せいぜいが一つ前の生を覚えている程度のもので、ぼくのようにいくつもの過去を覚えている人の話しなど聞いたことがなかった。

 何が他の人と違うのかなんて、どれだけ探してみても分からない。

 だから、思った。

 これは何かの罰なのかも知れないと。

 繰り返してきた短い人生はどれもみな、幸せと言うものからは遠くかけ離れた人生ばかりだった。

 長い時の中で何かが麻痺してしまったのか、怖いとか苦しいとか悲しいとか、自分の人生を改めて辛いと感じる事はなかったけれど、少なくとも『幸福』を感じた事は一度としてなかった。

「そう考えると今のこの人生は争いもなく平和で、物にも恵まれていて、今までで一番『幸せな人生』を送っていると言えるのかも知れないね」

 だけど今、過去の自分が追いかけてきている。思い出せとでも言うように、過去が現実に重なる。

 ぼくは、たくさんの記憶を持ちながらも、決して忘れてはいけない『大切な何か』を忘れてしまっているのかも知れない。

 始まりに犯した何かの『罪』か。それとも全く別の何かか。

 ぼくの中の一番古い記憶が鍵だというのなら、思い出さなくてはいけないと思った。




「だからって、何もこんなに……」

 クオンが、そう言ってテーブルの本を見下ろした。

 遺跡や教会、鳥の写真集。

 あらゆる宗教の本に、呪いの儀式についての解説書のようなもの。そして、宗教における罪について書かれた本。

「資料って言ったけどね、理由を探すとか、意味を見つけたいとか、そういう事じゃないんだ。ただ、思い出さなくちゃいけない事があるなら、何かのきっかけになればいいなって思ったんだ」

 石の遺跡を見れば何か思い出すだろうか。

 鳥の羽根を見つめれば。使われなくなった古い教会の写真を見つめれば。忘れている何かを思い出すことができるだろうか。


 一番早い手段は。

 外に出て、現実の世界にヴィジョンを重ねて見ることだと分かっていた。

 それが一番簡単に思い出す方法だという事は、ぼく自身よく分かっていた。

 けれど、何故かそれは出来なかった。したくないと思っていた。

 望んで全てを受け入れてしまったら、そのままあちらの世界に行ってしまうような、『神崎遙』でいられなくなるような、そんな焦りにもにた感覚が、それをすることを戸惑わせていた。

 その時はその時だとは思いながらも、出来ればまだもう少しでいいから、『神崎遙』でいたいと思っていた。

「これは、月の本?」

 先ほどクオンが手に取った本の隣に、月に関する本が何冊か開いてあった。

「月の食べ方、とかね。載っているかなと思って」

 気付いた時には、丸い月を食べる習慣が身についていた。




 全身にその光を浴びることが出来る静かな場所で、丸くて大きい『月』を食べる。

 出来れば風は無い方が良い。

 池や湖のような大きな水に月が映り、双子星のように見える場所ならなお良い。

 そこで静かに月を食べる。

 月の光の力を身体に取り込むために。




「誰に教わったのかは覚えていないんだけど、随分昔からそうしていた気がするから、何か思い出せればと思ってね」

 太陽信仰。または、月光信仰。

 儀式のような何かの記述があれば、思い出すきっかけになるかと思った。

「それで…。あの本はどうして……?」

 ああ。結局聞かれてしまうのか、と。ぼくはゆっくりと目を閉じた。

 クオンが最初に見つけた本。

 ぼくが『資料だよ』と言っても信じなかったそれは、いわゆる『ハウツー本』と呼ばれる類のもの。

「死にたいって思ったことはないって、ルカさん、そう言ってたのに…」

 死にたいと。思ったことなど無かった。

 それは嘘ではなかった。

 だけど、それしか方法がないなら、知っておきたいと思った。

 苦しまずに死ぬ方法を。

 それは。

『安楽死』に関する本だった。




「死にたい…って、思ったわけじゃないんだ」

 ただ、死ぬなら苦しまずに死にたいと、それはいつも考えていた。

 記憶を持ち続けることが何かの罰だと言うのなら、終わりにする方法は一つしかないと思った。




『罪を犯した者の魂は天国へは行けない』と、十字架を掲げる宗教ではよく言われている。


『死んだ者の魂は浄化の門を通って天へ至るが、罪深き者の魂はその門をくぐる事が出来ない。罪深き穢れた魂は、そのまま現世をさ迷い続ける』


 呆然とした。

 記憶を持ち続けたまま何度も現世を繰り返すぼくは、まさしく『さ迷って』いると言えなくもない。

 それが、罪深き魂の持ち主のたどる運命だというのなら。

 罪を償いたくとも犯した罪が分からず、これから先もずっとこのまま、永遠に現世を繰り返し生き続けると言うのなら。

 この長い記憶の連鎖を終わらせる方法は、更なる暗い地へ落ちるしか他にないように思えた。




「なんだよ、それ…」

 クオンが低い声で呻いた。

「なに最初から自分が悪いことしたみたいな言い方してんだよ。何だよそれ、罪って何。てか、だったらこのままでいいだろ。色んなモンが見えてるから、それをどうにかしたくて調べてんのかと思ったけど、それじゃ全然話が違うじゃん。何だよこれ。全然、意味が分かんない」

 確かに、この本だけは意味が違ったかも知れない。

 自ら死を選ぶつもりはなかったけれど、それでも時が来た時、出来るだけ静かに逝きたいとは思っていた。

 だからその為の方法を知っておくことは、意味がある事に思えた。

 知っていれば心が、落ち着くような気がしていた。

「大丈夫だよ。本当に、大丈夫だから」

 それでも、いくら言葉で説明しても、クオンは睨むようにぼくを見つめたまま首を振る。

「オレ、今日からここに泊まる」

 一瞬、何の話か分からなかった。

「二階の部屋、いつでも使っていいって言ったよね。オレ、今日からここで生活する」

「……え?」

 クオンがここに泊まることには特に異存はなかったけれど、どうしてこのタイミングでそれを言い出したのか、ぼくには理解出来ない。

「どうしてオレがこんなこと言いだしたのか、ルカさん、意味が分かんないんでしょ」

 ぼくが何も答えずにいると、クオンは少し怒ったように息を吐いた。

「いいよ、別に分からなくても。でもオレ、絶対に行かせないから」

「行かせない、って……」

「過去になんか、絶対に連れて行かせない」

 何言ってるの、と、そう言おうと思って見つめたクオンの見返す瞳が、今まで見たことがない程真剣で、ぼくは何も言えなくなった。

「過去がルカさんを引きずって、こことは違うどこかに連れて行こうとするなら、オレは絶対にそれを止める。ルカさんの心が違う場所に飛ぶなら、オレが全力で引き留める。死にたいって思っても、絶対にオレが死なせない。そんな事、絶対にさせないから」

「なに…言って…」

「絶対にルカさんを死なせない」

 なかば怒るようにそう言われて、ぼくは思わず息を止めた。

 どうして…。

 心配してくれるのは、理解出来た。

 それでも、どうしてクオンがこんなにまで怒るのか、理由がぼくには分からない。

「どうして…」

「どうして?」

 ぼくの零した言葉に、クオンが怒ったように声を上げた。

「じゃぁルカさんは、オレが『明日、死にます』って言ったら、どうすんの。黙って全部、受け入れるの。自殺しようとしてるオレを見ても、アンタ、止めようとはしてくれないの?」

 見たことがない程怖い顔で、けれどなぜかとても辛そうな顔で、クオンがぼくに詰め寄った。


 言われたことが衝撃的過ぎて、一瞬頭が真っ白になる。

 知らず、呼吸が速くなる。

「ダメだ…」

 考え、られない。

 そんな事、考える事なんて、出来ない。

 クオンが自ら命を絶つなんて、そんな事、怖くて考える事さえ出来ない。

「クオンは…そんな事しちゃ、ダメ、だよ…」

 ぼくより先に死ぬなんて。

 自分で自分を殺すなんて、そんな事は考えられない。そんな事は絶対にあり得ない。


「何でオレだとダメなんだよ」

「だって、クオンは、生きなきゃ…」

「アンタだって同じだろ」

 思わず目を見開いた。

 同じ?

 ぼくが、クオンと、同じ?

「ルカさんだって、ダメなんだよ。ルカさんだって、死んだら絶対ダメなんだよ」

 もしルカさんがそうしたら、オレやニーナさんがどう思うかって、一度でも考えてみた事ある?

 そう聞かれて。

 ぼくは本当に目の前が真っ白になったような気がした。


『生きることに積極的になれない理由』を二人に話した時、ニーナは一緒に生きたいと思ってる、と、ぼくにそう言ってくれていた。

 クオンも、こんなぼくを理解したいと思ってくれていた。

 だから、悲しんでくれるだろうとは思っていた。だけど、だけどこれでは。


「……苦しい」

「そうだよ、考えるとすごく苦しいんだよ。だから…」

 クオンは一度言葉をとぎらせた。

「だから、それだけは絶対に考えちゃダメなんだ」

 そう言って、クオンはふっと息を吐いた。

「前にルカさんは『死にたいと思ったことはないけど、死にたくないって思ったこともない』って言っただろ。…オレ、あの言葉、実は結構ショックだったんだ」

 その時のことを思い出しているのか、クオンが辛そうな表情で宙を睨んだ。

「本当は『死にたくない』って思って欲しい。生きることにしがみついて、みっともなくジタバタ足掻いて、何があっても死にたくないって、そのくらい強く生きて欲しい。でも、もしまだ今はそれが無理だって言うなら…」

 せめてあんな本は読まないで欲しい。そうクオンに言われて。

 ぼくはゆっくりと目を閉じた。

「……ごめん」

 まだ、胸が苦しくて仕方がなかった。

 祖母や両親を失った時とは違う衝撃が、ぼくの中に何かを重く沈めていく。

「…本当に、ごめん」

 命の終わりを迎える時、いつも考えていたのは『出来るだけ苦しくないように』。それだけ。

 出来るだけ静かに。出来るだけ痛みが少ないように。それだけしか考えていなかった。


『死にたくない』なんて。


 そう思いながら命を終えた事なんて、一度としてなかった。

 ましてや生きることにしがみつくなんて。

 痛くても、苦しくても、辛くても。それでも生きていたいと思うなんて、そんなこと、想像することさえ難しかった。

「もし、何もかも終わりにしたくなったら、その時はまずオレに話して」

 クオンが、真面目な顔でぼくに言う。

 十歳は年下のはずなのに、ずっと年上のような感じを覚えて、ぼくは思わずふっと息を漏らした。

 それを笑ったと思ったのか、クオンが眉を寄せてぼくを睨みつける。

「ごめん。何だかその、親に怒られてるような気分になっちゃって」

「……せめて『兄』くらいにしといてよ」

 気になるのはそこなんだ、と少し可笑しく思ってから、ぼくは思わずギクリとした。


『兄』


 一瞬、息が止まった。

 何かが、鋭くぼくの中を切り裂く。


「ルカさん?」

 自分の中の衝動の理由が分からず、ぼくは小さく頭を振った。

 何かを、思い出しかけているような気がする。


「……あの本は、処分する、よ」

 身体を駆け巡る衝動を抑えて静かにそう言って見返せば、ようやくクオンは少しだけ表情を緩めた。

「でもオレ、今日からここで生活するのはやめませんよ」

 後で荷物まとめて持ってきます。そう言って笑うクオンの顔を見つめて、ようやくぼくは胸の苦しさが少しだけ解けた気がしていた。

 少しだけ、呼吸が楽になったような気がした。

 それでも、訳の分からない胸のつかえだけが、僅かに残ったまま消えなかった。




 宣言どおりにクオンがある程度の荷物をまとめて戻ってきた後、共に夕食を済ませた。

 冷蔵庫にストックされた温めるだけで食べられるそれらを、クオンがひと手間加えてちゃんとした料理に変えていくのを、ぼくは不思議な気持ちで見ていた。

 それは久しぶりに食べるまともな食事で、やはりピザや宅配モノとは比べられない温かさが、そこにはあるような気がした。




 クオンがぼくの家に来たことは、すぐにニーナに伝わった。

 ブログに載せてもいいですか。と食後にクオンに聞かれて、別に何でも書いて構わないよと答えたら、夜中になってニーナからメールが届いた。

「…一体、何を書いたの?」

 一緒に夕食を食べる時、写真を撮っていたことは分かっていたから、その写真をブログに載せたのだろうとは思っていた。

 けれど、ニーナから『おめでとう!』と言うタイトルでメールが来る理由が、ぼくには見当もつかなかった。

「ルカさんと一緒に食事してる写真を載せただけですよ」

 クオンも、不思議そうな顔でぼくを見る。

 携帯からクオンのブログを開いてみれば、確かに特に変わったことが書かれているわけではなかった。

 一緒に食事をしているだけ。

 ここがぼくの家だとか、これから一緒に住むだとか、そういう事が書かれているわけではなかった。


『今日の夕食は、舞台〝オブリビアス〟の脚本家であり、作家の神凪ルカさんと』


 という内容と共に、テーブルに乗った食事を前に向き合うぼくとクオンの写真が載せられているだけだった。

 ほんの少し映った背景やテーブルを見ただけで、それがぼくの家だということはニーナにはすぐに分かったのだろう。

 それでも、ニーナが何を『おめでとう』と言っているのか、全く理解できない。

 クオンも首を傾げるばかりで、意味が分からないようだった。

「…時々、ニーナは不思議な事を言うよね」

「すいません、オレにも意味が分かりません」

 ぼくらは顔を見合わせて首を振った。




 ブログの下にある『コメント』欄を見てみると、すでに何人かがコメントを残しているのが分かった。

『隼人くん、神凪さんと仲が良いって聞いてたけど、一緒にお家ゴハンしちゃうくらい仲が良かったんだね。何だか見ていて嬉しくなっちゃった。それにしてもハンバーグ、美味しそう』

『久遠寺さん、初めまして。週末の舞台、観劇に伺います。今から楽しみすぎて眠れそうにありません』

『わぁ楽しそう。二人でどんな話してるのかな。舞台の話とかしてるのかな。今度、どんな話ししてたのか聞かせて欲しいです』

『神凪ルカさんって、もっとずっと年上の人かと思ってた。隼人くんと並んでると、兄弟みたいに見えますね』

 そのコメントを見て、ドキリとした。


『兄弟』


 この二文字を見て、先ほどクオンが『兄』と口にした時と同じ衝動が、ぼくの何かを切り裂いていくような気がした。


 ぼくに、兄弟姉妹がいたことは、なかった。

 今でこそニーナが『兄妹』のような存在と言えない事もないけれど、それは『妹』のような存在で、『兄弟』という感覚ではない。

 今まで覚えている限りの過去の中、他に、血のつながった兄弟姉妹はもちろんそれに近い存在も、一度も、一人も、いなかったはず、なのに。


 どうしてこんなにも混乱するのだろう。

 もしかしたら忘れている何かと、関係があるのだろうか。

「きょう、だい……?」

 おとうと、では、ない気がする。

 では、あに、が…?

 ぼくには、あに、が、いた、の、か?


「ルカさんっ!」

 ハッとして顔を上げると、怒ったような顔をしたクオンが、ぼくの肩を掴んで見下ろしていた。

 名前を呼ばれ、しっかりしろと叫ばれて、ぼくは眉を寄せて見上げた。

 何言ってるの。と、返事をしようとして、うまく唇が動かない事に気が付いた。

 何が、起きて、いるのだろう。

「だ、い…じょう…」

「全然大丈夫じゃないだろっ。こんなに身体が震えてんのにっ…」

 身体の感覚が、ひどく遠くに感じられた。

 携帯は手から滑り落ち、遠い床に転がっているのが視界の隅に映った。

 自分が今、支えられてようやく立っていられる状態なのだと、どこか他人事のように感じていた。


『兄弟』


 おそらく、ぼくには、『兄』がいた。

 血のつながりと言う意味ではなく、心が兄と認めた存在。そんな存在が、過去のぼくにはいたのだ。

 始まりの、記憶。一番最初の、古い過去。

 純白の羽根の記憶と共に、崩れた教会のあるあの崩れた街で。

 身体が震えだす程、衝撃的な何かがあったのだ。


「…ふ…っ……」

 不意に、可笑しさが込み上げてきた。

 よく分からない感情が発作のように、小さな笑いになって込み上げてくる。

 声なく笑いだしたぼくのことを、何とも言えない顔でクオンが見つめている事には気づいていた。

 それでも、抑えることが出来なかった。

 もしかしたら、ぼくはもうとっくに、おかしくなっているのかも知れない。

 ぼくは、一体誰なのか。

 神崎遙なのか、それとも別の誰かなのか。

 こんなの、全然普通じゃない。

 可笑しくて、可笑しくて、可笑しくて。

 クオンに支えられながら、身体を震わせてぼくは笑い続けた。

 笑い続けながらも。

 叫びそうなくらい胸が痛くて苦しかった。




 応接間のソファに座り、クオンの入れてくれた珈琲を一口飲んでから、ぼくは上目遣いにクオンを見つめた。

「…呆れたんじゃないのかい」

 同じように珈琲を持って向かいに座ったクオンは、ぼくを見つめたまま静かに首を横に振った。

「ぼくは、本当に狂いかけているのかも知れないよ」

「そういう人は、冗談でも自分のことをそんなふうには言わないよ」

 ああ、確かにそういう話も聞いたことがある。だけど。

「正気と狂気の違いって、一体どこにあるんだろうね」

 現実と過去が重なって見える。

 意識が飛び、身体の自由が利かなくなる。

 正気と狂気の境いは、一体どこにあると言うのだろう。

「…安定剤、いる?」

 ぼくの質問には答えず、クオンが難しい顔をしてぼくを見た。

 ぼくが医者には行きたくないと承知しているクオンは、自分のツテを使って安定剤を用意しようと言ってくれているのだと分かった。

「飲んだ方がいいと思う?」

「その方が落ち着くって言うのなら」

 あくまでもぼくの気持ちを優先してくれるクオンに、思わず笑みがこぼれた。

「ありがと。でも、要らないよ」

 クオンには申し訳ないと思うけれど、壊れる時は何をしてもきっと壊れるだろうと思っていた。大丈夫な時はきっとクスリや医者の力など借りなくても大丈夫で、だから、このままでいいと思った。

「睡眠薬は?」

 ちゃんと眠れているよと言ったのに、やはりそれも信じてはいなかったらしい。

「うん、大丈夫だよ」

 出来るだけ、自然のままでいたかった。

「それより、こんな状態のぼくと一緒にいたら舞台に集中できないでしょ。やっぱり今からでもマンションに戻った方が…」

 そこまで言うと、それを遮ろうとするかのようにクオンがぼくを睨んだ。

「ホントに何も分かってないんだね。逆だよ。離れてる方が気になって、多分、何にも手につかなくなる」

 だから週末の二公演、千穐楽もここから行きますから。そう言い切るクオンに、ぼくは何も返せなかった。

「ルカさんこそ、千穐楽、こんな状態でも見に来るの?」

 大丈夫だよ、と即答することは出来ないけれど、行かない訳にはいかなかった。

「その後の打ち上げとか、牧野さんたちとの約束もあるし、行くよ。一応、仕事関係のイベントだからね」

「…ニーナさんには、話さないんですか」

 一緒に行く予定のニーナに、言わないでいることは難しく思えた。

 でも、言いたくはなかった。

 教会で泣いて以来、クオンと同じようにニーナからも頻繁に連絡が来ていた。

 もうこれ以上、心配を掛けたくはなかった。

「もう、充分心配させてるとは思うんだけどね」

 それに、こんな状態で外を出歩くことに不安がない訳ではなかったけれど、それでも『行かない』という選択肢は、最初からぼくの中にはなかった。

 もう少しで何かに、手が届きそうな気がしていた。




 久しぶりの大きく丸い月に、ぼくはホッと息を吐いた。

 馴染みの公園。いつものベンチ。

 数か月前に来た時よりも暖かくなってきていたから、気温もそこまで低くはないはずなのに、夜ということもあって吐く息はまだ少し白く変わった。

 前はクオンに色々注意されたから、今日はちゃんと暖かい上着を着てきた。

 携帯もちゃんと持っていたし、心配をかけるような事は何もない。

 ここしばらく外出を控えてきてはいたけれど、今日だけは少し無理をしてでも公園に来たかった。

 夜なら何も見ないで済むんじゃないかと、根拠のない自信と期待を胸に、ひっそりと夜の公園に踏み出した。

 およそ二カ月前、年に一度あれば珍しいという特別な月を食べに来た。

 今夜は、あの時と同じ特別な月。

 今年はもう一度見ることが出来るのだと言われれば、しかも天候にも恵まれたとしたなら、その月を見ない訳には行かなかった。出来ればきちんとこの公園で、見たかった。




 風もなく、雲もない静かな夜空に、丸く大きな月が浮かんでいる。

 池に映る丸い月も、数カ月前に見た時と同じように双子星のように輝いている。

 これ以上はない程に、恵まれた条件。

 見たいと思った景色がそこにあった。


「誰に、教わったんだろうなぁ」

 月の、食べ方なんて。

 あれからどれだけ調べても、そんな風習や言い伝えなどは、似たような話さえ一つも見つけることは出来なかった。


 月を隠す雲もなく、風もない静かな夜。

 池や湖のような大きな水に月が映り、双子星のように見える場所で月を食べる。

 その無限ともいえる月光の力を、身体の中に取り込むために。


「あに…に、教わった、のかな」

 独り言に答えが返ってくるはずもなく、静かに満月を見上げた。

 今はもう『兄』の事を考えただけで身体が震えるような事はない。

 それ以上何かを思い出すこともなかったけれど、パニックのような症状を起こす事もなくなった。クオンが心配するような事はあれから数日たった今はもう、一度も起こる事はなかった。


 雲一つない夜空に大きな月が静かに浮かび、その強い光に他の星は輝きを失う。冷えた空気が更に輪郭を際立たせ、暗い闇夜との境がまるで丸く夜空をくり抜いたかのように、はっきりと明暗を分けている。

 その様子が一瞬、深い地の底から光ある世界を見上げているかのように思えて、ぼくはその錯覚に身体を震わせた。

 一瞬浮かんだイメージが、頭からすぐには離れない。


 例えば。

 今、自分がいるのは暗い地の底で。

 空に浮かぶ丸い光は、自分が落ちてきた、その、穴で。

 そこから見える天上の世界は、明るくて華やかで色鮮やかで、まるで天国のように光り輝く暖かい場所で…。


 そう、思って見上げれば。

 それは全く違うモノのように目に映った。


「とび、ら……?」


 丸く開いた天の扉。

 月の満ち欠けは扉が開き、そして閉まるさまに、思えてくる。




 その時、ポケットの携帯が震えた。

 ハッとして息を吸い、ゆっくりと二度三度と深呼吸してから携帯を取り出す。

 電話の着信だと分かった。

 それはクオンからの電話だった。

「……はい」

『今どこっ!』

 焦ったような大声に、思わず携帯を耳から離した。

「こ、公園に…」

『なんで外出してんだよ!』

「なん、でって……」

『今からそこに行くからっ』

「え……?」

『とにかくルカさんは、そこにいてっ!』

 言うや否や電話は切られ、ぼくはよく分からないまま携帯を見つめた。

 クオンは今日、『オブリビアス』の舞台のはず。東京公演の一日目で、夜の部の一公演だけとはいえ帰宅は夜遅くになるはずだった。

 眉を寄せて携帯の時間を確認して、ぼくは一つため息をついた。

 クオンが帰ってくる時間には家に戻っているつもりだった。充分間に合う、はずだったのに。

 時々。

 本当に時々だけれど、時間の感覚が曖昧になる事がある。

 また心配させてしまった、と。申し訳なく思いながら大人しくベンチに座ってクオンを待つと、しばらくして息を切らせたクオンが、公園の入り口から走ってくるのが分かった。

 そう言えば前の特別な月の時にも、こうしてクオンが迎えに来てくれていたな、と、どこか他人事のように思い出す。

 だから。

 また、怒られるのだと思っていた。

 あの時と同じように、またクオンに心配をかけ、怒らせてしまったのだと思っていた。

 なのに。

「……良かった」

 息を切らせたクオンがぽつりと漏らした言葉は、ぼくを責める言葉ではなかった。

「無事で、良かった……」

 クオンが、何を心配していたのかが分かった。

 それと同時に、本当にぼくの身を案じてくれているのだという事が、痛い程に伝わってきた。

「……月を、食べに来たんですか」

 下を向き、膝に手を当てて息を整えながらクオンが聞く。

 今日が『特別な月』の日だとテレビのニュースでもやっていたから、クオンも気付いてはいたのだろう。

「出来れば、で、いいんですけど…」

 クオンがちらりとぼくを見上げた。

「外出するなら、事前に教えておいてもらえませんか」

 止めたり反対したりしないから。と、そう続けて言われて。

 外出する事をぼくがクオンに伝えなかったのは止められると思ったから言わなかったのだと、クオンがそう勘違いしていることに気付いた。

「わざと黙っていた訳じゃないんだよ」

 ぼくは慌てて首を振った。

「すぐに戻るつもりだったんだ。クオンは大事な舞台の最中だったし、このくらいは大丈夫だって思ったんだ」

 まさか、またこんなに心配をかけてしまうなんて。こんな時間まで公園にいるつもりは無かったんだと、そう言って謝ると、クオンはほんの少しだけ笑った。

「とにかく…携帯、持っててくれて助かりました」

 クオンの、どこか泣きそうにも見えるその笑顔に、ぼくは言葉を失った。

 敵わない、と思った。

 ここまで無償に心配されてしまっては、どうやっても、何をしても、クオンにはもう敵わない。

「ルカさん?」

 ふと、黙ったぼくを訝しんで、クオンが首を傾げた。

「隠し事はしないよ」

「…え?」

「クオンには全部話すよ。これから何かが見えても、何かがぼくに起こっても、クオンには何もかも全部話すよ。ぼくが何かする時には必ずクオンに相談する。ぼくはあまりそういうのが得意じゃないから、何をどうしたらいいのかよく分からないけど、でも、ぼくに起こる全てを、クオンにだけは全部話すから…」

 だから、そんな泣きそうな顔で笑わないで欲しいと思った。

「ぼくは人の機微に疎いから、どうすればクオンを不安にさせずにいられるのかが分からない。だから、言って欲しい。何を、どうすればいいのかって」

 クオンが、目を見開くのが分かった。

 驚いたような表情でぼくを見るクオンに、今度はぼくが首を傾げる。

「なに……?」

「どうしたんですか」

「え?」

「ルカさんからそんな風に言われるなんて、思ってもみませんでしたよ」

 心底意外だという表情で、クオンがぼくを見つめた。

「いや。だから、ぼくは人の機微には疎いから…」

「そういう事じゃなくって」

 クオンが、苦笑交じりに目の前で手を振る。

「いや、いいんです。一歩前進って事ですよね。嬉しいです」

 そう言って笑ったクオンの顔は、もう先ほどみたいな泣きそうな顔ではなかった。

 その事に、ぼくは安堵する自分を感じていた。

「…帰りましょう」

 クオンに促されて歩き出す。

 今夜は前と違って、最初から同じ家に向かって帰っていることが何だか少し不思議だった。

「明日の千穐楽、見に来るんですよね」

「うん、打ち上げにもちゃんと参加するつもりだよ」

 ニーナは翌日に予定があるから、観劇だけで帰る予定になっている。

「大丈夫なんですか」

 クオンが心配するのはもっともだったが、それでも、行かない訳にはいかなかった。

「…多分、大丈夫だと思うよ」

「ルカさん…」

 また、いつもの『大丈夫』だと思って呆れた声をだすクオンに、ぼくは苦笑しながら首を振った。

「違うんだ。何となくだけど、大丈夫な気がしているんだ」

 クオンが自宅に泊まるようになってからここ数日、実は一度もヴィジョンを見てはいなかった。自宅に引きこもっていることも一つだとは思ったけれど、公園に行く間にも、公園で空を見上げている間も、一度も何も見ていない。それが根拠のない自信になっているのかも知れなかったけれど、とにかく大丈夫だと思っていた。

「それにね。よく、眠れているんだ」

 不思議と、よく眠れていた。悪夢も一度も見ることなく、朝までぐっすりと眠ることが出来ていた。

「クオンが家で過ごすようになってから、本当に、とても体調がいいんだよ」

 きちんとした食事をして、きちんとした睡眠をとる。そして、傍に人の気配がするという事が、こんなにも自分を落ち着かせるなんて、少し前までは想像すらしなかった。

「そっか。オレ、少しは役に立ててるんだ」

『少し』どころではなく実は『かなり』なのだけれど、改めてクオン本人にそれを伝えようとは思わなかった。それこそ今さらのような気もした。

 ただ、少しだけこの平穏が怖いと感じる自分もいた。

 嵐の前の静けさのような、穏やかな時間。

 もう少しで何かに届きそうだという感覚は、少しずつ強くなっているような気がしていた。




 翌日、舞台が終わったら楽屋に行くよと約束して、先にクオンを家から見送った。

 その後にも何度もメールが来て、まるで安否確認のように繰り返される『大丈夫?』『大丈夫だよ』のやり取りに苦笑しながら、外でニーナと待ち合わせた。

 ニーナはプレゼントしたあの帽子をかぶって現れた。ニーナと合流したと伝えると、ようやくクオンからのメールは落ち着いた。

 ニーナと一緒に食事を取ってから劇場へと向かったが、その間も何一つヴィジョンを見ることはなかったし、ごく普通にあたりまえのように過ごせていることが、何故か自分でも不思議だった。

 こんなに凪いだ気持ちでいるのは、もしかしたら初めてなんじゃないかと思う程、心はとても静かだった。

「…なんか、落ち着いたみたいね」

 ニーナにそう言われて、客観的に見ても落ち着いて見えるなら良かったな、と、素直に嬉しく思いながらも、それでも予感めいたものはずっと心の奥底で感じていた。何かが、起こりそうな気がしていた。




 オブリビアスの舞台は、静かに観ることが出来ていた。

 初日の観劇の時よりも余程しっかり見れているような気がした。

 ふと、クオンの演じる男を見ながら気づいた。

 繰り返し続ける十年にも満たない短い人生。

 何度も生まれては死ぬことを繰り返してきたその中で、それでも、ただの一度も、一人で命を終えたことが無かったのだという事に気付いた。

 誰かに命の火を吹き消されたその時も、飢えや病で終えたその時でも、決して一人ではなかったと思い返す。

『亡くなる時、見送る者がいるのは幸せな事だよ』

 先代の言葉を思い出す。

 幸せとは言い難い人生ばかりだったはずなのに、それでも思い返してみれば少なくとも、絶望するほど不幸な人生ではなかったのかも知れない。

 舞台上のクオンを正面から見上げた。

 ぼくの最後の瞬間に立ち会い、ぼくの命を奪いながらもその眠りを涙で見送った、表情のない静かな男。

 彼は、何故涙を流したのだろう。

 そしてまた、クオンも。

 脚本やノートにも書かなかったはずなのに、どうしてクオンは男と同じように泣いたのか。

 聞いてみたいとは、思った。

 けれど、それが『男』の気持ちではないという事もまた、分かっていた。

 クオンが舞台上で泣いたのはクオンなりの解釈に他ならない。

 脚本を読み込み、擦り切れる程に繰り返しノートを読み返し、そして心までその男になりきって舞台の上に立ったのだとしても、それでも男が流した涙の本当の理由は、男以外には知りようがないもの。

 どれだけそっくりに演じることが出来たとしても、神がかり的にまるで男が乗り移ったかのようにクオンが舞台の上で生きて見えていたとしても。

 それでもクオンは、その男ではない。


 人の魂が生まれ変わっていくことは、身をもって理解しているつもりだった。

 大半の魂は一つ前の人生さえ覚えていることは出来ない。

 だとするなら。

 もうその男本人にさえ問う事は出来ないのだと、今さらながらに実感する。

 男の魂もいつかはその生を終え、また他の国、他の誰かに生まれ変わっているのだろう。

 時を、さかのぼる事は出来ない。

 何度も繰り返す人生のその時の流れは一方向で、同じ時、同じ都市、同じ町に生まれた事は一度としてなかった。

 だからもう。

 二度と問う事は出来ない。

 二度と、言葉を交わすことは出来ない。

 二度と。


 二度と。

 会うことは、出来ない。


「ハルカ?」

 静かに声を掛けられて、ふと瞬きをすれば頬を温かい何かが伝っているのが分かった。

 いつからぼくはこんなに、涙もろくなったのだろう。

「大丈夫?」

 ぼくは涙を振り切るように軽く目を閉じた。

 そしてゆっくりと目を開け、心配そうな顔でぼくを見つめるニーナを見つめ返した。

「…大丈夫だよ。舞台を、見ていただけだから」

 優しいニーナ。

 生まれた時から傍にいて、ぼくの傍でノートを読み、こんなぼくを優しく労わり支えてくれる愛しいニーナ。

 この、ニーナとも。

 いつかは別れる時が来るのだと思い知る。

 クオンとも、今、周りにいる誰とも、いつかは分かれの時が来る。

 それは明日かも知れない。

 一年後か、十年後か、少なくともあと数十年後には、人としての寿命を迎える日が誰にでも必ず訪れる。

 そして、新たな別の人生を始める。

 それまでの全てを忘れて。

 名前も、それまで送ってきた人生も、何もかもをすべて忘れて。


 ぼく以外の人は皆、全てを忘れる。

 それまで生きてきた自分自身のことも忘れて。

 そして、この、ぼくのことも忘れて。




 ぼくだけが、覚えている。

 ぼくだけが、忘れない。

 みんな忘れてしまうのに。

 どうせ、みんな忘れてしまうのに。

 誰もぼくのことを覚えていることは出来ない。

 例え生まれ変わって巡り合うことが出来たとしても、その魂が過去にニーナであったとしても、例えそれがクオンだったと分かっても、ぼくの事を誰も思い出すことは出来ない。

 誰も『神崎遙』の事など覚えていない。

 ぼくが生き続けることを望んでくれた両親も、優しかった祖母も、ニーナも、クオンも、誰一人として、ぼくを思い出すことはもう、ない。


 みんな、みんな、忘れてしまう。

 いつも、同じことの繰り返し。


 ぼくだけがずっと過去と繋がったまま、たった一人で寂しく旅をしているような気分だった。

 十年足らずで終えてきた過去の人生の中で、感覚として感じてはいたけれど、言葉として認識したのは、大人になった今が初めてかも知れない。

 虚無感、のような。寂寥感、のような。


「寂しい…の、か…」


 小さく零した言葉は、終盤に差し掛かった舞台の音響の音でかき消され、ニーナの耳には届かない。

 心配げにこちらを覗き込み、耳を寄せてくるニーナに笑いかける。

「何でもないよ。大丈夫」

 どれだけ大事に思っても、どれだけ大切に思っても、いつかは失うモノならば、この想いはどこに向かえばいいのだろう。

 リセットされない記憶を持ち続ける意味なんて、もうどこにも、探せない。




 気付けば、舞台はエンディングを迎えていた。

 観客が拍手をしながら次々と立ち上がっていくのが分かった。

 割れんばかりの拍手の音が、辺りに大きく響いていく。

 舞台を見つめる観客の中には、ハンカチで目元を拭っている者の姿もあった。

 それは不思議な、感覚だった。

 人は、なぜ、泣くのだろう。

 客席が総立ちになる中、舞台上でキャストたちが一人ずつ挨拶を始めた。

 スタンディングオベーションに感謝し、そして無事に千穐楽を迎えたことを喜びながらも、これで終わってしまう事を寂しく思うと言って言葉を詰まらせた座長に、他のキャストたちも同じように目元を赤くしながら、肩を叩いて笑っていた。

 クオンもまた、目を赤く腫らしたまま挨拶し、

『これは舞台の余韻というか、名残りだから!』

 そう言い訳しては、他のキャストに笑われていた。

『でもさ、オレ、実はあの隼人のラストシーン、袖で見てていつも貰い泣きしそうになってたんだよね』

 キャストの一人がそう言いだし、実は俺も、俺もとあちこちで手が上がり、クオンは舞台上で目を泳がせて固まっていた。

「私も!」

 不意に客席からも声が上がった。

 次々に上がる声に拍手も重なり、舞台上のクオンはもちろん、ぼくも思わず客席を振り返り、拍手する人たちを見つめた。

 呆然と辺りを見回していると、隣のニーナと目が合った。

 ニーナの目元もわずかに潤み、少し嬉しそうに、けれど少し切なそうに、笑いながら頷いていた。

 舞台上のクオンが一瞬、泣き笑いのような顔をして、堪えきれないように客席に背を向けた。

 肩を震わせ泣き続けるクオンに、他のキャストたちが声を上げてその背を優しく叩いていく。

 頷きながらキャストたちに笑い返し、どうにか涙をこらえて客席の方を向こうとするクオンの顔は、もうあの無表情な男の顔ではなかった。

 仲間と共に舞台に立ち、全てを掛けて役を演じ切った『久遠寺隼人』の表情だった。

 鳴りやまない拍手と歓声に包まれる中、舞台上の役者たちが嬉しそうに何度も繰り返し頭を下げ、客席からもこれでもかという程の拍手が返される。

 終わらないそのやり取りに、ニーナが、独り言のようにぽそりと小さく呟いた。

「…良い、舞台だったわね」

 良い、舞台。

 そう、これは舞台だ。

 これはぼくが脚本を書き、牧野さんが演出し、クオンや他の役者たちが作り上げた、一つの世界、一つの舞台に他ならない。

 勘違いしてはいけない。

 これは、ぼくの過去そのものではない。

 観客が感動して涙を流し、拍手を送ったのは、ぼくが書いた過去の人たちに対してじゃないんだ。

 役者が演じて伝えた心は、この舞台を作り上げてきた人たちの心そのものだ。

 そう、思うのに。

 この、心が震える感じは何なのだろう。

 言葉にすることの難しいこの感覚は、一体なんと言えばいいのだろう。

「久遠寺くんも、なんだかすごくいい顔してるね」

 客席に向かって手を振るクオンは、確かに、本当にいい表情をしていた。

「本当に嬉しくて堪らないって、そんな顔してる」


 いつかは自分が主役の映画を。

 いつかは自分が主役の舞台を。

 それを、出来るだけたくさんの人に見て欲しい。


 そう言っていたクオンの声を思い出す。

「クオンの夢、だからね」

「夢?」

「出来るだけたくさんの人に、自分の演技を見て欲しいって、前にそう言ってたから」

 僅か数十年の人生に見る、将来の夢。

 それに向けて生きる姿は、確かにとても輝いて見えた。

「……ハルカも、」

 ニーナがゆっくりとぼくを見た。

「久遠寺くんみたいに、素敵な夢を見つけてね」

「……そう、だね」

 夢を持つことが出来るなら。

 やりたい事を見つけることが出来たなら。

 ぼくの中にあるこの空洞のような隙間を、何かで満たすことが出来るだろうか。

 こんなにも過去の記憶に引きずられながらも、たった一つだけ思い出せない『最初の記憶』。

 その、忘れている『何か』を思い出せれば、見つけることが出来るだろうか。

 手に入れることが出来るだろうか。

 生きるために必要な何かを。

「ホントに、そう、思うよ」

 壊れかけたこのぼくの心を、その最後の破片の一つは救ってくれるだろうか。

 それとも。

 思い出すことで逆に何もかもを失ってしまう事になるだろうか。

「出来れば、まだもう少しだけ…」

 まだもう少しだけ、神崎遙でいたいと。

 そう思う自分を感じていた。




 楽屋へ行くと何故か次々と『一緒に写真を』と誘われた。

 ニーナは、クオンや牧野さんに挨拶を済ませると、後は関係者だけで楽しんでねと、一足先にタクシーで帰っていった。

 それを見送ると同時に、衣装を脱ぎメイクを落としたキャストたちと一緒に、まるで撮影会のような写真交換会のような時間が始まった。

 キャストやスタッフたちと一緒に撮るオフィシャルなものはもちろん、それぞれ個人個人と、ぜひ一緒にと言われて思わずぼくは戸惑った。

「何か、すごく有名人になった気分だ」

 ポツリと小さく零すと、傍にいた牧野さんが声を上げて笑った。

「これだからナギくんは面白いよね。今やネットじゃ役者よりも注目されてるって言うのに」

「は?」

「何だよ。本人は知らないのか?」

 見れば、携帯を片手にぼくの周りに役者の列ができている。

「な、なに…?」

「滅多に人前に出ないから、レア度満点のモンスター扱いってところかな」

 そう言ってニヤニヤと笑う牧野さんは、本当に楽しそうにぼくの背を叩いた。

「見た目も良くてインテリで、しかもちょっと天然ってところがファンの心をくすぐるんだろ」

「そうそう。だから神凪さんが一緒に映った写真をアップすると、ブログとか一気にアクセス数が上がるんですよね」

 うんうん。と、周りで頷く役者やスタッフの、言っている意味が全く理解できない。

「…は?」

「神凪さんって、黙ってたら役者さんみたいにも見えるのに、天然だし、放って置けない感、半端ないっすよね」

「特に何か目立った事してる訳じゃないのに、人目を惹くっていうか、気になるっていうか」

「俺、年齢聞いてびっくりしちゃった。絶対俺の方が年上だと思ってたもん」

「神凪さんって、ホント童顔っすよね」

 次々に言われる言葉に、思わず目が回りそうになる。

「そ、れは頼りないって事、かな?」

「いやいやいや、そうじゃなくって」

「ほらー。そういうちょっとズレた所がまた天然って感じなんですよねー」

「隼人が世話を焼きたくなる訳だよなー」

 名前を呼ばれて、クオンが少し離れた場所からこちらに顔を向けた。

 不思議そうな顔で首をかしげてこちらを見る姿は、先ほどまで舞台に立っていたクオンとは、また別人のように思えた。

「…てかさ。お前ら何気に失礼な事言ってるって気付いてる?」

 近付いてきたクオンが、少し呆れたように彼らを見回した。

「ま、言いたくなる気持ちは分かるけど…」

「だろ、だろ?」

「けど、牧野さんはともかく、お前らはそれ言っちゃダメなやつだろ」

「あー…、別に失礼な事とかは言われてはいないよ?」

「もーね。ルカさんがそんなだから、いじられキャラになるんですよ」

「おおおっ。隼人は神凪さんのこと『ルカさん』って呼んでんのかぁ」

「下の名前で呼んでんだ。え。じゃぁ神凪さんは隼人の事なんて呼んでんの?」

 一瞬、周りが静かになったような気がした。

 そんなに、注目を浴びるような話題だろうか。

「クオン…って、呼んでる、けど?」

 おおお。と、どよめきのような空気が一瞬辺りを包んだ。

「『寺』を略して『久遠』かぁ」

「なーんか『久遠』って略してる感じじゃなくて、『クオン』ってカタカナで呼んでるっぽく聞こえるよね」

「だよねー」

「『ルカさん』に、『クオン』かぁ。なんか二人だけの世界ってカンジぃ?」

「意味が分からん」

 クオンが眉を寄せて周りの役者たちを睨みつけた。

 ぼくも皆の言っている意味がほとんど理解できない。

「まぁまぁそう怒るなよ。お前がこの間ブログに載せてたあの写真、みんな羨ましくって仕方がないんだよ」

「あの写真って…」

「神凪さんと二人でご飯食ってる写真だよ」

 ああ、とぼくも思い出す。

 ぼくの家でクオンと一緒に食事をした、あの時の写真の事だろう。

 それなら、ぼくにも分かる。

 あの時のブログを見て、羨ましいという事は。

「…皆もクオンの作ったご飯が食べたかったの?」

 その瞬間、辺りを爆笑の渦が包んだ。

「ヤバいっ。ホントに神凪さん、天然だっ」

「ここまでくるとマジで天使に思えてくる」

 目に涙を浮かべている者までいる。

 何が起きているのか分からなくて、助けを求めるようにクオンを見れば、クオンは何とも言えない表情でぼくの顔を見つめ返していた。

「…もう何も言わない方がいいと思う」

 その声が、少し呆れているように聞こえたのは気のせいだろうか。

「てか、やっぱあのハンバーグ、隼人の手作りだったんだな。お家ご飯って本当だったんだ」

「違うよっ。あれは温めるだけのインスタント料理だ。あんなのはオレの手料理じゃないっ」

「やっぱ男は胃袋掴むのが一番か」

「お前ら一体何の話だっ」

 矛先がぼくからクオンに移ったところで、牧野さんがぼくの肩に手を置き、耳元で小さな声でささやいた。

「ま、何だかんだ言ってさ、要はみんな、お前さんのことが好きだってことだよ」

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 みんなが、ぼくを、好き?

 思わず辺りを見回した。

 皆が、笑っていた。

 クオンの肩を小突きながら、ぼくを見て、一緒に笑顔で写真を撮りながら、嬉しそうに笑っている。

 考えた事なんて、なかった。

 なるべく目立たないように、なるべく他の人と同じように、それだけを考えて生きていた。

 嫌われることがない代わりに、好きだと言われたこともまた、なかった。

 だからこんな風に正面から好意を向けられると、どうしていいのか分からなくなる。

 それでも、照れくさくもまた素直に嬉しいと思った。仲間として、認められたような気がしていた。

「ありがとう…ございます」

 だから、素直にそう言葉で伝えると、牧野さんは一瞬きょとんとした顔をして、その後すぐにまた爆笑した。

「ホントにもうナギくんは……」

 ぼくが首をかしげると、牧野さんは今度は優しく、笑った。

「キミは、そのままでいてくれよ」

 そのままで、いい。なんて。

 それを望まれる日が来るなんて…。


 ぼくは静かに辺りを見回した。

 舞台を終え、興奮も冷めやらぬキャストやスタッフたちを見回して、静かに考える。


 本当に、このままでいいのだろうか。

 こんなに空っぽのままの自分でも、それでもいいと言って貰えるのだろうか。

『神崎遙』として今を生きる自分と、過去に生きる別の自分が、とても良く似た別の存在のように感じられてくる。

 ぼくが、二人、いる、みたいだ。

 全てが壊れてしまうくらいなら、そう切り分けて生きるのも一つの方法なのかも知れない。

 それが良い事なのかどうかなんて、それはぼくにも分からないけれど。




「大丈夫ですか?」

 打ち上げと称した飲み会の場所に移動すると、クオンはぼくの隣の席に座った。

 次々に入れ替わるように写真を撮っては何故かまた笑われて、そんな事を繰り返していた事をクオンなりに心配してくれていたらしい。

「ん、大丈夫だよ。ちょっとびっくりしたけどね」

「少しは自覚した方がいいですよ」

「なにを?」

「ルカさんも充分、タレントだってことですよ」

 ぼくが黙ってクオンを見つめると、クオンはまた呆れたような顔でぼくを見つめ返してきた。

「小説や脚本を書いて、時々インタビューも受けて、メディアに出てる段階でもうタレントなんですよ。ファンレターだって貰ってるでしょ?」

 それはまぁ、編集者経由ではあるけれど、それなりに手紙は貰っている。

 けれどそれらの大半は、ファンレターというよりは感想文のような物に近い手紙で、クオンたちがファンから貰うようなそれとは違うような気がした。

 それにクオンのような役者たちとは違って、街中でサインを求められる事もなければ一緒に写真をと言われたことなど一度もない。タレントと言われてもピンとこない。

「顔出しする前はそうだったかもしれませんけど、これからは少し変わってくると思いますよ」

 ルカさんにとって、それが良い事なのか悪い事なのかは分かりませんけど。と、クオンは笑っていたけれど、そんな風に言われても、ぼくには何を自覚すればいいのか分からなかった。

 そんな話をしているうちに、それぞれのテーブルにビールが回り、舞台が無事に千穐楽を迎えた事とその成功を祝した乾杯の声があがった。

 それを合図にあちこちのテーブルでも、次々と祝杯の声が上がる。

 ぼくとクオンもビールの入ったグラスを軽く合わせて、舞台の成功を祝った。

「そう言えば一緒にお酒飲むのって、初めてかも」

 何度も一緒に食事をし、互いの家を行き来し、今では一緒に暮らしているというのに、そう言えば一緒に酒を飲んだことはなかったなと、言われて初めて気づいた。

 舞台の打ち上げに参加することは度々あったけれど、そこでクオンと一緒になることはなかった。クオンは次の舞台の予定が控えていることが多かったし、互いに都合が悪くて参加を見送る事が重なり、気にしたことはなかったけれど、一緒に打ち上げに参加する事自体が、もしかしたら初めてかも知れなかった。

「何だかちょっと新鮮だね。まぁ、ぼくの家にアルコールがないっていうのも、一緒に飲む機会がなかった理由の一つだろうとは思うけど」

「お酒、苦手なんですか?」

「そういう訳じゃないけどね、あまり強くないから家ではほとんど飲まないよ。クオンは普段、何飲むの?」

「甘くなければ何でも飲みますよ」

「ビールくらいは家に少しストックした方がいいかな」

 長い時間を一緒に過ごしている気がしていたけれど、お酒さえ一緒に飲んだことがなかったなんて、意外というか、何だか不思議な感じがしていた。

「じゃぁ今度、オレが美味しいお酒をプレゼントしますよ」

 また、今度。

 次の機会に。

 時々、思い出したようにクオンはこうやって「次」への約束を口にする。

「…何です?」

「何でも、ないよ?」

「……隠し事、しないんじゃなかった?」

 一瞬だけ沈黙して、クオンが声を落として囁いた。

 ああ、そうだった。ぼくはクオンに言ったのだ。クオンに隠し事はしないと。何でもちゃんと話すと。

 何をすればいいから分からないから、して欲しい事は言ってくれと。そう言ったことを思い出す。

 ぼくが声なく笑うと、クオンが首を傾げた。

「いや、ホントにどうという事はないんだ」

 ただ、クオンとの未来への約束が積み上がる度に不思議な気分になるのだ、と。そう伝えるとクオンは更に奇妙な顔をした。

「未来への約束って…。オレ、そんなに大したこと言ってないよ」

 それは充分、分かっていた。

 次に飲む時は、良い酒を用意する。

 次は、割り勘にしましょう。

 ただそれだけの約束が、クオンがぼくに向かって言うそれらが、ぼくには他とは違う意味を持つものに思えてしまうだけのことだった。

「未来への約束って言ったら、さっき牧野さんに、トークイベントとかも誘われたりしてたよね」

 牧野さんが登壇するトークイベントに、ゲストとして参加することを約束させられた。

 その後予定しているラジオ収録などにも、参加できるなら参加して欲しいと言われた。

 他のキャストたちとも、今度別の機会に食事に行きましょうと誘われた。

「それらだって『未来への約束』ってことでしょ。てか基本的には『約束』をするって事自体が、未来への取り決めみたいなもんだけど」

 それでも何故か他の人との約束には、そこまでこだわりの感情は湧かなかった。

 ただクオンの口にする約束だけが、それが些細であればある程、何故か理由も分からないままに、気になってしまう自分を感じていた。

「だから言ったでしょ。どうという事もないって」

 自分でも分からない引っかかり。

 なぜなのか、自分でも分からない。

「…でも、聞けて良かった」

 ちゃんと話してくれる事が嬉しいのだと、そう言ってクオンはホッとしたように笑った。

 その顔が、前に見た時の泣きそうな顔では無かった事に、ぼくは何故か安心していた。

 ぼくの中の何かが、少しだけ落ち着いたような気がした。




 打ち上げが終わると、クオンと同じタクシーに乗って帰宅した。

 互いの自宅が近いから。という理由で二人で同じタクシーには乗ったけれど、実際には帰る家は同じで、けれどクオンはなぜかそれを皆には言わない方がいいと言うから、あえてぼくからは何も言わなかった。

「結構冷えてきましたね」

「もう夜も遅いしね。昨日の夜はあんなに暖かかったのに、今日はまた冬に逆戻りしたみたいだ」

 タクシーの中で外を見ながら会話していると、運転手さんがバックミラー越しに話しかけてきた。

「さっきラジオで、夜半過ぎには少し降るかも知れないって言ってましたよ」

「え、ホントですか」

 クオンが驚いたような声をあげた。

 窓越しに見える空には星が瞬き、昨日も見上げた丸い月が、綺麗に空に輝いている。

 とても雨が降るような天気には思えない。

「雪ですよ」

「は?」

「雪、ですよ。最近じゃ、四月を過ぎてもまだまだ雪は降りますから」

 異常気象と言いながらも、桜の花に雪が積もることも珍しくはない時代だから、そういう事もあるだろうとは分かるが、少なくとも今日、そこまで冷えているとは思わなかった。

「ああ。でも……」

 そのせいか。と、思わずぼくは納得した。

 いつもよりずっと、世界が静かな気がしていた。

「今日は何となく雑音が少なくて不思議に思っていたんだよ。雪が降るなら、それも分かる気がする」

 雪が降る前後は、周りの音が驚くほど消えて静かになる。

 普段どれだけ音に包まれているのか改めて実感する程、細かい雑音が聞こえなくなる。

「お客さん、面白い言い方するね。でも、何か分かる気がするよ。雪が降ると世の中がいつもより静かな気がするからね」

「雪は音を吸収するって言いますからね」

 クオンはそう返しながらも、でもそれって雪が降ってる時とか、積もってる時の話ですよね。と首を傾げた。

「雪が降る前後も、ぐっと静かになるんだよ」

 雪が降る前の、静かな時間が好きだった。

 沈黙の中に聞こえる騒音も、その時ばかりは鎮まるような気がしていた。

「クオン、公園で降りよう」

「え?」

「公園で降りて、家まで歩いて帰ろう」

 この静かな時間を、少しでいいからあの公園で過ごしたいと思った。

「え、またですか……」

 クオンが、困ったような顔で眉を寄せる。

 昨日も夜、公園に来たでしょう、と視線で言われた気がした。

 じゃぁ先に帰ってていいよ、と。そう言いかけて、けれどぼくはそれを言葉にはしなかった。

 代わりに。

「一緒に、月を見上げながら帰ろう?」

 少し前のぼくなら、ためらいなく『先に帰ってて』と言っていただろうと思った。

 けれど、ぼくは何故か一瞬、クオンと一緒に月を見上げたいと思った。

 こんな風に誰かと、何かがしたいなんて思ったのはもしかしたら初めてかも知れない。

 クオンが、少し驚いたように目を見開いた。

「…もしかして酔ってる?」

「どうかな」

 何だか、不思議ととても良い気分だった。




 公園でタクシーを降りてすぐ、ぼくは公園の中へと歩き出した。

「ルカさんっ」

 そのまま帰るつもりでいたらしいクオンが、あわててぼくの後について走ってきた。

「帰るんじゃないの?」

「ちょっとだけ、寄り道していこうよ」

「…実は最初っからそのつもりだったんでしょ」

 少しだけ睨むようにこちらを見たクオンは、それでも何故か嬉しそうな顔をしていた。

「確かに結構、寒いね」

 クオンの顔の前で、吐く息が白い霞みとなって広がった。

 ぼくの顔の前でも同じように白い霞が音もなく広がり、そしてゆっくりと静かに消えていく。

 これで雨が降ったなら、確かに雨は雪に変わるだろう。

「でも、アルコールのおかげかな。そんなに寒さは感じないよ」

「それはルカさんが鈍いからでしょ」

 前回の事をまだ根に持っているのか、クオンは呆れたように首を振った。

 それでも。

 今ならそのクオンの目の中に、ぼくを心配する優しい気持ちを見つけられる。

 クオンも、ニーナも。

 牧野さんや岸谷くんや、他のたくさんの役者の子たちも、みんな、本当に優しい。

「ねぇ、クオン」

 後ろから歩いて来るクオンを振り返り、正面から見つめた。

「今度、月の食べ方を教えてあげる」

 気付くだろうか。ぼくが初めて自分からクオンに告げる、この言葉の本当の意味に。

 今まで、一度も自分からこんな未来への約束、したことはなかった。

『じゃぁまた明日ね』

『来週、また会いましょう』

 たったそれだけの言葉さえ、ぼくは口にするのが難しかった。

 仕事などのスケジュールとは違って、自らの感情や欲求から出る約束なんて、怖くて、自信が持てなくて、することが出来なかった。


『その時』は本当に来るのか。

『その約束』を果たす事は出来るのか。


 考えると怖くて、自信がもてなくて、自分から口にすることなんて出来なかった。

 それを今、ぼくはあえて言葉にする。


「次の特別な満月の日。食べ方をクオンに教えてあげる」


 クオンは何も言わずに立ち止まり、ぼくを静かに見つめた。




「何が、あったんですか」

 自分の顔の前に白い霞が広がっていくのを見つめながら、ぼくの些細な変化に気付くクオンに、嬉しいような、苦しいような不思議な感覚を覚える。

「何だか、ここ数日はすごく落ち着いてきたように見えたけど…」

 不安そうにぼくを見つめるクオンに、ズキリと胸が痛くなる。

 ああ、ごめん。そんな顔をさせたかった訳じゃないんだ。

 だけど、言わなきゃって思っていた。

 ずっと、クオンには言わなくちゃって思っていたんだ。


 一歩ずつ近づいてきたクオンが、手を伸ばせば触れそうな距離で立ち止まる。

「何だか今のルカさん……」

 ああ、ダメだよ。だからそんな風に泣きそうな顔をさせたかった訳じゃないのに。

「逆に、すごく遠くにいるような気がする…」

 ある意味それは、とても正しい表現のような気がした。




「自分でもよく分からないんだけどね、何だかとても凪いだ気分なんだよ」

 ここしばらくヴィジョンも見ていないし、何かを思い出しかけて混乱するような事もなかった。涙もろくなった部分はあったけれど、舞台を見て涙しても、心乱される事はなかった。

 クオンが一緒にいるおかげで、きちんとした食事も出来ているし良く眠れている。これ以上はない程規則正しい生活を送れているんじゃないかと思っている。

「自分の中がとても静かで、でも、そのせいか、色んなものが良く見えているような気がするんだ」

 おかげで、色々なモノが良く見えていた。

 自分の中に。

 たくさんの、自分が見えているような気がした。


「二重人格とか、そういうんじゃないんだよ。ちゃんと全部が自分なんだ。だけど、それだけでもないんだ」

 何と表現していいのか分からない感覚。

 神崎遙である自分と過去のたくさんの自分が、同時に自分の中に存在している。なのにそれらは同じようでいて完全に同じではない奇妙にズレた感覚。

 それらを繋ぐ大切な何かが自分の中には無いのだと、嫌でもそう気づかされる。

 おそらくはそれこそが忘れた記憶の中に在り、もしかしたら自分が自分であるために必要な何かだったのかも知れないと、今さらのように自覚する。


「……それって…」

 青ざめた顔でクオンがまた一歩、ぼくに近づいてきた。

 この距離に立つとクオンの背の高さがよく分かる。

 その場所から見える景色はどんなだろうと、逃避のように意識が揺らいでいる。

「うん、分かってる。多分、精神的にはあまり良い状況とは言えないんだろうね。分裂…とまではいかなくても、少し壊れかけているような気はするから」

 だけど、何故か心はとても穏やかだった。

 落ち着いていて凪いでいて、まるで嵐の前の静けさのような緊張感も含んではいたけれど、まるで全ての準備が整い、後はその時が来るのを待っているだけなのだとでも言うように、心は不思議なくらい静かだった。

「何が、起きるって言うの」

「分からない。でも、多分ね…」

 何かを、思い出しかけているのだとは思った。ちょっとしたきっかけさえ見つかれば、何もかも思い出せそうな気がしていた。

 それに今なら静かに全てを受け止められるような気もする。

 忘れてしまった最初の記憶。

 おそらくは大切な、兄、の記憶。

「でも。でも、それじゃ…」

「……大丈夫だよ」

 クオンが何を心配しているのかは、分かっていた。

 全てを思い出した時、ぼくがこのまま壊れてしまう事を恐れてくれているのだろう。

 少し前のぼくは、それでもいいと思っていた。

 でも今はまだもう少し、神崎遙でいたかった。

 クオンやニーナと一緒に、まだもう少しの間でいいから、同じ時を過ごしたいと思っていた。

「ルカさんのその『大丈夫』って言う自信は、一体どこから来るんだろうな」

 どこか諦めたように呟きながらも、眉を寄せてぼくを見下ろす瞳が心配そうに揺れるのが辛かった。

「ぼくが…。ぼく自身が、まだ神崎遙でいたいって、そう思っているからだよ」

 まだ、失いたくないと思っていた。

 そう思っている自分が、自分でも少し不思議だった。

「クオンが、そう思わせてくれたんだよ」

 クオンとニーナがいたから、ぼくはまだこのままでいたいと思う。

 だから大丈夫なんだと、クオンにはそう伝えておきたかった。




 その時ふと、目の前を。

 何かが、よぎったような気がした。




 キラリ、キラリ、と。

 小さく光を反射しながら目の前を、何かが輝きながら落ちていく。

 吐息に白い霞がかかる中、それとは別の輝きが視界のあちこちで煌めく。

「あ…雪……」

 クオンの小さな呟きが。

 遠くに聞こえたような気がした。







 見上げた空に雲はなく、月があたりを照らしている。

 なのに無数の冷たい輝きが、音もなく辺り一面に降りそそぐ。

 思わず差し出した手のひらに、小さなそれが一つ舞い降りた。

 冷たいと感じる間もなく形を失い、次の瞬間には消えてしまう。

 儚い一瞬の輝き。

 ぼくはゆっくりと顔を上げた。


 儚い無数の煌めきが、空一面に舞っていた。







 目の前に、白いヴィジョンが重なる。






 空を覆いつくす程に舞う純白の羽根。

 見たことがない程真っ白で、息を飲むほど美しい白い羽根が、空一面を舞っている。


「……あ………」



 暗い夜空に浮かぶ満月と白い雪。



 明るい青空に浮かぶ丸い月と純白の羽根。



 現実の景色と過去のヴィジョンが交互に。

 速度を上げ、次々と目の前を流れていく。


「あぁ……」


 記憶が。

 過去の全ての記憶が。

 溢れるようにぼくを静かに飲み込んだ。







「…ルカさん?」

 静かに声を掛けられて、ぼくは身体を震わせた。


 見上げた空から顔を下ろし、ゆっくりと声の方に顔を向ける。

 こちらを心配げに見つめる背の高い男の姿が、一瞬誰だか判らなかった。

 何度か瞬きを繰り返して、ようやくそれがクオンだと思い出す。


 止めていた息を吐き出し、ゆっくりと息を吸い込んだ。

 幾人分もの人生を送ったと思える程、時間が経ったような気がしていた。

 それでもおそらくは瞬き数回分くらいの時間で、それが尚更、切なく苦しく思えた。


「ルカさん……?」

 ぼくを見つめるクオンの瞳。

 心配してくれている優しいクオン。

 その姿が、ゆっくりと涙でぼやけていく。

「…ルカさん」

「思い…出したよ……」

 何もかも、全てを。


 ぼくは、全てを、思い出していた。

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