前編
誰もいない公園のベンチに一人座っていると、こちらに向かって近づいてくる人の姿が視界の隅に映った。
せっかく世界に一人だったのに、残念だな。そう思ってそちらを見ると、だんだんとその姿が見知った男の姿に変わっていくのが分かった。
細身なのにがっしりとした体格。精悍な顔立ち。革ジャンにジーンズというラフな格好にも関わらず、遠目にも目を引くその立ち姿。
ああ、やっぱり彼は舞台映えする青年であるな。とぼくは内心、嬉しく思った。
一八〇センチはあるという身長に、整った容姿。身体を動かすのが得意で、アクションはもちろん、意外にもダンスが得意だというのは、役者としてはかなりの強みだろうと思う。
そんな彼が、ぼくが座るベンチまであと数歩の所まで来て立ち止まると、黙ったままぼくを見下ろした。
ぼくより若いにも関わらず、醸し出す雰囲気は随分と大人びていて、とても十も年下の青年とは思えない。特に、こうやって見下ろされた時などは、いつも何故だか落ち着かない気持ちにさせられる。
けれど、彼は明るく輝く二つの月の下、ぼくを見つめたまま立ち尽くし、何を言うでもなく黙している。
「ねぇ、クオン」
雲一つない空に浮かぶ美しい月を見上げて、ぼくからクオンに声を掛けた。
「キミも一緒に食べるかい」
今日、見える月は特別なモノ。一年で最も大きく美しく輝いて見える月。
だから、誘ってみる。
「今日の月は特別だから、キミにも少し分けてあげるよ」
クオンになら、少しだけ分けてあげてもいい。
「一緒に月を、食べるかい」
ぼくがそう言って笑うと、クオンはほんの少しだけ目を細めた。
「どうやって、食べるんですか」
言いながらも、月を見上げることなくそう返事をしたクオンは、着ていた革ジャンを脱ぐと、それをぼくの方へと差し出した。
「とりあえず、着てください」
「どうして?」
「寒くないんですか」
言われて、クオンの視線の先をたどるように、自分の身体に目を向けた。
家を出る時に傍にあったマフラーを掴んだのは覚えていた。けれど、確かにコートも着てはいなかったし、手袋も何も、防寒になるようなものを他に身に着けてはいなかった。黒のシャツに、ジャケット。下はジーンズにスニーカー。確かに、平常な感覚の持ち主であるならば、冬の公園を散歩する時に選ぶ格好ではないような気もする。
「そうだね。あまり寒いとは思わなかったけれど、外を出歩く格好ではなかったかもね」
「着てください」
「それじゃクオンが寒いだろう」
「オレは…大丈夫です」
「いいよ。マフラーで足りてる」
「全然、足りてませんよ」
無理やり背後から被せられ、その重さに少し驚いた。
「…重いね」
「そうですか」
ジワリと。革ジャンを通してクオンの体温が伝わってくる。そこで初めて自分の身体が、思う以上に冷えていることに気づいた。
「…うん、そうだね。やっぱり少し寒かったみたいだ」
「戻りましょう」
「ん?」
「ニーナさんが、心配してます」
クオンが、腕を掴んでぼくを立たせた。
「ルカさんが、電話しても出ないと…」
そう言えば、夜には電話すると約束していたような気がする。
「ああ。電話で話す約束を、していたかも知れない」
「携帯、家に置きっぱなしですか」
「ポケットには入ってないみたいだね」
携帯電話を見つけるのは、いつも至難の業に等しい。たいていは家の中のどこかにあるけれど、仕事で出かける時以外は、あえて探そうとは思わない。だからマフラーと家の鍵を掴んだ時に、携帯を思い出すことはなかった。
ニーナには後でちゃんと謝ろう。そう思いながら、ぼくはクオンを見上げた。
ぼくより十センチ以上は高い身長。
背の高いクオンを羨ましいと思ったことはなかったけれど、その高さから見える世界はどんな景色なのだろうかと、時々、興味が沸くこともある。
「…ちゃんと立ててないじゃん」
「え?」
掴まれた腕はそのままに、クオンがぼくを見下ろして眉を寄せた。
「いつから、ここに座ってた?」
小さく囁くように呟かれても、普段から時を計るものを持たないぼくは、何と答えていいのか分からない。
「今、何時?」
「二時過ぎ」
クオンの、口調が変わっていることには気づいていた。これは、彼が怒り始める時の癖だと、ぼくはもう知っている。
怒らせてしまった。
理由はよく分からなかったけれど、これ以上怒らせてしまう前に、と。ぼくは素直に謝った。
「…何に対して謝ってる?」
条件反射のような謝罪だと、それすら悟られてしまっていて、これでは本当にどちらが年上なのか分からないな、とぼくは小さく息を吐いた。心配をかけてしまったのは分かったけれど、何が気に障ったのか、やはりその理由はよく分からなかった。
「ごめんね。よく、分からない」
「だろうね」
それでも、ぼくを労わるように掴むクオンの腕はしっかりとぼくを支えている。
「帰りますよ」
有無を言わさぬ雰囲気に、まだ月を食べていないのにな。とは、口に出すことは出来なかった。
※※※※※※
「ここは、ぼくの家じゃないと思う」
連れられるままに歩き続け、クオンと一緒にたどり着いたのは、ぼくの住む一軒家ではなかった。
「オレのマンションですよ」
「…だよね」
クオンの住むマンションには何度か訪れたことがあったから、それはすぐに分かったけれど、なぜここに連れてこられたのかが分からない。
ぼくの家は公園の北側にあり、クオンのマンションは公園の西側にある。それぞれ公園まで歩いて十分程度の距離だったから、てっきりクオンはぼくを家まで送ってくれるのだと思っていた。
「送ってくれるんじゃ、なかったの」
「帰る、とは言ったけど、送る、とは言ってない」
そう言うのを屁理屈と言うのでは、と言いかけて、意外なほどに真剣な目を返され、思わず口を閉ざした。
「…こんな状態のあんたを、一人で帰せる訳がないだろ」
どんな状態だと言うのだろう。自分の状態が分からないぼくには、クオンのいう意味が半分くらい理解出来ない。
「何を心配しているのか分からないけど、別にぼくはいつもと何も変わらないよ」
「ここに着くまで、オレの家に向かってることにも気づかなかったのに?」
確かに、自分の家に向かって歩いてるつもりが、まさかクオンの家に向かっているなんて、途中でも全く気づかなかった。けれど、腕を掴まれ引きずられるように歩いていれば、注意力が散漫になるのも、仕方がないように思われる。
何と言い返そうかと考えていたら、少し強引に腕を引かれ、そのまま部屋に上げられた。
「ちょっとそこに座ってて」
リビングに置かれたソファに、半ば強引に座らせられた。
一人暮らしで使うには少し大きめの革のソファは、こだわって奮発したのだと以前、クオンが熱弁していた事を思い出す。普段、ここに寝そべって台本を読むのだと言っていたけれど、確かに座り心地はとても良い。
ぼくは一度ソファから立ち上がると、羽織っていた革ジャンを肩から降ろして座りなおした。
久しぶりに訪れるクオンの部屋。
リビングと寝室。二部屋しかないマンションのこの部屋は、ぼくの住む一軒家に比べたら随分と狭く洋風で、ぼくの好みとは真反対な雰囲気ではあるものの、それでも不思議と落ち着いた。年不相応に大人っぽいクオンの選ぶ家具や配置が、部屋を落ち着いた雰囲気にしているのかも知れない。どちらにせよ、このソファを含め、クオンの趣味はぼくの好みに似ていた。
テーブルの上に、一冊の台本が置かれているのに気付いた。手を伸ばし開くと、主要キャストの並びにその名前を見つけた。
久遠寺隼人。
そういえば、と。初めてクオンと出会った時の事を思い出す。
舞台役者として顔合わせの場所に現れたクオンは、最初、ぼくのことも同じ役者だと勘違いしていた。
「役者なら、もっと大きな声で話せよ」
そう言って背中を盛大に叩かれた。しかも、同い年どころか年下だと思われていて、最初はいわゆる「ため口」だった。ぼくとしてはそれでも構わないと思っていたのだけれど、それはあっという間に修正され、敬語や丁寧語が混ざった変な口調に変わった。そして、先ほどみたいに時々、親しい友人というよりは、まるで弟に話すような口調で怒られる。
周りに人がいる時は例え怒っていてもそんな口調にはならないのに、その辺りも不思議な青年だといつも思う。
「風呂。お湯を張ったから、ゆっくり身体温めてきて」
リビングに戻ってきたクオンが、そう言って着替えとタオルを持ってきた。
「え。お風呂?」
意味が分からなかった。どうしてクオンの家で風呂に入らなくちゃならないのか。風呂なら帰ってから自分の家で入ればいい。
「帰ってから、入るよ?」
「今日は泊まりだよ」
「え?」
「このままアンタを保護する。今日はこのまま、うちに泊まってもらうから」
「え、なんで」
「ニーナさんに頼まれた」
連絡のつかないぼくの居場所を、いつもの公園にいるのだろうと当たりを付けたニーナが、近所に住むクオンに連絡して、ぼくを見つけさせたという事らしい。
「…ずいぶん心配してたよ」
新名詩穂。
兄妹のように育った、たった一人のぼくの従妹。
電車で二駅離れた場所に住んでいて、何かとぼくの面倒を見てくれる、年下なのにまるで母親のような存在の、可愛いニーナ。
「うん。悪かったとは思ってる」
「さっき、メールしておいたから」
「…ありがと。明日、ちゃんと連絡するから」
「とりあえず、身体温めてきて」
仕方なく、差し出された着替えとタオルを受け取り、立ち上がって風呂場へ向かった。
「ちゃんと温まるまで出てくるなよ」
百、数えるまで出てくるな。とでも言いたげな目を向けられて、思わず肩をすくめた。本当に子ども扱いだな。と思いながらも、そういえばニーナもぼくを同じように扱う事を思い出す。
別に悪い気はしないけれど、二人とも少し過保護な気がする。
「別にぼくは大丈夫なのに…」
風呂場の扉を開けながら、ぼくはクオンには聞こえないくらいの声で呟いた。
「オレがソファで寝るんで、ルカさんはベッドで寝てください」
クオンの口調が戻り、機嫌が戻ったのだと分かった。いや、戻ったというより、少し冷静になったというところか。
「え、いいよ。ぼくがソファで寝るから」
「ダメです」
「だって、明日も舞台があるんでしょ?」
テーブルの上に置かれていた台本。
クオンは今、舞台の本番中だった気がする。
役者にとって身体は大切な資本なのだから、きちんと休まなければいけない。
ニーナに頼まれたとは言え、ぼくを保護するためにこんな時間まで夜更かしさせておいて今さらだったけれど、これでもぼくはぼくなりに、クオンの身体を心配している。
「やっぱり忘れてるんですね」
「え?」
「明日は『初顔合わせ』と『読み合わせ』ですよ。ルカさんも一緒に」
「……え」
「『オブリビアス』」
「…あ……」
それは、ぼくが一から全て書き下ろした舞台用の脚本『オブリビアス』の、舞台開始の予定日だった。
これまでにもぼくの書いた小説が舞台化されたことはあった。その時のぼくの肩書は『原作者』というもので、脚本はちゃんとした脚本家が別にまた改めて書き起こしてくれていた。
何度かそれを繰り返すうちに、自分でも書いてみようと勉強し、自分なりに一本書きあげた。それが今回の脚本。もちろん、手直しは入ったけれど、基本的にはほぼそのままに受け入れられ、今回、舞台化されることが決まった。
その『初顔合わせ』と『読み合わせ』。
キャストをはじめとしてスタッフも関係者もすべて揃い、このプロジェクトの開始を一般にも公開し、この舞台のすべてが始動する日。
ぼくは『脚本家』として、クオンは『主要キャスト』の一人として。
「ニーナさんも、電話でその予定を確認するつもりだったって言ってましたよ」
いつもスケジュールは携帯に登録するようにしていた。アラーム機能をつけ、前日には通知するように設定していた。
書き物に対する締め切りは忘れないのだけれど、こういったイベント事のようなイレギュラーな仕事は、ついつい忘れがちになる。
ぼくのそんな気質を知っているニーナが、心配して時々マネージャーのようにスケジュールを確認してくれるのだけれど、そういった意味でも今回、色々とニーナには心配をかけたことになる。
「しかも携帯を手元に置いてないなんて。それじゃ、アラーム機能を使ってたって意味ないでしょ」
ぼくの忘れっぽい性格を知る数少ない者の一人であるクオンも、呆れたようにそう言った。
その通りすぎて、もはや返す言葉もない。
「明日はルカさんの家に寄ってから、その足で一緒に行きましょう」
「舞台は?」
「今日、千穐楽でしたから」
千穐楽。そんな大切な日の夜を、こんな事でつぶしてしまったのだと分かって、ぼくは深くため息をついた。
「本当にごめん。そんな大事な日に…」
「何を勘違いしてるのか知りませんけど、ちゃんと打ち上げにも参加しましたし、無事に全部終わってますよ。今、何時だと思ってるんですか。ブログの更新だって、ちゃんと済ませてありますよ」
そうは言っても、一つの舞台をやり遂げた充足感や余韻を、味わう間もなかったに違いない。
「それでもやっぱりぼくがソファに寝るよ」
「年寄りは若い者の言う事を聞くもんです」
こんな時だけ人を年寄り扱いするのもどうかと思う。
「いや、そこは絶対に譲れない。あくまでもぼくをベッドにと言うのなら、今からでもぼくは家に帰る」
なかば意地になってそう告げると、それこそ我がままを言う子供を見つめるような目で見降ろされた。
「…分かりましたよ。風邪、引かないでくださいね」
「大丈夫だよ」
それに。と、思わず横目でベランダの方を見つめた。このリビングの方が、きっと月が綺麗に大きく見える。まだ、月を食べてなかったから、あとでちゃんと食べなくちゃならない。
「何か企んでる?」
クオンは何故かカンがいい。特に、ぼくが隠し事をする時には。
でも、これだけは譲れない。
今日のこの特別な月は、明日には特別ではなくなってしまう。食べるなら、今夜のうちじゃなくちゃならない。
「大丈夫だよ。ちゃんと、大人しく寝るから」
月を食べたら、大人しく寝るよ。
そこに嘘は一つもない。
ぼくは静かに笑った。
けれど。
こっそりとベランダに出ていたら、後ろから低い声で怒られた。
少しだけれど月を食べることは出来たから、ぼくは言われるままに大人しく部屋に戻った。また怒らせてしまったお詫びも兼ねて、少し月を分けてあげようかとも思ったけれど、クオンが無言で部屋のエアコンの温度を上げたり、ぼく用の毛布を一枚増やしたりと忙しくしているのを見ていたら、そんな事は言い出す事が出来なかった。
もう一度風呂に入れと言われた時には、さすがに丁重に断った。
※※※※※※
翌朝、舞台明けで冷蔵庫が空っぽだというクオンの提案で、駅前のカフェで朝食をとることになった。
一度、ぼくは自分の家に立ち寄り着替えを済ませると、携帯からニーナにお詫びのメールを送った。その時見た画面には、今日の予定を知らせるアラームの表示と共に、ニーナからの複数の着信とメールの通知、そして、クオンからの着信も表示されていた。最後の着信時間は、深夜の一時半。昨日の夜の出来事を思い返し、ぼくは改めて申し訳なく思った。
「何してるんですか。早く行きましょう」
客間で待っていたはずのクオンが、階段下から二階のぼくの部屋に向かって声を上げた。
「オレ、腹ペコなんですよ」
持っていた携帯と、それから財布をポケットに入れながら、ぼくは今日の朝食は奢ろうと決めて部屋を出た。
この家は、もともと両親が若い頃に建てた家だった。ぼくがまだ小さかった頃には、父親と母親とぼく、そして父方の祖母の四人で住んでいた。
祖母の意向を汲んで建てられたこの家は、どの部屋もみな和室で、唯一洋風に作られたのは客を招いた時に通す一階の客間だけだった。
二階建てのこの家はどう考えてもぼく一人で住むには広すぎたけれど、住み慣れた場所を変えるつもりはなかったから、昨年、立て続けに両親が亡くなった後もそのまま一人で住み続けている。
「ニーナさんに一緒に住んでもらえばいいのに」
クオンはそう言ったが、いくら従妹とはいえ男女が同じ家に二人きりで住むのはどうかと思う。それに何よりニーナ自身が嫌がるだろうと分かっていた。ニーナ曰く、ぼくはある意味、生活破綻者らしいから。
「生活破綻者って…」
クオンもさすがに苦笑いする。
普通に一人で生活し、仕事をして収入を得ている成人男性に対して、その表現はないだろうとぼくも思う。確かに仕事による収入は生活に充分という訳ではなかったけれど、祖母や両親が遺した遺産を、他に兄弟のいない僕一人が受け継いでいたから、生活自体、今後も困ることはないだろう。
おそらく、ニーナが言いたいのは食事の事なのだと分かっていた。
ぼくは基本的に、一人では食事らしい食事をとらない。お腹が空いたらお菓子やパン、たまにコンビニに行ったときに買うおにぎりを、本を読みながら、あるいはパソコンで小説を書きながら少し食べる程度だ。もちろん一日三食とは限らないし、時間も特に決まってはいない。
誰かと食事をするのは嫌いではない。それは、食事が目的な訳ではなく。その人との時間の共有が目的であり、会話を楽しむための手段の一つだと思うから。
「一人で食べるの、嫌なんですか」
クオンがモーニングセットのサンドイッチを口にしながら聞いてきた。
駅前にある小さなカフェ。流行りのチェーン店などではなく、夫婦で経営しているらしいこのカフェは、地元では密かな人気の店らしい。
その小さなお店の窓際の席に向かい合って座り、クオンがサンドイッチを頬張るのを見つめながら、ぼくはフレンチトーストにナイフを入れた。
「まぁ、分かりやすく言えば、一人で食事をするのが面倒なんだ。一人だと、ちゃんとした食事をする必要性を感じないと言うか何と言うか…」
「好きな食べ物とかは、ないんですか」
「んー、特にない、かなぁ」
「美味しいとか、不味いとかは分かりますよね?」
「あのね。味覚障害な訳ではないから」
クオンが、それでも呆れたようにため息をついた。だけど、仕方がない。呆れられようが何だろうが、食に対してこだわりどころか、執着がまったく沸かないのだから。
「言っておくけど、あれば何でも食べるよ。食べ物を残すのも無駄にするのも嫌いだから、基本的には出されたものは全部食べるし、美味しいものはちゃんと美味しいと感じるよ。でもね、自分で用意して一人で食べるって言うなら、別にお菓子でもなんでもいいとも思ってる。お腹が空いた時に食べるんだから、お腹が満たされれば何でもいい」
「栄養とか、考えないんですか」
「意味が分からない」
クオンが、また一つため息をついた。
「早いところ、いい人見つけて結婚した方がいいですよ」
「それこそ意味が分からない」
「じゃぁ今度オレが食事、差し入れに行きますよ。ちゃんと栄養を考えたメニューを」
クオンは料理が得意らしい。最初にそれを知った時、この見た目で料理好きとは。と、そのギャップに酷く驚いた。そう言えば、ファン向けに更新されているブログでも、時々料理の写真が載っていたから、建前ではなく、本当に料理が好きなのだろう。
「わざわざ持ってきてもらうのは申し訳ないよ」
「なら、食べに来てくださいね」
やられた。と思った時には、クオンはこちらを見て笑っていた。
「約束、しましたからね。ちゃんと食べに来て下さいよ」
どうしてこうも、クオンもニーナも、ぼくの世話を焼きたがるのか。
ぼくはフレンチトーストを一切れ、口に放った。
クオンのことだから、きっと時間ができたらすぐにでもぼくを呼ぶだろう。
「…そのうちね」
ぼくは答えながらまた一口、フレンチトーストを口に放り込んだ。
※※※※※※
「脚本を担当しました、神凪ルカです。よろしくお願い致します」
ぼくがそう名乗ると、一部のキャスト陣がざわめいた。おそらくはぼくの肩書と、外見のギャップに戸惑っているのだろうとは想像がついた。
クオンが初対面の時に勘違いしたように、初めてぼくと会う人は、ぼくの年齢と職業に驚く。童顔に見られる事には慣れていたけれど、この年で若く見られても得した事など一度もない。いっそクオンのように役者であったなら、それを活かすことも出来たかも知れないとは思うけれど。
次々と自己紹介が続き、すべてのキャストとスタッフの挨拶が終わると、そのまま『読み合わせ』が始まった。
それぞれテーブル席に座ったまま、キャストたちが自分のセリフを読み合わせていく。
初めて合わせるはずなのに。
人によっては初めて台本を渡されたはずなのに。
前にも思ったことだったけれど、本当に役者というのはすごいと思う。クオンも、普段とは違った役者の顔で、真剣な表情でセリフを読み上げている。
ぼくの、書いた、脚本を。
それはなんとも不思議な景色だった。
小説や脚本に描く世界を、ぼくは「もう一つの現実」と呼んでいた。
ぼくの中にあるもう一つの現実。
それを言葉にすることを覚えたのは一体いつの事だったか。
小さい頃、話すことは少し苦手だった。
けれど、自分の中からとめどなくあふれ出る現実をどうしたらいいか分からなくて、けれど人に話すことも出来なくて、覚えたての文字で少しずつノートに書き綴っていくことを覚えた。
誰かに見せるつもりがあった訳でも、誰かに楽しんでもらうために書いたつもりでもなかったそれらの言葉は、それでも気づいた時には、ノート何冊分にも増えていた。
誰にも見せるつもりなんてなかったそれを、ある日ニーナがぼくの隣で読んでいた。何が気に入ったのか読んだそれを、ニーナは面白いと言って続きを楽しみにするようになっていた。ぼくはそれを止めなかった。誰かに読んで欲しいと思った事もない代わりに、別に読まれたくないとも思わなかった。ニーナが読みたいと思うなら、それはそれでいいと思った。
学校でも大人しく友達も少なかったぼくは、他の誰にもノートの存在を話さなかった。両親や祖母でさえ、ぼくが何を書いているのか、その内容は知らなかった。もしかしたらそう思っていたのはぼくだけで、実際にはこっそり読まれていたのかも知れないけれど、それを直接ぼくが知ることはなかった。だからそのノートを読むのは、従妹のニーナただ一人だった。
中学を卒業し、地元の高校へ進学し、その間にもぼくのノートは増え続け、大学に進んだ頃にはノートは本棚の一角を占める程の量になっていた。
パソコンを使うようになってからは、ある程度まとまった所で打ち出し、ファイルにして本棚に並べた。データは一つ書き終わる度に消していた。打ち出した紙だけが残れば、ぼくにはそれで良かった。
別の大学に進学したニーナは、それでも時々ぼくの家に遊びに来ては、本棚に増えていくノートを嬉しそうに眺めた。時間のあるときはぼくの部屋で読み、あまり時間のないときには持ち帰って読んでいた。
ある日、ニーナがその中の一冊を手に、ぼくに頭を下げてきた。何があったのかと聞けば、そのノートを大学の教授に読まれてしまったのだと言って謝った。
普段はぼくのノートを家に持ち帰っても外に持ち歩くことなどしなかったニーナが、その時だけはカバンに入れたのを忘れて大学に行き、何故かそれが自分の所属する研究室の教授の目にとまり、中身を読まれてしまったのだという。
申し訳なさそうに謝るニーナに、別に構わないよとぼくは言った。誰かに見せるために書いたものではなかったし、今後も誰かに見せるつもりなどなかったけれど、だからと言って別に、誰か知らない人に読まれても、どうという事もなかった。返してくれさえすれば、それでよかった。
ただ、人の持ち物の中身を勝手に見る教授のいる研究室は、果たしてニーナにとって安全な場所なのかと、それだけが少し心配だった。
けれど。
結果的にその教授にノートを読まれた事で、ぼくは今の職業につくことになった。
人との交流が少し苦手で、ニーナに言わせると『生きることに積極的ではない』このぼくが、大学を卒業した後ちゃんとした仕事につけるのか、ニーナが心配していた事は知っていた。
企業に就職して働くという、いわゆるサラリーマン姿のぼくが、ニーナには想像できなかったらしい。
今思えば、それはひどく正しい推測だったと思う。ぼく自身、どこかの企業に就職できるなんて思ってもいなかったし、就職しようとさえ思ってもいなかった。もちろん面接など一つも受けていなかった。
大学を卒業したらどうするつもりだったのか。今思い返しても、ぼんやりとしか想像していなかったような気がする。大学の教授たちの誰かに、助手にでもしてもらおうと思っていたのかも知れない。あるいは、どこかでアルバイトでもしようと思っていたのかも知れない。とにかく、ニーナが予想していた通りに、将来設計など何も立てていなかったことだけは確かだった。
でも。その時はまさかニーナがワザと教授の目に留まるところにノートを置いていたなんて、少しも想像さえしていなかった。後からそう聞かされて驚いたのだけれど、それさえももしかしたらニーナなりの気遣いで、本当は、わざわざ教授に読んで欲しいと頼んだのかも知れない。と、そう気づいたのは、教授のアドバイスどおりにそれらを小説として書き直し、それが人に評価され、小さいけれど賞を取った時だった。
「……さん。神凪さん」
耳元でささやくように名を呼ばれ、ぼくはふと目を瞬かせた。
目の前で、『読み合わせ』は続いている。
違う事を考えていた事に少し後ろめたさを覚えながら横を見れば、制作スタッフの一人である田辺くんが後ろにしゃがみ込み、顔を寄せて横から話し掛けてきていた。
「もしかして、調子、悪いですか?」
「え?」
「顔色、あまり良くないですけど…」
そうですか。と言いながら、自分の顔に手を当ててみる。少し熱いような気もしたが、暖房の効いたこの室内で、そう言えば上着も脱いでいなかった事を思い出す。
「もし体調が良くないなら、別の部屋で休みますか。隣の部屋なら、長椅子とか、ソファもありますから、少し横にもなれますよ」
「そんなに悪そうに見えますか」
「……見えますね」
一呼吸置いてから遠慮がちに頷かれて、ぼくは小さく息を吐いた。それなら、他の人にも心配や迷惑をかける前に席を立った方がいいかも知れない。
役者と違って脚本家として参加しているぼくは、顔合わせが終わった今、基本的にはここにいてももはや傍観者に近い。それなら、と。別室へ行くことにして立ち上がる。
ぐらり、と。
世界が揺れた気がした。
それでもどうにか身体を支え、力の抜けかけた足に力を入れた。
意識が揺れたのはほんの一瞬で、すぐに自分を取り戻す。
身体を支えるためにテーブルに手を付き、そのはずみで少し音を立ててしまったけれど、『読み合わせ』に集中しているキャストたちには、気づかれなかっただろうと思った。
けれど、視界の隅でこちらに顔を向けるクオンを感じて、ぼくはもう一度軽く息を吐いた。ああ、これは怒らせてしまうパターンだと自覚する。昨日の行動のあれこれが、今日のぼくの体調不良を招いたのだと、反論の余地なく怒られてしまうだろうと想像がつく。
「すみません。タクシー、手配して貰えませんか」
小声でそう囁くと、すぐに意図を汲んでくれた田辺くんは、頷いて手を貸してくれた。
「…お手数をおかけします」
大人げないと自分でも思いながらも、クオンに怒られる前に帰ってしまおうと、ぼくは荷物を持って部屋を出た。
案の定、タクシーに乗って暫く経ったところで、ポケットの携帯が震えた。
運転手に電話に出ることを伝えてから通話ボタンを押すと、こちらが声を発する前に声がした。
『やっぱ風邪、引いたんだろ』
名乗りもせずにそう言ったクオンは、あからさまに不機嫌な声をしていた。
「…風邪かどうかは分からない」
『そう言うのを屁理屈って言うんだよ』
休憩時間になったのだろう、クオンの声の向こうに、キャストやスタッフたちの声が聞こえる。
「何も言わずに帰って悪かったけれど、今日はこのまま帰るよ。もう今、タクシーに乗っているんだ」
『さっき田辺さんから聞いたよ。てか、あれ程風邪引くなって言ったのに…』
「だから風邪かどうかは…」
『帰ったらちゃんと部屋を暖かくして寝て下さい。…ニーナさんには連絡しといたから』
人の話を途中で遮るのはよくないよ、と言いかけて、言葉を失う。
「え、なに?」
『ニーナさんにも、さっき連絡しておいたから。研究室がしばらく休みなんだって。だから、ルカさんが帰る頃に合わせて、ニーナさんもそっちに行くって言ってたよ』
クオンとニーナは、いつからそんなに仲良くなったんだろう。なんて、今考えても仕方がない事を思いながら、ぼくはクオンには聞こえないようにため息をついた。
「どうしてこう、キミたちはぼくの世話を焼きたがるのかな。一応、ぼくはもういい大人なんだけれどね」
『中身と外身が合ってないんだから、しょうがないだろ。とにかく、ちゃんとニーナさんに世話焼かれて、しっかり薬飲んで寝て下さい。あと、ご飯もちゃんと食べる事』
「キミはぼくの奥さんかい?」
『それはニーナさんに譲ります』
それこそ、ニーナにそんな事を言ったら怒られる。ぼくは眉を寄せて黙った。
言葉にしなくてもそれが気配で伝わったのか、クオンが電話越しに珍しくクスリと笑った。
『とにかく、ゆっくり休んで下さい。…また、連絡しますから』
電話を切り、携帯をポケットにしまうと、ぼくは一度深呼吸をした。
ぼくの家の合鍵を持っているニーナなら、ぼくより早く家に行ってエアコンを付け、クスリの用意くらいして待っていそうな気がする。
元々、両親から合鍵を受け取っていたニーナは、よく家に遊びに来ては母親と一緒に料理を作ったりしていた。
両親にしてみれば娘のような感覚だったのかも知れないが、両親が亡くなった今、その合鍵はぼくらの関係を奇妙なものにしている。兄妹ではない。恋人でもない。けれど、従妹にしては少し距離が近い気もする。
「まったく……」
車やバイクを持たないニーナは、ぼくの家に来るときは電車を使う。距離にして二駅とは言いながらも、ニーナの自宅から最寄り駅まで十分は歩き、二駅電車に乗り、そしてまたぼくの家まで歩いて来る。片道一時間はかからないとしても、決して頻繁に行き来する距離ではないはずなのに、それでもニーナはよく訪ねてくる。
ニーナが来たいときに来る分には何とも思わないけれど、こんな風に、ぼくの為に、と改めて行動されると、本当にどうしていいのか分からなくなる。
ふと、視線を感じて顔を上げると、バックミラー越しにタクシーの運転手さんと目が合った。
「愛されてますね」
「……そう、なんでしょうか、ね」
何かと、大事にされていることは、分かっていた。
ぼくの事を『生活破綻者』と揶揄いながらも傍にいて、気を使ってくれている優しいニーナ。そしてまたクオンも、仕事仲間と言うには近くて、けれど友人というには少し遠慮がちにぼくを大切にしてくれていることは感じていた。
元々が、過保護に近い扱いだった二人が、さらに輪をかけて気を遣うようになったのは、去年のあの日からだと分かっていた。
立て続けに両親を失った、あの夏の日。
あの夏以降、過保護とも言える程の気遣いを、二人からされている自覚は確かにあった。
「そんなに大事にされる資格、ぼくにはこれっぽっちもないんだけれどね」
「何か、おっしゃいましたか?」
「……いえ、そこの通りを右でお願いします」
住み慣れた街の景色に目をやり、ぼくはまた小さく、ため息をついた。
※※※※※※
「月を食べてて風邪引いたって、それホント?」
ニーナの遠慮のないその言い回しに、ぼくは額に手を当てて首を振った。
「クオンに何て言われたのか知らないけれど、これはただの寝不足で…」
「公園にいた時にもそんな事を言ってたらしいけど、それって次の作品の構想?」
ニーナも、クオンも、どうしてこう言う時に人の言葉を最後まで聞こうとしないのか、血のつながりはないはずなのに、二人がまるで姉弟のように思えてくる。
「違うよ。いや、まぁ、そうかな…」
「何それどっちよ」
タクシーで家に帰ると、予想通りニーナはすでに家に着いていて、エアコンで部屋が暖められているのはもちろんの事、クスリや飲み物まで、風邪の患者に必要なものが一揃い用意されてそこにあった。
昼もろくに食べてないだろうと予測されて、軽い食事の支度と、重症の時のためにとお粥まで用意されていた時には、感謝を通り越して少し怖く思ってしまった。どこまで予測されてしまっているのだろう。
「何度も言うけど、ぼくは一応、いい大人でね…」
「それは三食しっかり食べて寝てる、健康な人が言うセリフ」
一刀両断。というのがふさわしい程の切れ味で言われ、ぼくは何も言い返せずに黙りこんだ。思えば、今までニーナに口で勝てたことなど一度もない。
「心配かけたみたいで…ごめんね」
「よろしい。さ、病人はとりあえず着替えてきてね」
にっこり笑って促され、ぼくは部屋着に着替えてから台所へ向かうと、そこもエアコンで暖められていて、本当に、重度の病人になった気持ちになる。
「そんなに大したことはないんだよ?」
「いいからいいから。久しぶりにニーナさんのご飯、堪能してちょうだい」
台所のテーブルで、用意された食事をするぼくを前に、ニーナは自分用に用意した温かい何かを飲みながら、再び先の質問をしてきた。
「しかも夜の公園だけで飽き足らず、久遠寺くんのマンションのベランダでもずっと月を見てたって聞いたけど、それじゃぁ風邪の一つも引くわよね」
もはや、風邪じゃないと反論する気も起きてこない。
「キミにもクオンにも、昨日は心配をかけてしまったね。申し訳ないと思ってる」
「何だかイヤに素直ね」
こう立て続けに心配をかけてしまっては、さすがに申し訳ないとはぼくでも思う。ほんの少しだけ、心配過剰な気もするけれど。
「久遠寺くんも、今日は親睦会だか懇親会だかがあるって言ってたけど、明日は一日オフなんですって。だから夜中になるかもしれないけど、こっちに寄るって言ってたから」
「え、なんで」
「心配だからに決まってるでしょ」
自分の責任だと、思わせてしまったのだろうか。
「だから何度も言うけど、これはただの寝不足で…」
「寝不足だろうが何だろうが、体調を崩したのは確かでしょ?」
ほんの少し眩暈を起こしただけだ、と。言おうとして言葉に詰まった。その眩暈を前兆として、倒れた過去が、確かにぼくにはあったから。
「…分かったよ」
大人しく言う事を聞くのが一番かも知れないと思い直す。あまりニーナやクオンの生活に影響したくはなかったのだけれど、自分の行動が招いた結果だと思えば、仕方がない。
「食べて、クスリ飲んだら少し横になって休んでね」
休んでる間に夕食を作っておくから。と言われて、思わず食事の手を止めた。
「もしかして、夜までいるつもり?」
すると、それこそ驚いたような顔で見つめ返された。
「何言ってるの。今日は泊るつもりよ。だから久遠寺くんが夜来るのにも、OKって返事したんだから」
もう何度目か分からないため息をついて、ぼくは黙って食事を再開した。
きちんとした食事をし、暖かい部屋でベッドに横になれば確かに少し眠れた。元々が睡眠不足であったところに風邪薬が眠りを誘発し、短い時間ではあったけれど、深い眠りを得られたような気がした。
夢も見ずに眠れたのは、どれくらいぶりだろうかと考える。
自分なりに良く寝たと、少し感動しながら半身を起こしてベッドの上で本を読み始めたら、様子を見に来たニーナに怒られた。
仕方なく本を閉じ、またベッドに横たわってはみるものの、そこまで身体が睡眠を求めている訳ではないから正直少し退屈になる。
この部屋に、テレビはない。
作業用のデスクの上にあるのは、書き物をするためのパソコンと資料用の本が数冊。基本的には音のするものは何もない。
静けさ中に聞こえる耳鳴りのような高音の響きも、今日に限っては何故か不快に思えて仕方がない。
理由を作って起きる分にはニーナも文句を言わないだろうと、ぼくは喉が渇いたのだと言い訳しながらベッドから起き上がった。
唯一、口にするものの中で、珈琲だけは好んで飲むことが多かった。
といっても、ほとんどが買い置きの缶コーヒーばかりで、自分で湯を沸かして飲む事は、本当に気が向いた時だけだった。
一階へ降りると、台所で何かを飲んでいるニーナの姿を見つけた。そしてその向かい側に、背の高い男の後ろ姿を見つけた。
夜中になる。と聞いた気がしたけれど、どうしてこんな時間に。と、不思議に思って壁に掛かった時計を見て、思わずぼくは動きを止めた。
「……え?」
まだ、陽が落ちたばかりなのだと思っていた。
窓の外は暗く周りも静かだったから、夜になったのは分かっていたけれど、先ほどニーナに止められて本を閉じた時はまだ、夕方だった、はず。なのに。
呆然と時計を見上げるぼくに気付いたニーナが、こちらを見て笑った。
「よく、眠れたみたいね」
そう、なのだろうか。目を閉じたのは一瞬だった気がしたのだけれど、それは思いのほか長い時間だったのかもしれない。
「一度、部屋には行ったんだけど、珍しく気持ちよさそうに寝てたから」
起こさなかった理由を言っているのだとは分かったけれど、それよりも、自分でもよく分からない衝撃を受けていて、うまく言葉が出てこない。
「もしかして、寝ぼけてる?」
顔を覗き込まれ、次いでクオンにも不思議そうな顔で見つめられ、ぼくはゆっくりと首を振った。
「いや、大丈夫」
「ハルカもスープ、飲むでしょ?」
ミネストローネよ。そう言って立ち上がったニーナに、それなら皿ではなくカップで欲しいと伝えて、ぼくはクオンの隣に座った。
「…そう言えばルカさん。本名はハルカさん、でしたっけ」
今さらな事を呟くクオンは、言葉遣いは丁寧だったけれど、声は不機嫌そのもので、ニーナがいるから抑えているのだと嫌でも分かる。
「怒って…る、よね?」
伺うように聞けば、あからさまにため息を返された。
「怒ってる…と、言いたいところだけど、半分はオレの責任でもあるから」
「いや、これは全然クオンのせいじゃないからね」
「だったら。…もう少し、自分の身体を大事にして下さい」
大事に、していないつもりは、なかった。けれど確かに、執着が少ない事も自覚していた。食べることにも、自分の身体を大事にすることにも、どうしても気をつかうことが出来ない。これは小さい頃からの事だったし、正直、どうにかしようと思って出来る事とも思えなかった。
何も答えずにいる事をどう思ったのか、クオンが、じっとこちらを見つめてきた。何か聞きたいことがある時の、これはクオンのクセの一つだ。
「何か、聞きたいこと、あるの?」
「…それ、は」
言いよどむクオンの後を継いで、ニーナがコンロの方を向いたまま言葉を続けた。
「まだ、引きずってるのかって、聞きたいのよ」
「ニーナさんっ」
「いいのよ。ハルカにはストレートに聞かないと分からないから」
「…引きずる、って、何を?」
けれど、ぼくには二人が何について言っているのか分からなかった。
湯気の立つミネストローネ入りのカップに、木のスプーンを差して手渡され、ぼくはニーナを見つめ返した。
「何のこと、言ってるの」
「ほらね」
カップから立ち上る白い湯気ごしにクオンを見ると、気まずそうに視線を逸らされた。
ああ、そうか。と理解する。
あの、夏の日。
両親が立て続けに逝ったあの夏の日から、ぼくがまだ立ちなおっていないと思っているのだと気付いた。
あの日からずっとぼくを過保護なまでに気遣い、見守ってくれていたのは、そういうことだったのかとようやく気付く。
「そうじゃ、ないんだ」
おそらく、二人が思うような事は何もない。『引きずる』程の何かが、ぼくの中に残っている訳じゃないのだから。
「引きずってる訳じゃ、ないんだ」
ちゃんと、話しておいた方がいいのかも知れない。そう思ってぼくは二人を見つめた。
「ぼくはね、多分、二人が思ってるような人間じゃないんだよ」
誰にも話したことがない事だったけれど、二人には、話しておこうと思った。
※※※※※※
「両親のことはね、もう大丈夫なんだ。ぼくがどうこう出来るようなものじゃなかったし、今さら色々考えたって仕方のない事なんだから」
去年の夏。まず父が亡くなった。
ある日、右腕を真っ赤に腫らした父が、虫に刺されたのかなぁ、なんて笑いながら病院へ行き、血液検査の結果そのまま入院させられた。感染症なのだと言われた。
一週間程度で退院できると誰もが思っていたのに、ひと月後には亡くなった。高齢ではあったけれどそれなりに健康だった父は「心不全」と診断された。あっという間の出来事だった。
数日後には今度は母が入院した。原因不明の下血と呼吸困難。父の四十九日を迎える前に、母も父の後を追うようにして亡くなった。
「医療関係者も、葬儀社の人も、こんなことは珍しいって言ってたし、色んな人がぼくを慰めてくれたけど、ぼくはね、哀しいとか、もっと他にも何かできたんじゃないかとか、そんな事はもう考えてはいないんだよ」
約一か月の間に、別々の病気で突然両親を失う。事故でもなく、災害でもなく、それぞれ別の理由で、一か月前には元気だった夫婦が立て続けにその命を失う。
確かに珍しい事ではあったけれど、他に聞いたことがない訳でもなかった。
「しばらくはね、すごく悲しかったし、色んな事が思い出されて辛い時期もあったけど、それはもう大丈夫なんだ。二人が心配するようなことは、何もないんだ」
ぼくが話すうちに、ニーナもその頃の事を思い出したのか涙を浮かべて俯いた。
あの悪夢のような一か月は、ニーナにもかなり色々迷惑を掛けたし心配もかけた。それこそ、もしかしたらぼくよりも色々と気を使わせ、悲しませてしまっていたかも知れない。
「ぼくはね、そういう意味では二人の死を、引きずったりはしてはいないんだよ」
「でも…」
「…それに、ぼくは二人が今、痛みもなく、楽しく過ごしてるって、知ってるから」
そう。知っている。
信じている、ではなく、知っている。
「それって……」
ニーナが、言葉を濁して口ごもった。
言いたいことは、分かっていた。だから笑って頷いた。
「父の姿をね、二度、見かけたんだよ」
一度目は、父の葬儀の直後だった。
葬儀を終え、それぞれに帰っていく親戚たちを見送っている時、少し離れた場所で同じように親戚を見送る見慣れた後ろ姿を見つけた。最初は誰か似た人が立っているんだと思った。でも、あの特徴的な頭髪と背格好、愛用のスーツ姿に、間違いなく父だと分かった。
「二度目は母が亡くなる直前の、母の、その病室で」
意識を失い、酸素マスクをした状態の母のその足元に、揺らめく姿を見かけた。
「今になって思い返すとその姿はぼんやりしていたし、ぼくもちょっと普通じゃない状態が続いていたから、だからホントに見たのかって改めて聞かれると、どうかなーって思う部分は確かにちょっとあるんだけれどね」
それでも、父は、自分の葬儀に来た親戚を見送った。
自分を追うように息を引き取る母を、迎えに来た。
ぼくにはそう見えた。それだけで。
ぼくにはそれだけで、充分だった。
「魂は生まれ変わっていくものだから、亡くなった父の魂はすぐにどこかへ行ってしまったんだと思ってた。二度と会えないと思ってた。だけど、会えた。例えそれが幻だったとしても、ぼくの思い込みが見せた夢だったとしても、それでもぼくは、救われたんだ」
それ以降、父の姿を見ることはなかったし、母の姿は一度も見ることはなかったけれど、それでも二度、父の姿が見れた事は、ぼくに救いを与えてくれた。
「…ルカさんって、霊感があったんだ」
意外そうにつぶやくクオンに、感想はそこなのか、とぼくは少し笑った。
「そんなものは無いよ。見たのは二回だけで、しかも父親の姿だしね」
「…そっか。おじさん、おばさんの事、迎えに来てたんだ」
「ぼくの話、信じる?」
そう聞くと、ニーナは涙を浮かべたままぼくを睨みつけた。
「当たり前でしょ。ハルカがそんな嘘、つくわけないんだから」
どこまでも、ニーナはぼくに優しい。ぼくを信じて、ぼくを大事にしてくれる。
「だからね、何度も言うけど、ぼくはそういう意味ではもう二人の死を引きずったりはしていないんだよ」
「でも…」
「うん、言いたいことは分かってる」
ぼくは静かにニーナを見つめ、そしてクオンを見つめた。
「ぼくから、生きる意欲、みたいなものが感じられないって、そう、言いたいんでしょ?」
昔から、食べる事や寝る事、社会で生活する事などに積極的ではないと言われてきた。そんなぼくが、両親を失ってからはさらに、生活すること自体に意欲を失って見えたのだろうとは想像がついた。
「…言葉にするとちょっと凄い単語だけど。つまり『死にたがってるようには見えないけど、でも、生きたがっているようにも見えない』って。そういう感じ、なんでしょ」
でも、その理由は、確かに両親が亡くなったことがきっかけではあるけれど、悲しみや後悔などという感情から来るものでは、なかった。
「ちがうんだ。これはね、元々ぼくの中にある別の理由から来るものなんだよ」
ぼくは、理解してもらえないかも知れないな、と思いながらも、それでも話し始めた。
「ニーナ、ぼくの書いたあのノートのこと、覚えてる?」
突然の話に、ニーナが一瞬眉を寄せた。
「ぼくがずっと書き続けてきた、あの、ノートのことだよ」
「もちろん、覚えてるに決まってるでしょ」
「最近は小説に書き直す方が忙しくて、あんまり増えてないけどね」
小さい頃から書き続け、今では何十冊にもなった、ぼくの記録。
「小説の元になったっていう、例のノートの事ですか」
ぼくは静かに頷いた。
誰かに見せるために書いたものでもなく、誰かに見せるつもりもなかった、ぼくの中のもう一つの現実。
「あのノートに書かれた話は実は創作じゃないんだ、って。そう言ったら、どうする?」
二人は、一瞬何を言われたのか分からないような表情で、互いに顔を見合わせた。
今まで誰にも言わなかったけれど。これからも誰にも言うつもりなんてなかったけれど、でも、初めて、話してみようと思った。
夢を見たのだと笑うだろうか。
それとも、妄想に取りつかれていると心配されてしまうだろうか。あるいは。
狂気に落ちたと悲しむだろうか。
家族を失った今のぼくにとって、誰よりもそばにいるこの二人がどう感じ、何と答えるのか、興味もあったけれど同時に少し、怖かった。
「あれが全部ぼくの中の記憶、神崎遙として生まれる前の記憶だって言ったら、二人はそれを、信じるかい」
神崎遙として生まれる前の記憶。
その、物語。
二人が、息を飲んだのが分かった。
※※※※※※
「…それは、次の作品の、構想…?」
しばらくの沈黙の後、ニーナが青ざめた顔で聞いてきた。
「そう思う?」
ぼくは、冷めてしまったスープを、スプーンでくるくるとかき混ぜながら笑った。
ニーナは、ゆっくりと首を横に振った。
そのまま黙ってしまったニーナと、じっとテーブルの上を見つめたまま動かないクオンを見つめ、ぼくは、やっぱり言わない方がよかったかな、と少しだけ後悔しながら、スプーンで抄ったスープを口に入れた。
ニーナの作る料理は少し薄味で、いつも優しい味がする。
野菜の甘みと、ほんの少し酸味の効いたこのミネストローネも、野菜をたっぷり使って時間をかけて手作りしてくれたことを知っている。
そのスープをゆっくりと味わいながら、ぼくは二人を静かに見つめ続けた。
飲み終わる頃になってやっと、クオンがその顔を上げてぼくを見た。
「それってつまり、前世の記憶…ってことですよね」
「うん。…まぁ、前世って言い方はあんまり好きじゃないんだけど、そういう事になるのかな」
「ルカさんの、前世…」
「信じる?」
「……ルカさんが、そう、言うのなら」
茶化すでもなく、否定するでもなく、真剣な顔でそう言い切ったクオンを、ぼくは何とも言えない思いで見つめた。
ニーナを見れば、青ざめた顔色ながらも、それでも小さく頷いている。
ありのままに。
受け止められるとは、正直、思ってはいなかった。
笑い飛ばされたり、否定されたりするんじゃないかと思っていた。
「…そんなこと、ある訳ないって、言わないの」
「一瞬、そう思ったけど…」
ニーナがふと視線を逸らせてから、また首を横に振った。
「思い出したのよ。…小さい頃にハルカが言ってた事」
少し引きつったような顔で、それでも笑おうとするかのようなニーナのその表情は、どこか泣きそうに思えた。
「『このノートは、ぼくの中にあるもう一つの現実』って、ハルカはずっと繰り返しそう言ってた。私はそれを、ハルカの中で作り上げた物語だからそういう表現をしてるんだろうなって、勝手にそう思ってた…」
初めてぼくのノートを読んだ時のニーナはまだ幼くて、そう思うのはむしろ当然の事だった。
誰も、あのノートを。
あのノートから生まれた小説を。
本当にあった誰かの記憶だなんて、想像する者さえ、いるはずがなかった。気付くはずがないと思っていた。
なのに。
「教授は、気付いてたみたいだね」
「え?」
ニーナに勧められ、教授には何度か会った。そして、何冊目かのノートを見せた時に、こう言われた。
『専門書にも載っていないような古い…それこそ何世紀も前の生活風習や習慣を、キミが知っているのはどうしてだろう? しかもこれは、キミが小学生の時に書いたノートなんだよね?』
ぼくが何も言わずに黙っていると、教授はそれ以降、一度もその事には触れなかった。それでも教授は何となく察していたような気がする。今思えば、それらの事をすんなり受け入れていた教授は、何を思ってぼくのノートを読んでいたのだろう。
「それに、あのノートを小説に書き直す時には、主人公を変えて、視点を代えた方がいいってアドバイスをしてくれたのも教授なんだよ」
物語として書くのなら、主人公はもう少し読む人が共感できるような人物を選んだ方がいい。そして物語の一部を抜き出し、クローズアップして書いた方がいい。そうアドバイスしてくれた。
「それじゃぁ、小説の主人公が、イコール、ルカさんって事じゃ、ないんですか」
「違うよ」
ニーナは、ノート自体を読んでいるから、その事にはもう気づいているのだろう。
だからこそ、その事実に青ざめ、何も言えずにいるのかも知れない。
「ぼくの書いた小説、クオンはどのくらい読んだことがあるのかな」
「多分、全部読んでると思います」
それを聞いて何だかぼくはちょっと、くすぐったい気持ちにさせられた。
「ありがとね。じゃぁ、ぼくの書く小説には必ず、十歳以下の子供が一人は登場してるってこと、気づいてたかな」
十歳になる前の、小さな子供。
ある時は少女で、ある時は少年で。
言葉を覚えたばかりの小さな子供もいたし、背ばかり伸びた細くて病弱な子供もいた。
「まさか、それが……」
「そう。その小さな子供が、ぼくだよ」
大人たちに囲まれ、けれどぼく自身はまだ小さな子供で。そして子供のぼくは、いつでも全てを客観的に見ていた。
「…本当はここまで言うつもりはなかったんだけど、でも、ニーナはもう、気付いちゃったよね」
何度も何度も、生まれては死ぬことを繰り返してきたことを覚えているぼくは、その全ての中で、共通した終わりを見つめてきた。
「ぼくに生きる気力が感じられない理由はね、多分、その辺にあると思うんだ」
小説にする時は、詳しく書いたりはしなかった。
ノートにも、命を落とす理由の多くは書いてはいない。
だけど全て共通した終わりを見てきた。
「ぼくはね、覚えている限り全部の記憶の中で……、いつも、十歳になる前に命を落としてきたんだ」
ぼくはずっと。
大人になれない子供だった。
※※※※※※
「…大人になった事は、一度もなかったんだ」
十歳を超えて生きた記憶がぼくの中にはなかったから、神崎遙として成長し、物心ついた時には、自分は十歳までしか生きられないんだと、勝手にそう思っていた。
「だからぼくはいつも、未来の約束が出来なかった。『大人になったら何になりたい?』とか、その手の話にも、うまく答える事が出来なかった」
なのに、ぼくは十歳の誕生日を迎えた。平然と、普通に、ごく当たり前の一日として。
「びっくりしたよ。何が起きたのか分からなかった。だから両親に聞いたんだ。『ぼくはどうして生きてるの?』って」
「…両親に、聞いた?」
「うん、聞いたんだよ。想像がつくだろうけれど、そりゃぁもう両親も祖母もびっくりしてね。でも、ちゃんと答えてくれたんだ」
お赤飯と、ケーキと、プレゼントに囲まれながら、ぼくはその言葉を静かに聞いていた。
「『生きていて欲しいって、みんながそう願っているからよ』って…」
何度も生まれては死ぬことを繰り返してきた過去の中でも、そんな風に言われた事なんて一度もなかった。そんな記憶、今まで一つもなかった。
何十回も生まれて、何十回も死んで。その間もずっと一人で、ずっとずっと孤独で。
「初めてだった。それは、本当に初めての感覚だったんだ」
何度も、生まれては死ぬことを繰り返してきたぼくだったけれど、こんな風に生きることを望まれたのは初めてだった。
それと同時に怖くなった。初めて『大人になる』という可能性を目の前に突きつけられて、どうしたらいいのか分からなかった。
「今までは十歳になる前にリセットされる人生だった。ずっとそれが当たり前で、それがぼくにとっての『普通』だった。なのに急にその先も続くと言われて、ぼくはどうしていいか分からなくなった。だから。…だからまずは出来るだけ簡単に、出来るだけシンプルに生きてみようって、そう思った」
そして、何か理由があるはずだって考えた。十歳を超える理由、大人になる理由。生き続けることを許されたその目的。その役目。
「そんなの…別に、生きるのに理由なんて」
「うん、普通はそうだよね。でも、ぼくはそうは思えなかった」
だから、ぼくは探したんだ。
大人になる理由を。生き続ける理由を。
それを見つけなければ、生きられない気がした。理由がなければ、不安で怖くて仕方がなかった。
ずっとずっと考えて、そして見つけた答えはとてもシンプルで、けれどとても大切なことに思えた。
ぼくが生きることを望んでくれた両親。祖母。そして、その人たちに囲まれて生きる自分。
「ぼくはね、祖母や両親のために生きようって、決めたんだ」
繰り返してきたたくさんの過去の人生は、あまり幸せと言えるものではなかった。誰かを守ったり支えるなんて、一度もしたことがなかった。だから、十歳を超えて大人に成長していくこの人生で、それをしてみようと思った。
「ぼくを必要としてくれる人のために生きる。それが、ぼくの生きる理由になった」
けれど、ぼくには『普通に生きる』という事自体が、よく分かっていなかった。
子供時代を繰り返してきた記憶が多すぎるせいなのか、大人になるという初めてのことに対して、期待と不安が大きすぎて、どうするのが普通なのか、傍から見たらきっと不自然な振舞いばかりしていたような気がする。
それでもぼくが一生懸命何かをすれば、両親はとても喜び、祖母も優しく微笑んでくれた。
ぼくはその笑顔を見るために、その笑顔を守るためだけに生きてきた。それが正しいと思ってた。
だから。
「祖母を失い、両親を失った今、ぼくは生きる意味を見失ってしまったんだ」
ぼくが生きることを望み、笑ってくれた人を失って、ぼくはどうしたらいいのか分からなくなった。
「『死にたい』って思ったことは一度もないよ。でもね。『死にたくない』って思ったことも、一度もないんだ」
大人になった時間は、ギフトのようなものだと思っていた。生きることを望んでくれた人がいたから生きることを許されていた贈り物のような時間。
だけど今、ぼくが大人になることを望んでくれた人たちがいなくなったこの世界で、どう生きたらいいのか分からない。
「私たちがいるじゃない」
それまで黙っていたニーナが、少し震える声でささやいた。
「私たちだって、ハルカに生きてて欲しいって思ってるし、一緒に生きて行きたいって思ってる。それじゃダメなの。それだけじゃ足りないの?」
「ありがとう。分かってるよ。それはよく分かってるんだ」
ニーナが、ぼくを大切だと思ってくれていることも、クオンが、ぼくに友情を感じてくれていることも、ぼくにはよく分かっている。
だけど、ぼくの深部に根付いているものは、そういう事じゃなかった。
「勘違いしないで欲しいんだけど、ぼくは積極的に生きられないだけで、別に死にたいって思ってる訳じゃないんだよ。ただ、うまく生きられないだけなんだ」
普通の人は忘れている余計な記憶がたくさんあるせいなのか、何が常識で、何が普通なのかの区別が、ぼくには少し難しかった。
それに、目の前に広がっている景色が神崎遙としての現実なのか、それとも過去の記憶を見返しているだけなのか、その感覚の境が曖昧に感じられる事が時々あった。
自分の中の感覚が信じられなくて、今を生きている感覚が少しだけ曖昧で、だからそんな自分の感覚は普通じゃないんだろうな、という事だけは自覚していた。
「二人はぼくを心配してくれるけど、これがぼくの『普通』なんだ。両親の死を引きずっている訳でもないし、誰のせいでもない。ただ少しだけ普通の人とは感覚が違うって事、それだけの事なんだよ」
だから何も心配するようなことはないんだと、そう伝えたかったのだけれど、やはりうまく伝わらなかったかも知れない。
それでも、話して良かったと思えた。誰にも話すつもりはなかったのに、それでも、話してしまえばどこか気持ちが楽になったような気がしていた。
「変な話しちゃったね。可笑しいって思われるかも知れないけど、これがぼく、なんだよ」
「お願いが、あります」
クオンが、視線を外したまま小さな声で言った。
「ルカさんのその、ノート。オレにも見せてくれませんか」
二階の部屋の本棚にある、たくさんのノート。ニーナと、教授しか読んだことのないぼくの記録。
それを、クオンは見たいと言う。
「今から、見る?」
「……お願いします」
あらたまって頭を下げるクオンに、ぼくは少しだけ笑った。
※※※※※※
部屋に戻ってノートのある棚を示すと、クオンはゴクリと喉を鳴らした。
「読んで、いいんですか」
「もちろんだよ。ここで読むかい?」
小さく頷きながら、明日はオフだからこのまま泊りでも構わないんですけど。と遠慮がちに言うクオンに苦笑した。
「今さら帰れなんて言わないよ。でも、先に言っておくけど、小学生の頃に書いたノートなんて字は汚いし、箇条書きのストーリーメモみたいなものだからね。半分以上は手書きだし、読みづらさだけは覚悟しておいてよ」
物語と呼ぶのも申し訳ないくらい、メモに近い走り書きから始まっているノートたち。
小説として発表しているものはそれなりに体裁を整え、読みやすくちゃんと書き直している。
「『オブリビアス』の元になったノートもあるんですか」
「……あるよ」
棚の真ん中あたりから、プリントアウトした紙を挟んだファイルを一つ、取り出す。
「あと『ヘリオトロープ』と『夢境の楼閣』も…」
「本当にぼくの小説、よく読んでくれているんだね」
「…ファン、なんです」
「え?」
「ルカさんと会う前から、出てた本は全部、読んでました」
初めて聞かされた事実に、ぼくは少しの間、呆然とクオンを見つめた。
ノートの棚を見つめたまま、クオンは視線を合わせなかったが、その耳がほんの僅か赤くなっているのが分かった。
「ルカさんの小説が舞台化されるって聞いた時、どんな役でもいいから出たいって事務所に無理、言いました。役が決まった時は興奮して夜も眠れなかったし、顔合わせでルカさん本人と話せるなんて、あの時は想像さえしてなかったんですよ」
まさか役者と間違えてあんな態度をとるなんて、今でも後悔して反省してるんです。と、今さらのように謝られて、ぼくはあっけにとられた。
「全然そんな風には見えなかったのに、ホントにクオンは『役者』だね」
「それに、こんなに近所だなんて思ってなくて…」
「そうだね。ご近所さんだし、ぼくも、こんなに世話を焼いてもらう事になるとは思ってもいなかったよ」
そう言って笑うと、やっとクオンはぼくの方を向いて笑った。
「ルカさんの書く小説は幻想小説って言われてるけど、オレはその不思議な世界観が好きなんです。でも本人を目の前にそれはちょっと、というか、かなり恥ずかしかったから、持ってる本は全部、寝室の押し入れに隠したんです」
言われて初めて、クオンの部屋でぼくの本を見たことが一度もなかったことを思い出す。
「知らなかったよ」
「全力で隠しましたから」
だから、原案ともいえるノートが読める事に、今すごく興奮してるんです。と、少し緊張した顔でクオンは言う。
「…ぼくの昔の記憶だよ、とか、前世の話なんだよ、とか、そっちは全然気にならないの?」
「それは、まぁ、気になりますけど…」
それとこれとは別なんで、とボソボソと呟くのがクオンらしくなくて、ぼくは今度こそ声を出して笑った。
「いいよ。好きなだけ読んでって」
その声が聞こえたのか、部屋の外からニーナの声が聞こえた。
「どうせもう眠れないとか何とか言って、ハルカもさっき読みかけてた本の続き、読むんでしょ」
言いながら部屋に入ってきたニーナは、珈琲カップを二つと、なぜか平皿を一つ持っていた。
「もうこんな時間だからお粥にしたよ。台所のエアコンはもう切るから、この部屋でご飯、食べちゃってね」
もう夜中だから食べない。という選択肢は、どうやらニーナの中にはないらしい。
「あれだけ寝た後だから『食べたら寝なさい』とまでは言わないけど、一応病人らしく大人しくしててね。本を読もうが何しようが、とりあえずはもう怒らないから。あと、久遠寺くんは今日はもう泊まるでしょ。布団は隣の部屋にあるから適当に使ってね。それと、夜中にエアコンは切らない事。窓は、空気の入れ替えに少し開けるのはいいけど全開にしたりしない事。あとはそうね…」
まるで母親のようにあれこれと言いながら、ニーナは作業用のデスクに皿を置き、珈琲カップの一つをクオンに渡し、もう一つをぼくに渡してきた。
「じゃ、そういう事で私はもう下の部屋で休むから。久遠寺くん、後はよろしくお願いね」
「…あ、はい」
「夜ふかしも良いけど、少しはちゃんと休んでね」
ぼくに向かって言ったのか、それともクオンに向けて言ったのか。どちらなのかは分からなかったけれど、手をヒラヒラと振りながらニーナは部屋を出て行った。
「凄い…ですね」
階段を下りていくニーナに聞こえないように、クオンが声をひそめて囁いた。
「口を挟む隙もない」
「ですね…」
クオンは、持たされた珈琲カップを一口すすると、それを作業用のデスクに置いて息を吐いた。
そんなクオンを見つめながら、ぼくはいつもと変わらない二人の態度に、何とも言えない優しさを感じていた。
「本当にキミたちは…」
ぼくの呟きを聞いたクオンが、不思議そうな顔でこちらを見た。
「どうしたんですか」
「キミたちは本当に、ぼくに優しすぎるよ」
もっと、何かが変わると思っていた。
いきなり精神病院に連れて行かれたり、力づくで何かされたりする事はないだろうとは思っていたけれど、もっと色々言われると思っていた。なのに、こうも何も変わらずに接せられると、逆に少し心配になる。
「あんな話を聞いた後だと言うのに、キミもニーナも何も変わらない。それがぼくには少し不思議なんだ」
「だって、ルカさんはルカさんだから」
何をそんなことを、と言いたげに即答されて、ぼくは思わず目を瞬いた。
「元々、ルカさんはちょっと不思議な感じの人ではあるし、雰囲気というか気配もテンポも独特だし、普段から『月を食べる』とか『静寂の音がうるさい』とか、よくそういう事も言ってたし、だから正直、ルカさんならそういう事もあるかなって……」
「……?」
「そりゃ驚いたし、マジか…って思ったけど、でもどちらかというと、そのせいで生きるのに積極的じゃないって事の方が問題な気もするし。あ。それに、こういう業界にいると、結構いろんな人に会うんですよ」
「色んな人、って言ったって…」
「それこそ役者仲間には、霊が見えるっていう人は結構いますよ。霊がいるってことは、魂があるってことだし、と言うことは生まれ変わりとか、その事を覚えてる人がいても、おかしくないわけですし」
前世を覚えてるとか言う外国の子供の話、前にテレビで見た事ありますよ。と言って笑うクオンは、確かにいつものクオンと変わらなかった。
「あ。お粥、冷めますよ」
デスクに置かれた皿を見下ろしてクオンが言う。
促されるまま椅子に座り、ニーナの作ったお粥を見下ろした。
ぼくのために作られた食事。
部屋は暖められ、快適に過ごせるように整えられた環境。
食べる事に困ることなどない。
安全に眠れる場所があり、孤独に震える事もない。
「…望んだ場所に、いるはず、なのに」
ため息と共にこぼした言葉に、クオンが首をかしげる。
「何ですか」
「何でもないよ。…いただきます」
ぼくはゆっくりと、温かいお粥を食べ始めた。
お粥を食べ終えてから一応はベッドに入ってみたけれど、予想通り眠気が襲ってくる気配はなかった。
ぼくと入れ替わるように椅子に座ったクオンは、『オブリビアス』のノートを食い入るように読み続けたまま、顔を上げる素振りもない。
夢中になって読み続ける姿に、口元が緩むのが自分でも分かった。
こんな風に自分の部屋に、自分以外の人の存在を感じるのは、ずいぶんと久しぶりの感覚だった。
互いに別々の事をしながらも、同じ空間を共有する静かな時間。
昨夜クオンの家に泊まった時にも感じた事だったけれど、彼の気配は家族のそれに似ていた。
この家に今ニーナがいて、クオンがいる。
その事に、どこか安心している自分にも気付いていた。
ベッドの上に半身を起こしたまま読みかけの本を開いた。こんなに静かで安らかな夜は、久しぶりな気がしていた。
※※※※※※
気が付くと朝になっていた。
すでに部屋にはクオンの姿はなく、一階から笑い声が聞こえてくる。
階下の笑い声で目覚めるなんて、どれくらいぶりだろうかと考えて、朝から随分と感傷的になっている自分に気付いた。昨日、あんなふうに両親の話をしたから、少し昔を思い出してしまったのかも知れない。
ぼくはベッドから降りると、静かに着替えて部屋を出た。
階段を降りると、笑い合う二人の姿がそこにあった。
バンを焼くためにトースターの前に立つニーナと、その隣で珈琲メーカーをセットしているクオンの姿。
かつての両親の姿が重なって見える。
「あ、おはよ。今、朝食用意してるから」
ニーナの明るい声が、ぼくをいつもの席へと促す。
「おはようございます。ね、ルカさん。卵は目玉焼きとスクランブルエッグ、どっちがいいですか」
クオンのよく響く声も、心地がいい。
「…ルカさん?」
「うん。おはよ」
「じゃなくって。卵はどっちがいいですかって聞いてんの」
「…たまご?」
「目玉焼きとスクランブルエッグ」
「…めだまやき、と、すくらんぶるえっぐ?」
意味が分からなくて、聞いた言葉をそのまま口に出して繰り返す。
「ハルカ。もしかしてまだ、寝ぼけてる?」
ようやく、パンと共に食べる卵を、どちらの状態で食べたいかを聞かれたのだと理解した。
普段からそんな朝食を食べてないから、何を言われたのかとっさに理解できなかった。
「あぁ。えっと、どっちでも…」
「どっちか、ちゃんと、選んでください」
朝からテンポのいい二人に翻弄される。けれど今はそれさえも、どこか両親がいたころを思い出させ、胸のどこか温かく疼いた。
正直、卵の状態などどちらでも良かったし、いっそ無くてもいいくらいだったのだけれど、こんなふうに食を勧められる事自体は嫌な気はしない。
「じゃぁ、スクランブルエッグで…」
「了解」
満足げに笑うクオンと、それを見て笑うニーナに、何故かぼくも少し嬉しくなった。
「ハルカ、顔色良くなったね」
「そう?」
「よく眠れたんじゃない?」
結局、眠れないだろうと思って本を読はじめたものの、知らない間にまた眠り、気づけば朝になっていた。
こんなことは本当に久しぶりだった。
「人の気配が傍にあるのも、安眠の条件の一つだったりするのよ」
「…まぁ、確かに。少しはそれも、あるかもね」
素直にそれを認めると、ニーナは少し意外そうな顔をした。
「なに?」
「いや、ハルカがそんなに素直に頷くとは思ってなかったから」
ぼくは苦笑しながら答えた。
「この家で、ぼく以外の人の気配がすることは、ここしばらくなかったからね。何となく懐かしい感じはしてるよ。それに、目が覚めた時に誰かに『おはよう』って言えるのも、やっぱりちょっといいなって思う」
昨日クオンの家に泊まった時にも、それは感じていたことだった。
『おやすみ』『おはよう』
たったそれだけの言葉なのに、それが言える相手がいるという事は実は大切な事なのかも知れない。
気付くと、クオンも少し驚いた顔でぼくの顔を見つめていた。
「え、何。そんなに変な事、言ったかな」
「ちょっと意外」
「ですね」
「てかそれってやっぱ、寂しいって事じゃないんですか」
「そーよね、私もそう思うわ」
「やっぱりニーナさん、ここに住んであげた方が良いんじゃないですか」
「え、何言ってるの。そんな事出来る訳ないでしょ。それを言うなら久遠寺くんこそ、いっそハルカと一緒に住んだらどう?」
「え、オレが?」
「家賃も浮くし、久遠寺くんも助かるんじゃない?」
「そういう問題じゃないでしょ」
起きしなの頭では、二人の速い会話についていけない。
が、一つの単語が頭に残り、ふと疑問を口にしていた。
「クオン、家賃、困ってるの?」
あまり詳しくは知らないけれど、役者という仕事はなかなかに生活が大変だと聞いたことがある。今まで気にしたことがなかったけれど、もしそうなら、この家を役に立ててくれればいいと思う。
「部屋ならたくさんあるから、どこでも好きに使っていいよ」
「どーしてそうなるんですか」
クオンが驚いた顔でぼくを見た。
「だって家賃が浮くと助かるって…」
「今はそこまで困ってないですよ」
確かに昔はそうでしたけど、今はバイトもしないで生活できてます。と、少し困ったようにクオンは視線を泳がせた。
「べ、別にその、ルカさんと一緒に住むのが嫌って訳じゃないですけど」
「じゃぁとりあえず、合鍵だけでも持ってくかい?」
「は?」
祖母や両親が使っていた鍵が残っているから、家の鍵なら何本もある。ニーナも持っていることだし、クオンも一つ持てばいい。
「合鍵なんて、そうやって簡単に渡すもんじゃないですよ」
クオンは今度は呆れたようなため息をついた。
「簡単に渡してるつもりはないんだけど…」
クオンだからいいと思ったのだけれど、どうやらそれは伝わらなかったらしい。
「あ、パンが焦げちゃう」
「あ、スクランブルエッグ作らなきゃ」
ハッとしたように動き出す二人に、ぼくも何かした方が良いかと声を掛ける。
「座ってて!」
まるでハモるように言われて、ぼくは何も言わずに席に座った。
こんな朝も、たまには良いなと思った。
※※※※※※
明日から稽古が始まるクオンは、読み残したたくさんのノートに後ろ髪引かれながらも、お昼前には帰っていった。
「気になるノートがあるなら、持って行って構わないよ」
「いや、失くしたり汚すのが怖いんで、それだけは絶対に遠慮します」
謙虚にそんなことを言うから、やっぱり無理やり合鍵を持たせた。
「いつでも勝手に読みにおいで」
「いや、やっぱりこれは困ります」
「久遠寺くんが持っててくれる方が私も安心なんだけどな」
どうにかして鍵を返そうとしていたクオンだったけれど、ニーナがそう声をかけると動きを止めた。
「ほら、久遠寺くんの家の方がここに近いし、いざ何かあった時、この間みたいに頼りにさせて貰えると嬉しいから」
ぼく的には何かと物言いをつけたいニーナのその発言は、それでもクオンには何か響くものがあったらしい。
「…そういう理由なら、預かります」
「いや、だからそういう使い方じゃなくってね…」
「久遠寺くんにはお世話になるばっかりだけど、今後も何かとよろしくね」
ぼくを目の前にしながらも、ぼくを素通りしていく二人の会話。変わらぬ日常ではあったけれど、ぼくは小さくため息をついた。
「ぼくは一応、もう大人なんだよ」
ぼくの呟きは、ニーナとクオンには届かなかった。
次の原稿の締め切りまで日にちに余裕があったから、ぼくはしばらくの間は、DVDを見たり本を読んで過ごすつもりでいた。
部屋の隅に山積みにされたそれらを見て、ぼくがしばらく家に引きこもるつもりだと気付いたニーナは、レンジで温めるだけで食べれる料理を山ほど作って置いていった。
「毎日、食事の時間には電話するからね。ちゃんと温めて、食べるのよ」
「ここまでされたら、ぼくだってちゃんと食べるよ」
「ホントに?」
「ホントに」
料理や食材を無駄にするつもりはなかったし、ここまでしてくれたニーナの気持ちを考えたら、それらをダメにするなんて事は出来るはずもない。
「ちゃんと食べるから安心して」
「『ちゃんと』って言うのは、そのまま食べるんじゃなくて、温めて食べるって事だからね?」
「分かってるよ」
どこまで面倒くさがりだと思われているのか、と思わず苦笑してしまう。
確かに、お湯を沸かすのさえ面倒だと思うぼくだけれど、あるものを無駄にする気持ちは少しもない。
毎日同じ時間に、一日三食。それは守れないかも知れないけれど、お腹が空いたらちゃんと、作ってくれた料理を順番に食べていくことくらいは約束できる。
「ぼくだってお腹は空くんだよ。だから、ちゃんと食べるよ」
だから毎日の電話はしなくていいよ、と。丁寧にそれは辞退した。
暫くの間は、予定通り大半の時間を読書とDVDを見て過ごした。天気のいい日には公園まで散歩して、ベンチで本を読んだりしていた。
時々確認のようにニーナからメールが来たけれど、ちゃんと食べていると伝えれば、連絡の頻度も減っていった。
『オブリビアス』の舞台稽古が始まったクオンは、まだ始まったばかりだからそこまで忙しくはないんです。と、時々遊びに来ては、またいくつかノートを読んでいく。
中でも『オブリビアス』のファイルを何度も何度も読み返していたから、コピーを用意して渡した。
これなら失くしたり汚すことを気にしないで心置きなく読めるだろうと、クリップで留めただけの束をそのまま手渡すと、クオンはひどく驚いた顔をしていた。もちろん、中身についてコメントやアドバイスはしないし、舞台に口を出すつもりはない事を伝えると、それは分かっていますとクオンも真面目な顔で頷いた。
「でも、コピーなんてして大丈夫なんですか」
大丈夫かというのは、どういう意味だろう。よく分からなくて首を傾げたら、クオンに呆れたように笑われた。
「こんなに大事なものなのに、そんなに簡単にコピーなんてしていいんですかってことですよ」
別にそこまで大層なモノのつもりはなかったのだけれど、言われて初めて確かにこれは、小説の原案ではあったから、大事と言えば大事かも知れない。
「うん、ま、でもクオンだし。大事に読んでくれるでしょ?」
思い返してみれば、クオンもニーナもノートを大切に扱ってくれていた。自分よりもはるかにその扱いは丁寧な気がする。
不意に黙ったクオンを見れば、少し赤い顔をしていた。
「どうしたの」
「……サイン、貰えませんか」
らしくもなく小さな声でささやかれ、一瞬何を言われたのか分からなかった。
「え、何?」
「せっかくなんで、サイン、貰えたら嬉しいなって…」
そう言ってコピーを差し出され、クオンがぼくのファンだと言っていたことを思い出す。
「あ、そういう事」
「ちょっと、かなり、恥ずかしい、ん、ですけど」
真っ赤な顔で途切れ途切れに言う様子がおかしくて、思わず吹きだしてしまった。
「笑わないでください」
顔を背けながらも、コピーをこちらに差し出す姿がおかしくて、ぼくは笑い続けた。
「いいよ。書いてあげる。その代わり…」
ぼくは本棚から一冊の本を取り出した。
「代わりに、これにサインして」
関係者として配られた『オブリビアス』の台本。キャストとして出演しているクオンのサインも、これに貰えればぼくも嬉しい。
「え、オレのサイン?」
クオンも意外そうに、ぼくの顔と台本を交互に見つめた。
「出演者でしょ?」
「そうですけど」
互いにサインを書きあうと、何となく可笑しくてまた笑った。
翌週にはクオンも稽古や撮影の仕事で忙しくなりはじめ、ニーナからも研究室の休みが終わったと連絡が来た。
どうやら研究室のトップである教授が長期の海外出張で不在の間、同行する職員以外のスタッフは皆、自宅待機と称して休暇になっていたらしい。
未だにニーナがどんな仕事をしているのかよく分からなかったのだけれど、忙しいスケジュールの合間に時々こういう事があるから、やっぱりよく分からなくて不思議だった。
「久遠寺くんの舞台の日は、ちゃんと空けてあるからね」
改めて言われて、『オブリビアス』の舞台の初日が、二週間後に迫っていた事を思い出す。
関係者として招待されたチケットは、初日と千穐楽の二日分だった。
ニーナも見たいと言っていたから、チケットはそれぞれ二枚用意して貰った。ニーナはぼくの身内だし、クオンとも知り合いなのだから関係者席にいても特に問題はないと思った。
今回、あえて舞台稽古の見学には行かなかった。
演出の牧野さんと話した時、大筋さえ残っていれば脚本を書き換えるくらいのつもりで演出して貰って構わないと伝えると、爆笑交じりに任せておけと言われた。
だから、自分が書いた脚本とは言いながらも舞台を見るのが楽しみで、だからこそ稽古の途中でそれらを見に行くことはしなかった。
忙しくなったと言いながらも、クオンからは毎日のように電話が来た。
今回初めて殺陣をやるんで、特別稽古をしてるんです。そう電話で話す声も弾んでいて、顔を見なくても稽古を楽しんでいることが伝わってくる。
「ケガしないように気を付けるんだよ」
『分かってます』
「稽古場に差し入れを送ったから、休憩時間にでも食べてね」
『え、ホントですか?』
舞台稽古を見に行かない代わりに、小分けに出来る甘いモノを、これでもかと言う程に送っておいた。スタッフやキャストたち皆で食べても、しばらくは楽しんでもらえるだろう。
「次に会うのは、舞台初日になるんだね」
『そうですね。……何だか不思議な感じです』
クオンは以前にもぼくが原作の舞台に出演している。けれどなぜか今回の舞台は、あの時とは何かが違う気がしていた。
「ニーナと二人で見に行くよ」
『なんかちょっと照れくさいですね』
公開まであと二週間。
クオンの稽古も大詰めを迎え、しばらくはもう家に来てノートを読んだり、話をする時間は取れないだろう。
『終わったらまた、他のノートも見せてくださいね』
「いつでもいいよ。読みにおいで」
ただ一つ気になるのは。
『オブリビアス』の舞台に立つクオンに、その元となったノートを見せたのは良い事だったのかどうかという事だった。
読ませてしまった後に思った。もしかしたら余計な迷いや動揺を、与えてしまったのではないだろうか、と。
『逆ですよ。すごく参考になりました。役の裏の気持ちとか、他の人たちのバックグランドが分かるから、視野が広がると言うか何と言うか』
クオンはそう言うけれど、他の役者や演出の牧野さんが知らない事をクオンだけが知っていると言うのは、やはり余計な事だったのではないかと思ってしまう。
『考えすぎですよ。オレにとっては宝です』
あのノートのコピーを、更にコピーを取って読んでいると言っていた。
そんな事をしなくても何度でもコピーしてあげるのにと思いながらも、大切にしてくれる気持ちは素直に嬉しいと思った。
他の人に見つかると色々言われそうだから、家でこっそり読んでるんです。それでももうボロボロですよ。そう言って笑うクオンに、ぼくも思わず苦笑した。
「ノートの方は補足だからね。あくまでも脚本がメインだから」
『分かってますよ』
それでも。
夢中になって繰り返しノートを読むクオンの姿を思い浮かべ、やはり少し心配になった。
脚本には書いていない部分がノートには書いてある。それがクオンに与える影響が、いいモノだけであるのならいいのだけれど。
『ルカさんは、意外と心配性なんですね』
「『意外と』は、余計だよ」
クオンは立派な役者だから、きっといい方向へ行くと信じている。
信じてはいるけれど、心配になる。
これは、ぼくの過去の話だから。それを、知ってしまったクオンだから。
『楽しみにしてて下さい』
クオンは笑って電話を切ったが、ぼくは感じた不安を、それ以降なぜかぬぐうことができなかった。
『オブリビアス』の舞台の日。
それまで感じていた不安が何だったのか、ようやくその理由が分かった。
脚本が自分の手を離れてからずっと、舞台の内容については考えないようにしていた。
だから、舞台を見るまで思い出さなかった。正確に言えば思い出さなかったというよりは、自分の中で気づかない振りをしていただけなのかも知れない。
クオンにコピーを渡す時に思い出せばよかった。台本にサインしてもらう時に気付けばよかった。少なくともあの時ならまだ、間に合ったのかも知れない。
何度もあった回避のチャンスを、ぼくは全て見逃してしまっていた。
ぼくは忘れていたのだ。クオンが何の役をやるのかを。
舞台の幕が上がり、客席から舞台上のクオンを見た時、ノートを見せなければよかったと思った。ましてや何度も読み返せるようになんて、コピーして渡したりするんじゃなかったと後悔した。
まさかここまでクオンが、その男を再現するとは思ってもいなかった。
姿形は、似ても似つかない。
なのに、醸し出す雰囲気や立ち居振る舞いのすべてが、過去の男のそれに重なって見えた。
舞台も終盤を迎えたその時、自分の身体が震えだすのが分かった。
両手で身体を抱え込んでも、一向に収まる気配はなかった。
隣に座っていたニーナが「大丈夫?」と声をかけてきたけれど、それさえもどこか遠くに感じていた。
恐怖、ではなかった。
ただひたすら信じられない思いで、舞台上のクオンを見つめ続けた。
どうして。どうして。どうして。
ぼくは脚本には書かなかった。
ノートにさえそれは、書かなかった。
なのに、クオンは。
かつてぼくの命を奪った男は。
舞台の上で子供の命を奪う時、あの時と同じことをしていた。
※※※※※※
気付いた時には、舞台は幕を下ろしていた。
客席からも人は引き、残っているのはニーナとぼくの二人だけになっていた。
「…大丈夫?」
ニーナがぼくの肩に触れながら聞いてきたけれど、それさえもどこか現実には思えなくて、ぼくは思わず息を吐いた。
「ちょっと、混乱…してるかも…」
「何があったの?」
ニーナが、青白い顔でぼくの顔を覗き込んできた。
隣にいたニーナが、途中から舞台ではなく、ぼくを心配げに見ていた事には気づいていた。
だから、気づかれていただろうとは思っていた。
ぼくがクオンを見て震えた事。その理由が何なのか、もしかしたら予想はついているのかも知れない。
「ねぇニーナ。ぼくは一体、誰なんだろう」
ぼくは幕の下りた舞台の上を見つめた。
そして静かに目を閉じ、思い出す。
舞台の上のクオンを。
そして過去、ぼくの命を奪った男の姿を。
「どうしてあの時、クオンは…」
「ルカさんっ」
その時、舞台横の扉から、クオンが飛び出してくるのが分かった。
「大丈夫ですか。具合、また悪くなったんですか」
舞台の上からも、ぼくが身体を抱えて蹲っている姿が見えたのだろう。
心配そうな顔で走り寄ってくるクオンは、けれどまだメイクも落としておらず衣装も着替えていないせいか、ぼくにはその姿さえもが過去の男と重なって見えた。
過去と現実の境が、曖昧に思える。
ぼくが生きているのは、今、どちらの世界なのだろう。
「ルカさん?」
クオンが。
男が。
ぼくを心配げに見下ろしている。
その目が、瞳が、まだ僅かに水に濡れて揺れて見える。
今なら聞いてもいいだろうか。
あの時、聞けなかった言葉を。今なら聞くことが出来るだろうか。
「…どうして」
ずっと表情のない男だと思っていた。
だから感情もないのだと思っていた。
誰と話していても、何をしていても、その瞳に感情が宿ることなどなかったから、だから何も感じていないのだと思っていた。
人形のような男。
そう、思っていたのに。
それなのにあの時、ぼくの命を奪う時。
男は、一筋の涙を零した。
もうすぐ十歳になる頃だった。
だから男たちが村を訪れ、彼らの意に添わぬ村人たちを皆殺しにすることがなくても、私自身の命はそう長くはないだろうと分かっていた。
男の手に鈍く光る剣を見た時、ああ、この男の手で自分の命は終わるのだ。と、ただ静かにそう思っただけだった。
できれば痛みは少ないといいな、と。男の握る剣を見つめながら思っていた。
ただ、それだけだったのに。
「どうして、泣いたの……」
それは純粋な疑問だった。
男の腕の中で意識を失う時、見上げた男の目に涙を見つけて驚いた。
男の表情にも、その瞳にも、感情の揺らめきは見えなかったのに、その目から流れる雫が、私の頬を濡らした。
聞きたかった。
ただ一言「どうして」と。
けれど消えゆく私の命の火は、その一言を口にする力さえ残しておいてはくれなかった。
男が何を思い、何を感じて泣いたのか。
命を奪う事を悲しんでいたのか、あるいは、命令に従わなければならない己自身を憐れんでいたのか。
男の事を何も知らない幼い私には、それを知る術は何一つなかった。
「…ルカ、さん?」
ハッとして見上げると、困惑した表情のクオンが、ぼくの両肩を掴んで顔を覗き込んでいた。
「あ、ああ。クオン、ごめん」
すべてが、混乱していた。
記憶も、感情も、感覚も。
どこまでが現実で、どこまでが過去の事なのか、境界線が曖昧に感じられてしまっている。
「…大丈夫ですか?」
「うん。まぁ一応…」
大丈夫では、なかった。
身体の感覚さえもが曖昧で、どこかフワフワとしている。
「オレが混乱させました?」
クオンが申し訳なさそうに言うのを、ぼくは苦笑しながら首を振った。
少しだけ笑ったことで、自分を僅かに取り戻したような気がした。
「いや、ちょっと錯覚しただけだよ。クオンが役になりきってたから、ちょっとだけ混乱したんだ。ただ、それだけの事だよ」
少しすれば落ち着くから。そう言って笑えば、ようやくクオンと、そしてニーナも、ホッとしたように息を吐いた。
「みんな裏にいるんでしょ。そろそろ挨拶に行かなきゃね」
クオンに控室の方へと案内されながらも、それでも意識は半分、過去に飛んでいた。
それからの記憶は、まるで夢の中にいるようにひどく曖昧なものだった。
控室で演出の牧野さんに会った時も、感覚が曖昧なままだった。
キャストの皆と写真を撮り、それぞれに感想を述べたり、千穐楽までケガなく頑張って欲しいと話す間も、どこか他人事のように遠い感覚だった気がする。
途中、クオンが心配そうな目でこちらを見ていることには気づいたけれど、初日の舞台が無事に終わり、興奮しているスタッフの中で他に気付くものはいなかった。
それから何故か少しずつ、過去の記憶が現実に重なって見える事が多くなっていった。
フラッシュバック、だろうか。
色々な時代の、様々なシーンが二重写しのように、現実の世界と重なって見える。
「本気でちょっと、おかしくなってきたのかな」
独り言のように呟いてみても、曖昧な感覚は拭えなかった。
※※※※※※
「写真、公表してもよかったんですね」
出版社での打ち合わせが終わり、担当編集者の岸谷くんが、テーブルの上の書類を片付けながら少し意外そうに聞いてきた。
何のことか分からずに首を傾げれば、「顔写真の事ですよ」と言われた。
「あまり取材とかも受けないから、てっきり顔出しNGなのかと思ってました」
「特に決めていた訳ではないけれど、どうして今になってそんな事を?」
「オブリビアスのキャストたちと一緒に写真、撮りませんでしたか。あちこちで神凪さんの顔写真、出回り始めてますよ」
「は?」
確かに、キャストたちと一緒に写真を撮った。集合写真のように皆で撮った後にも、個別に一緒に写真を、と言われ、それぞれのキャストと一緒に撮った気がする。
ブログに載せてもいいかと聞かれ、いいよと答えた記憶はあるが、『出回る』という意味がよく分からない。
疑問が顔に出ていたのか、岸谷くんが苦笑した。
「ブログの写真を見たファンの子たちが、自分たちのSNSでもそれを紹介したり、広めたりしてるんですよ」
言っている意味は分かったけれど、根本的な所が分からなかった。ぼくの写真を、キャストのファンの子たちが紹介する目的が分からない。
「神凪さん、自分の容姿に少し無頓着すぎませんかね」
「は?」
「役者に間違われた事、ありませんか?」
それは時々、確かにあった。
クオンと最初に会った時もそうだったけれど、現場が現場だけに、何度か間違われたことは確かにある。
「それは、ほら、若く見られがちだから」
岸谷くんは、少し呆れたようにため息をついた。
「ぼくは神凪さんより若いですけど、舞台現場に行って役者に間違われた事なんて今まで一度もありませんよ。…言ってる意味、分かりますか」
全然意味が分からない。
ぼくは首を傾げた。
「ま、それが神凪さんの良い所かも知れませんけど」
岸谷くんは苦笑したままそう言うと、実はそれで提案なんですけど。と、一枚の紙を出してきた。
「これは仕事と言うよりは提案なんで、やりたくなかったら無理にとは言いませんけれど…」
そう言って差し出されたのは、SNSの始め方が書かれたテキストだった。
出してる本のPRも出来るし、関係している舞台や雑誌の紹介もリアルタイムに出来るから便利なんですよと説明され、一応、SNSは理解していると伝えれば、少しホッとしたような顔をした。
「良かったぁ。今時、ブログも何もしてないみたいだったから、ネット系は全然ダメなのかと思ってました」
「確かに、あまり得意ではないけどね」
「手始めに、呟き系はどうですか。携帯から簡単に更新できますし、こちらでも細かいチェックは入れますから管理は任せて貰って大丈夫です。…てことで、始めてみるつもりはありますか?」
「始めるのはいいんだけれど…」
「けれど?」
「見てくれる人なんているんですかね」
今度こそ岸谷くんは、口を開けたまま呆然とぼくを見つめた。
「…それ、本気で言ってます?」
「ぼくはいつでも本気だよ」
小説として出版したものを読んでくれる人がいるのは理解していたけれど、それは創作の世界を読みたいが為であって、ぼく個人の発信する私的な情報を求めている訳ではないだろうと思う。
「意外と神凪さんって、鈍感なんですね」
「…どんかん?」
鈍感、と言われたのは、これまで生きてきて初めてかも知れない。
「鈍感、というか。…もしかして自己評価が低いんですかね」
売れてる作家さんなのに不思議ですね。と言われて、またぼくは首を傾げた。そんなに売れているつもりもなかったけれど、自己評価が低いつもりも、なかった。
「今日、まだ時間ありますか。良かったら今からぼくが手伝うんで、携帯にアプリ入れて、さっそく始めちゃいましょうか」
そう言って岸谷くんは、小さな子供を見守る大人のような顔でぼくを見つめ、にこりと優しく微笑んだ。
打ち合わせの帰り、電車の中で携帯を見つめた。
SNSの類は自分でやってはいなかったけれど、ニーナやクオンが使っていたからそれがどんなものかは知っていた。ルールやマナーみたいなものも、一応は承知しているつもりだった。
よもや自分が始めることになるとは思ってもいなかったけれど、それでも、求めてくれる人が少しでもいるというのなら、始めてみるのも悪くはない。
そう思いながらも、ふと車窓から外を眺めてため息をついた。
流れていく街の景色。立ち並ぶビルの数々。その見慣れた都会の景色に、別の景色が重なって見える。
煙を上げて燃えあがる木。崩壊したレンガ造りの建物たち。
過去の、記憶の中だけにあるはずの、景色たち。
それらが目の前の現実の世界に重なり、眩暈のような感覚をもたらす。
時々おとずれるようになったこれらの景色は、何度か瞬きを繰り返せば薄れ、現実の世界だけが視界に戻ってくる。
ぼくは深く息を吐いた。
自分の中の何かが壊れ始めたのかも知れない。と、そう思いながらも、不思議とそれを怖いとは思わなかった。
来るべき時が近づいているのかも知れない。そう思うと、どこかホッとするような気もしたし、少し残念なような気もした。
そんな自分が今さらのように、SNSのような新しい事を始めるなんて。と、少し可笑しく思った。
「……墓参りでも、行くかな」
久しぶりに電車に乗り、ふと、外出したついでに寄ってみようかと思いつく。
途中で電車を乗り換えれば、ここからなら三十分とかからずに行けるだろう。
両親が亡くなり、それぞれの四十九日が終わってからまだ、一度も墓参りに行ってはいなかった。
まだ一年経っていない事に驚くと同時に、あっという間だったような気もしている。
もし住職がいたなら、葬式の時にはあまり話すことが出来なかったから、ゆっくり話をしてみるのもいいかと思った。
※※※※※※
駅を降り、両親と祖父母の眠る墓のある寺へ向かった。
ぼくの家は特に宗教を信仰している家庭ではなかったけれど、祖母がこの寺の先々代の住職と幼馴染という事もあってか、何かと仏を大事にする信心深い所があった。
小さい頃、仏壇に手を合わせる祖母を見て育ったぼくは、誰に教わるでもなく自然とそれに倣って仏壇に手を合わせるようになっていた。胸元で十字を切らないことが、小さい頃は何故か少しだけ不思議だった。
昔、この寺に立てこもった武士と鉄砲隊との間で激戦となり、寺の扉にその時の銃痕が残っていると祖母から聞いた。
その銃痕の残る山門をくぐって寺へ入ると、本堂へは向かわずに住職のいる社務所の方へ足を向けた。
呼び鈴を鳴らすと、しばらくして現住職ではなく先代が脇の窓から顔を出した。
「おお。ハルカくんじゃないか。久しぶりだね」
「ご無沙汰しています」
今日は法事などの予定がないのか、作務衣姿の先代が、笑っておいでおいでと手招きする。
「寒いから、ほら早くこっちに上がっておいで」
変わらぬ気さくさに、思わず口元が緩んだ。
「すみません。出先からそのまま寄ったので、何も手土産を用意してなくて」
「なに余所行きなこと言ってるんだい。ハルカくんは私にとっては孫みたいなものなんだから、そんな事気にしないで、いつでも遊びに来ればいいんだよ。ほら早くこっちに上がって暖まりなさい」
父より年上ではあるものの、ぼくを孫扱いする程の年齢でもないはずなのに、先代はいつもぼくを孫のように扱った。それがいつもは恥ずかしいのだけれど、何故か今日は少し嬉しく思う。
「今日は墓参りかい。ああ、息子は今は外出しているから、後で私が一緒にお経を上げに行こうかね。それにしても、わざわざこんなに寒い日に来るなんて」
途切れることなく話し続けながら、檀家さんを通す部屋ではなく、住職たちがくつろぐコタツのある部屋に通された。熱いお茶を出され、昔はよく両親と祖母と共にこのコタツでミカンを食べた事を思い出す。
「近くに用事があったので、今日はその帰りに寄ったんです」
「久しぶりに顔を見れて、私も嬉しい限りだよ」
祖母によく似た微笑み。
この年齢の人たちの笑顔は皆どこか優しく、温かい。
「そうだ。ミカンがあるんだけど、食べるかい?」
先代の呼びかけに、思わずぼくは笑った。
「……ここはずっと変わりませんね」
差し出されたミカンを手に取りながら呟いた。ここの時の流れは穏やかで、ゆっくり息が出来る気がする。
「時間があるなら、少しゆっくりしていきなさい」
先代はそう言って笑うと、ぼくの肩を優しく叩いた。
「よく、眠れてないんじゃないのかい」
もうすぐ両親の一周忌だからと、その辺りの話しを少しして、自分の近況を話し終えたところで、不意にそう聞かれた。
「…そう、見えますか」
「何となくね」
お代わりのお茶を淹れながら、先代は目を細めてぼくを見た。
「……生きることに、少し疲れているように見えるよ」
思わず息が止まった。いきなりそんなふうに言われるとは思ってもいなかった。
「こういう仕事をしているとね、人の表情には敏感になるものなんだよ」
一体、ぼくはどんな顔をしていたと言うのだろう。
「ちょっとだけ、お坊さんらしい話をしてみようか」
そう言って先代は、ぼくの前に淹れたてのお茶を置いてから、ゆっくりと話し始めた。
「仏事に携わる生活をしているとね、やっぱり必然的に、人の悲しみの部分に触れることが多いよね。葬儀というものは人と人との別れの場だから、色々な形の悲しみや苦しみ、絶望の姿を見ることになる。『人それぞれ』とは言うけれど、それこそ本当に一人ひとり全部違った別れが…違った感情がそこにあるし、そう、それはある意味、綺麗ごとばかりではないんだよ」
今まで立ちあってきたそれらの事を思い返しているのか、先代の目は少し寂し気に揺れていた。
「でもね、私はいつも思うんだよ。見送り、別れを惜しんでくれる人がいる仏は、なんて幸せなんだろう、ってね」
「…え」
「生まれて来る時、必ずそこには母親がいる。それは生物である限り必ず産声を聞くものがいるっていう事だよね。だったら亡くなる時にも誰かが…一人でもいいから誰か見送る者が傍にいるのが、本来あるべき姿なんじゃないのかって、私個人はそう思っているんだよ」
そう言って寂しそうに笑う先代は、一人で旅立つ者の葬送に何度も立ちあってきているのだろう。
「ハルカくんのご両親は自分の息子に旅立ちを見送って貰えた。たくさんの親戚にも別れを惜しんで貰えた。別れ自体は辛いことだけれど、そうやって旅立ちを惜しんで貰えたご両親は、とても素敵な人生を送ってきたんだろうって思えるよね」
短くはない父や母との思い出を振り返っているのか、先代の目はどこか遠くを見つめている。
「人はね、一人で生まれて一人で死ぬ。いくらお金があっても、どんなに誰かに頼んでも、それだけは誰にも代わってはもらえない。それだけは、全ての生き物に平等に与えられている権利のようなものだと言ってもいい。だけど…」
先代はそこまで言うと、真っ直ぐにぼくの目を見つめた。
「どうやって生きるのか。それはだけは、自分でどうにでも出来ることなんだよ」
全てを。
見透かされているような気がした。
両親や祖母を失った自分が今、生きる意味が見つけられないでいることを、全て見透かされているような気がした。
「ハルカくんはまるで、何かをずっと探している迷子の子供みたいだね」
「どう、して…」
呆然とするぼくを見て、先代は優しく笑いながら、ぼくの肩に手を乗せた。
「他の人と同じように生きようとしなくていいんだよ?」
ドクリと、心臓が跳ねた気がした。
それこそ、誰にも言ったことなどなかったのに。
ぼくの中には色々な過去がある。だから、ぼくにとっての『普通』は全然普通なんかじゃないって、それだけは小さい頃から理解していたから、せめて周りと同じようにしようと、それだけを大事に行動していた。
「ハルカくんは昔から周りをよく見ている子供だったよね。あまりわがままも言わなかったし、無茶なこともしなかった。そばに大人しい子がいれば大人しかったし、よく遊ぶ子がいればそれなりに一緒になって遊んでいた。不思議になるくらい周りの子と同じように振る舞おうとしていたよね」
その、通りだった。
目立たないように。普通の子供に見えるように。それが一番、いい事なのだと思っていた。
「目立つことが嫌いなのかなって思ってたよ。注目されたりするのが苦手で、引っ込み思案って言うのとも少し違うかも知れないけど、自己主張するのが苦手な子なのかなって、ずっとそう思ってた。でも、そうじゃなかったんだよね」
先代は目を細め、嬉しそうに笑った。
「作家になった事。ご両親は本当に、とても喜んでいたんだよ」
「……そう、なんですか?」
「ものすごく喜んでいたよ。周りに気を遣ってばかりの子だと思っていたけれど、ちゃんと自分を表現する方法を持っていたんだって、そう言って嬉しそうにいつも自慢していた」
初めて聞いた。
あまり小説や本を読まない両親は、ぼくの本が出版されることが決まった時、確かに喜んでくれてはいたけれど、そこまで誰かに自慢するほど喜んでいたなんて、誰からも聞いたことがなかった。
「ハルカくんの本を周りの人に配っていたの、知ってるかい」
「え?」
本屋で見かける度に全部買い占めて、会社の人や周りの人たちにプレゼントしていたんだよ。と、内緒話をするように小さな声で先代は笑いながら教えてくれた。
「ホントに…?」
一度も、両親からそんな話を聞いたことなど無かった。
本が出版される度に一冊ずつ、見本として両親にも渡してはいたけれど、それさえ読んでいるのか分からないくらいだと思っていたのに。
「二人とも、ちゃんと全部読んでいたよ。もちろん、私もちゃんと全部買って読んでるよ」
顔が、赤くなるのが自分でも分かった。どうしたらいいのか分からなくなる。
先代が、いたずらが成功したかのような顔で笑った。
「ハルカくんのそんな顔、初めて見たよ」
ぼくは、顔が上げられなかった。
ちゃんと読まれていたんだと思うと恥ずかしくて、でも、やっぱり少し嬉しかった。
けれど、あれを読まれていたんだ、という相反する思いもまた、同時に胸をよぎった。
「ハルカくんが作家になった時『あの子もやりたい事を見つける事が出来たんだね』って、そう言って二人はとても喜んでたんだ」
やりたい事。
胸がズキリと痛んだ。
小説を書き、舞台の脚本を書く事。
それは確かに自分が選んできた道だったけれど、果たしてそれが『やりたい事』だったのかどうなのか、ぼくにははっきりと頷くことが出来ない。
先代や両親は、ぼくがやりたい事を見つけて道を進み始めたのだと素直に信じたのかも知れないけれど、ぼくはただ流されるように小説を書き、運よくそれを職業にできただけの事だった。
けれど、両親がその事を嬉しく思っていたのだと聞いた今、先代にそれを話すことなど出来るはずもない。
「生きることに理由なんていらないんだよ。ハルカくんがハルカくんらしく、好きに生きればいいんだ。作家として生きるのも自由、嫌なら辞めるのも自由。他に何かを見つけたなら、それをやるのも誰にも何も遠慮なんかいらないんだ。好きに、生きればいいんだよ」
人生は、やりたい事をするために使えばいい。そう言われて、ぼくは何も返せなかった。
先代は、ぼくの抱えているモノを勘違いしている。
他人と同じように生きようとして苦しんでいると思ったのかも知れない。あるいは両親を失い、死というものの意味を深く考えて、人生に迷っていると思ったのかも知れない。
どちらにせよ、ぼくが歩みを止めて見えたのは確かで、だからこそ、やりたい事をすればいい、と背中を押してくれているのだと分かっていた。
だから。
そうじゃないなんて、言えなかった。
やりたい事が分からない。何をすればいいのか分からない。自分の心なんて、どこにも何も見えない、なんて。
そんな事、言えるはずもなかった。
そんな自分が。
何だか空っぽのように思えた。
暗くなると今日はもっと冷え込むよ、と言われて、先代にお墓の前でお経を唱えてもらった後、その足ですぐに駅に向かった。
同じように駅に向かう人たちも皆、寒さのためか肩をすくめ足早に歩き、すれ違う他人の事を気にする者など誰もいない。
家族のために仕事をして、疲れて家路を急ぐたくさんの人。
おそらくは休みの日は家族と共に過ごして、時々贅沢な食事や趣味を楽しむ。そしてまた仕事をして時々帰りに酒を飲み、家族の待つ家に帰っていく。
ごく当たり前に繰り返される日常。
当たり前に繰り返されるその日常の中で、生きることに疑問を感じている人は一体何人いるだろうか。
一人の、コート姿のサラリーマンの男とすれ違った。
ひざ下までの長いコートの裾を翻し、無表情に足元を見つめて歩くその姿に、別の男の姿が重なって見える。
灰色の装束に身を包んだ青白い顔の兵士。その顔に表情はなく、血の気のない顔はまるで死人のようでもあり、命を奪いに来る死神のようにも思えた。
ぼくは足を止めると、小さく息を吐いて目を閉じた。そのまま何度か深い呼吸を繰り返し、そしてゆっくりと目を開けた。
ぼくは、声もなく笑った。
もう、笑うしかなかった。
本当に、これでは夢と現実の境が分からない。
崩れたもう一つの世界が、ぼくの目の前に広がっていた。
白昼夢とはこういうものか。と、どこか冷静に思いながらも、これでは狂人との区別も難しいな、と、自分で自分が可笑しくなった。
今度は何度瞬きを繰り返しても、重なった世界は消えなかった。
目を細め、視野を狭めて周りの気配を感じてようやく、現実の世界を認識できた。
その感覚だけを頼りに、駅までの道をゆっくりと歩き出す。すれ違う人と何度もぶつかりそうになりながらも、ぼくは目を細めたまま歩き続けた。崩れた、もう一つの世界を見つめながら。
「…本当に、狂いかけているのかな」
もしそうだと言うのなら。
誰にも迷惑はかけたくない。それだけをぼくは考えていた。
外に出る度に、景色が重なる頻度が増えるようになってきていたから、なるべく外出しないようにしていた。
編集者とのやり取りも、直接会うような打ち合わせは暫く予定がなかったし、家にいる限りは何故か過去のヴィジョンが重なることもなかったから、引きこもりのようにぼくは自宅から一歩も外には出なかった。
元々が引きこもりのような生活だったから、それで何も困ることはなかった。
※※※※※※
数日たったある日、今年の誕生日プレゼントは帽子がいいな、とニーナから連絡がきて、ああもうそんな時期になったのだなと思い出す。
毎年、ニーナの誕生日には、何か好きなモノを買ってあげると約束していた。
サプライズ的な事をするのが苦手だったから、こんなふうにちゃんと本人が欲しいと思う物をプレゼント出来る事が、素直に嬉しいと思っていた。
でも、まさかこのタイミングで『一緒に選んで欲しい』なんて、そんな風に言われてしまうとは思ってもいなかった。
心配させてしまうといけないから、色々なモノが重なって見えることはニーナには言ってはいなかった。
どうしようかと悩んだけれど、断れば理由を聞かれて心配をかけてしまうことは分かっていたから、やはり何も言わないでいようと思った。
あまり酷いヴィジョンを見るようなら、具合が悪いと言って帰ればいい。そう決めて一緒に外出する事をOKした。
女の子のファッションなんてよく分からなかったから、「どれが」いいかと聞かれて困ったけれど、「どちらが」似合うかと聞かれれば、それには素直に返事ができた。
ニーナは小さなリボンのついた、黒の丸い形の、ボウラーとかいう帽子を選んでいた。
ボウルのように丸いという意味でついた名前らしい。
「ハルカも帽子、何かかぶればいいのに」
買ったばかりの帽子を頭にのせたニーナは、本当に嬉しそうに笑ってぼくを振り返った。
「でも、ホントにありがとね。大事にする」
帽子の空箱が入った紙袋を手に揺らしながら、ニーナが満面の笑顔で笑った。見ているこちらまで嬉しくなるようなその笑顔に、ぼくも思わず笑い返した。
毎年、ニーナはこんな風に笑ってプレゼントを受け取ってくれる。
自分が欲しいと思って選んだものなのだから、当然と言えば当然かも知れないけれど、それでもこんな風に笑ってお礼を言われると、何とも言えない嬉しい気持ちにさせられる。
「ね、この近くに美味しいランチのお店があるんだ。まだお昼には少し時間が早いけど、これからちょっと行ってみない?」
返事を待たずに歩き出したニーナの後を追いながら、ぼくはこの穏やかな時間を嬉しく思った。不思議とニーナと一緒にいる間は、心配していたヴィジョンを見ることはなかった。
まだお昼にするには少し早い時間だったせいか、お店は並ぶほど混んではいなかった。
パスタ系のランチは美味しかったし、食後のケーキはぼくの分もニーナが完食した。
ニーナの誕生日は本当はまだ先だったのだけれど、こうやって一緒にお祝い出来る事は本当に嬉しいと思った。
「クオンが羨ましがるだろうな」
「どうして?」
「一緒に買い物したり、食事したかったって言うに決まってるよ」
少し不思議そうに首を傾げたニーナは、すぐにまた笑った。
「じゃぁ今度は久遠寺くんも一緒にそうしましょ」
食事や買い物が目的ではなく、一緒にニーナの誕生日のお祝いがしたかっただろうな、と言う意味で言ったのだけれど、それはうまく伝わらなかったらしい。
時々ぼくの口にする言葉は、クオンやニーナにうまく伝わらない。
「久遠寺くんも帽子とか似合いそうよね」
次は二人の帽子を選んであげる。そう言って笑うニーナに、ぼくは苦笑しながら頷いた。
お腹もいっぱいになったから、少し歩いてから帰ろうと、お店を出てから駅に戻るまでの道をわざと遠回りして歩いた。
だいぶ暖かくなってきたとはいえまだ風は冷たく、ニーナは買ったばかりの帽子を少し深くかぶり直し、淡い色のストールを羽織りなおしていた。
裏通りと言うには小綺麗な道を、ゆっくりとニーナと二人で歩く。
ぼくらは他の人から見たらどんなふうに見えているのだろうかと、ふとそんなことを思った。
親戚同士には見えないだろう。
兄妹で歩いているとも思わないだろうから、多分、恋人同士に見られるだろう。
クオンに申し訳なかったな、と少し反省しながら歩いていると、正面に少し変わった建物が見えてきた。
三角の屋根の上に、十字架が見える。
「あれって、もしかして教会?」
「みたいだね」
近くまで来ると、入り口の脇に看板のような札が立っていた。
読めば、この時間は一般にも中を開放しているらしく、扉も大きく開いている。
「入ってみる?」
興味津々に中を覗き込んでいるニーナに向かって声を掛けると、中からちょうどこの教会の関係者らしき男性が出てくるところだった。
「あ。どうぞ、ご自由にお入りください」
男性に促されて中に入ると、そこは祭壇のある小さな聖堂のようだった。
男性が軽く頭を下げてから出ていくと、中にはニーナとぼくの二人だけになった。
軽く辺りを見回した後、壁のステンドグラスを順に眺め始めたニーナを横目に、ぼくは正面の十字架を見上げた。
広くはない聖堂の正面の十字架は、木製のシンプルなものだった。
それに向かって並ぶ長椅子の一つに座ると、ぼくは一度深く息を吸った。
視界が、ぼやけてくるのが分かった。
目の前の景色に、別の教会の姿が重なり始める。
ああ。今日は見ないで済むかと思ったのに、やっぱりそうはいかなかったか。と少し残念に思いながら、ぼくはもう一度深くため息をついた。
周りからゆっくりと音が消えていく。
ニーナを心配させてしまうから、出来ればすぐに消えるようなヴィジョンだといいな。なんて思いながら目を閉じ、そしてゆっくりと目を開けた。
足元に。
形を失った十字架が転がっていた。
よく見れば十字架は半分に折られていた。
十字架が乗っていただろう台も粉々に砕かれ、正面の石の祭壇は、見る影もない。
周りを見回すと石造りの教会なのか、壁のあちこちが崩れていて、小さな穴がいくつも開いていた。その穴から差し込む光が鋭い矢のように教会の内部を照らし出していたけれど、それでも教会の中はとても暗くて、そして信じられないくらいに静かだった。
何故かとても、懐かしかった。
過去の記憶全てを、細かいところまで覚えている訳ではなかったから、この景色には見覚えがあるような気はするけれど、それがいつの時代だったのかまでは思い出すことが出来ない。
思えば、建物の内部の幻視を見るのは初めてかも知れない。
手を伸ばせば、触れられそうな気がする。
壊れた十字架。壊れた祭壇。
思い出せない、過去の記憶。
それでも少しずつ霧が晴れていくように。
ゆっくりと何かを思い出し始めているような気はしていた。
不意に身体を揺すられハッとした。
「ハルカっ、大丈夫?」
長椅子に座るぼくの肩を揺すりながら、ニーナが心配そうにぼくを見下ろしていた。
見回すと、ニーナと一緒に入ってきた教会に変わりはなく、二重写しの世界ももう見えない。
「…ああ。うん、大丈夫だよ」
「でもハルカ、泣いてる」
頬を、何かが伝っているのは分かっていた。
だけど、自分が泣いているなんて思えなくて、どこか他人事のように思った。
何も感じてなどいなかった。
痛みも、悲しみも、苦しみも。
そこに何の感情もないのに、ただ涙だけが溢れるように流れていた。
「なに、これ…」
自分でも訳が分からなかった。
何も感じていない自分を、ただ静かに感じていた。