〈三〉
次の日、おじいさんはさゆりのマッチを擦りませんでした。
また次の日もさゆりのとは別のマッチを擦りました。そうしていつものように花や虫に一言二言話しかけて、パイプたばこを吸いました。
おじいさんは、本当はさゆりにとても会いたかったのですが、さゆりがお昼に起きてから、夜お座敷に出るまでのほんのわずかな時間を、自分のために使わせては悪いと思い、我慢したのです。
(なに、私にだってやることがいっぱいあるんだから、時間潰しには困らんさ)
と、おじいさんは思いました。確かにおじいさんには自分の食べる食事のお料理をしたり、広い庭の木や花々の手入れをしてやる仕事がたくさんありました。でも、どうしてか、何もやる気がしません。お料理も作る気がしませんでしたし、だいいち何も食べたくありませんでした。
どうしてでしょうか、おじいさんは何も手がつかず、食事ものどを通らず、たださゆりのことばかり考えているのでした。思い出すのは、さゆりの笑顔や、言葉や、とても素敵だった踊りのことばかりです。
(これは困った。いっそ、また会ってしまえば気が済むに違いない。だが、もう1日くらい我慢しよう。なに、やることはいっぱいあるさ)
そうおじいさんは思うのですが、結局何も出来ないのでした。
唯一出来たことはパイプたばこを吸うことです。
おじいさんはさゆりのマッチを伏せて見ないようにしながら、宝箱の中から他のマッチを探しました。
一つ、日本の女の子のマッチを見つけました。年頃は小さいのに、きれいな着物を着て、髪をそれはきれいに結い上げています。そして、なぜか両手を袖の中に隠していました。
おじいさんはそのマッチを擦りました。マッチの明かりの中に現れた女の子は、何だか浮かない顔でうつむいていました。
「こんにちは、きれいな着物のお嬢さん。なんで両手を隠してるんだい?」
おじいさんが話しかけると、それでも愛想笑いをして女の子も答えました。
「こんにちは、旦那さん。私は舞妓なの。芸者の見習いなのよ。手を隠しているのは“見習いだから、お酒のお酌はしません”って言う意味なの」
「ほう、じゃあ、君もお座敷に行くのかい?」
おじいさんは言いながら、慌ててマッチの火をロウソクに移しました。“芸者”と言う言葉に惹かれたのです。
「そうよ、旦那さん、お詳しいのね」
「いやいや、詳しくなんかないけれど、この間さゆりという芸者に会ってね」
「さゆりねえさんに? ほんと?……まあ、」
さゆりの名を聞いて、女の子はビックリし、そしてぽろぽろ泣き出してしまいました。
「どうしたの? さゆりを知っているのかい? なんで泣いているの?」
「さゆりねえさんを知らない人はいないわ。写真も売り物になっているし、長唄のレコードだって出ているのよ。マッチの絵にもなったわ」
おじいさんは伏せているさゆりのマッチをそっと見ました。でもすぐ女の子に目を合わせて慰めようとしました。
「そうかい、さゆりはそんなに人気者なんだね。じゃあ、君はなんで泣いているの?」
「それは、私がこの間、さゆりねえさんに恥をかかせてしまったからなの」
「さゆりに? どういうことなのかな。良かったら詳しく聞かせてくれないかい?」
女の子はぐすぐす泣きながら、しばらく黙っていましたが、おじいさんが「内緒にするよ」と言うと、ようやく話し始めました。
「あのね、ほんとは言っちゃいけないことなの。内緒にしてね」
「もちろん、約束するよ」
「……この間、さゆりねえさんと一緒のお座敷に私も呼ばれたの。さゆりねえさんがお客さんの前で踊って、他のねえさんが長唄を歌って、三味線を弾いたの。私は鼓をうったの」
「鼓というのはその楽器かな?」
おじいさんは女の子が手に持ってみせた楽器らしきものを指さしました。どうやら小さい太鼓のようです。
「そうよ、肩に乗せて手でうつの。そしたら、私、これをうち間違えちゃって……そしたら、」
「そしたら? どうしたの?」
女の子はまたぽろぽろと涙をこぼし、言葉をつかえました。
「よしよし。泣かなくっていいんだよ。なに、楽器の演奏を間違えるなんてよくあることさ。君はまだ小さいんだし」
「そうじゃないの。私が鼓をうち間違えたら、酔ったお客さんが「さゆりが踊りを間違えたぞ!」って大声をあげて、さゆりねえさんを笑いものにしたのよ。違うの、間違えたのは私なのに。お客さんがあんまり笑うものだから、踊りも歌も半端で止まってしまって……」
おじいさんはその光景が頭に浮かんで、一瞬声が出ませんでした。
女の子も、あ〜っと声を上げていっそう泣いてしまいました。
「それは、ひどい。ああ、泣かなくていいんだよ。君のせいじゃない。それは酔ったお客さんのたちが悪いんだ」
「そうかもしれないわ。でも、さゆりねえさんは踊りを台無しにされたのに、笑いながらそのお客さんにこう言ったの。
「まあ、大変なお目利きさんに見つかりましたわ! 私、上手くごまかしたつもりでしたのに」
って言ったの。それで、そのお客さんにお世辞言って、お酌までしてご機嫌を取ったの」
「それは、くやしいね」
「ええ、くやしいわ。ねえさんはもっとくやしかったと思うわ」
「きっとそうだろう」
「でも、私、怒られなかったのよ。それでよけい申し訳なくて」
「それはね。きっとさゆりも小さかった頃、演奏を間違えたことがあったからだと思うよ。何でもはじめから上手な人はいやしないからね」
「そうなのかしら」
「きっとそうだよ。だからね、君もお稽古をしているうちにきっと間違えないようになるさ。それに、そのことはお客さんのほうが悪いんだからね」
「ほんとは、お客さんのことを悪く言っちゃいけないの」
「そうかい、そうかい。じゃあ、本当にこの話は内緒にしよう。安心しなさい」
「何だか、少し気が済んだわ。ありがとうございます、旦那さん」
女の子は涙をぬぐって頭を下げると、お座敷に出なきゃと言うので、そこで話はおしまいにして、おじいさんはロウソクの火を吹き消しました。
明かりが消えると、部屋は薄暗くなっていました。
でもおじいさんはただじっとして、今の話を思い返していました。
おじいさんは、はらわたが煮えくり返るような心地がしていたのです。自分のことではないのにくやしくて仕方がありませんでした。
(酔っ払いめ! さゆりを笑いものにしただと?)
許せなくて、くやしくて仕方がありませんでした。でも、さゆりのように酔ったお客さんを相手にしている人には、こんなことはきっとよくあることに違いありません。おじいさんはそう思い、やるせなく、いつもは飲まないお酒を飲みました。でも、ちっとも美味しくないし、気分が良くなりません。
(どうしたら、さゆりを慰められるだろう?)
そう考えても、何も良い案は浮かばないのでした。
結局その日も、また次の日も、おじいさんはさゆりのマッチを擦りませんでした。
ただ、お酒を飲んで、ふさぎ込んでしまったのです。