九、死(she)
人とは一体何なのだろうか。
生物として考えるならば、言語を操る霊長類。万物の霊長。
概念として考えるならば、社会的行為の主体。主体性を持って行動するもの。社会のホロン。
秋名ちゃんに指摘された通り、中身の無い私は本当に人と言っても良いのだろうか。
私を人と言っても良いのならば、先日から目撃する、もう一人の『私』も人間であると言わざるを得なくなる。
あのような明らかに人間で無いものを人間と言わねばならない事は、はっきり言って屈辱である。
しかし、いくら考えたところで、その答えは出ないだろう。
特に人でなしの私には。
ただ一つ、この場で言えることは、大樹氏はやはり人間では無かったということだ。
この歳で数え切れない程の死体を見てきた私だからこそ断定できる。
人間はあんなに壮絶な死に方はしない。
翌朝、夏にも関わらず、すでに冷たくなった大樹氏を最初に発見したのは、やはりと言うか何というか、私だった。
時間は八時過ぎ。朝食を頂いた後、春子さんからすでに儀式が終わっているはずだと聞いた私と赤目は、この島に滞在する目的を果たすために社へと向かった。
一晩続く儀式の後である、本来なら大樹氏の体力の回復を待ってから、改めて伺うのが礼儀であろうが、昨日、大樹氏が最後に残した言葉が耳に残り続ける私には、一刻一秒が惜しかった。
大樹氏はどういう意図で『自分が死ぬ』と語ったのだろうか。それは真実なのか。それを確かめたいという逸る気持ちを抑えることが出来なかった。
異変は社に入る前からあった。
春子さんが神木であると語っていた、大木に巻かれていた注連縄が解かれていた。
解かれていたという表現はあまり正確では無い。引き裂かれたというか、千切られたというか。その注連縄からは、そういう荒々しさを感じた。
昨日、その枝に腰掛けていた『私』との関連をどうしても疑ってしまう。
ただ、ここまでは特段に害があったわけではない。せいぜい不吉だなと感じる位のものだ。
だが、社に向かって歩を進める毎に、違和感はより濃いものになっていく。
違和感、いや予感と言った方が正しい。
他の何とも違う甘い空気。
人が死んだ直後独特の特有の雰囲気。
それが社を満たしていた。
それが私の五感に告げていた。
だから、本当のところは、社の戸を開くまでもなく、その先に広がる景色は予想出来ていた。
そしてその先の光景は、私の想像と寸分違わぬもの。
扉の先で、大樹氏は死んでいた。
私が彼女を、いや『それ』を大樹氏であると判別できたのは、偏に場所が社の中であるという事実、その一点に他ならない。
きっと私でなければ、横の赤目はもちろん、それが肉親である春子さんでも、小夏ちゃんでも、秋名ちゃんでも、枝葉氏でも、例えそう、それが神様であろうとも、『それ』が大樹氏であろうとは思いもよらないだろう。そう考える事、それだけでも、冒涜的であると感じるほどには、大樹氏は陵辱されきっていた。
そして、そう思える時点で、その発想が出来る時点で、きっともう私は人間じゃないのだろう。
そんな人間の尊厳、人間の何たるかを私に考えさせる程には、大樹氏の死に様は常軌を逸していた。
腕は折られ、足は捻じ曲げられ、長く艷やかであった髪はざんばらに切られ、内臓は全て引き出され、てらてらとした輝きが目に鮮やかすぎて痛いくらいだ。
最初に感じた、その周囲を塗り潰さんとする大樹氏の濃い気配は霧散したが、代わりに赤よりも紅い、今まで見たこともない濃い朱が、白木の床を染め上げ、室内を満たしていた。
そもそも大樹氏が、うつ伏せに倒れているのか、仰向けに倒れているのかすら、初見では分からない。まず首は関節の限界を無視し捻じり回された上で、胴体とお別れしてしまっている。そしてたわわに実っていた双房は無残に切り取られている。この二点が大樹氏の前後をひと目には確定させない。
なにもかもが荒唐無稽な死に様である。
後述する二点が無ければ、私も人の仕業であるとは思わなかったかもしれない。森の獣にでも襲われたと言った方がよっぽど納得できる。
まず一点は、これだけの破壊が繰り広げられておりながら、私が死因ですと主張するかのように、矢が白々しく胴に突き立っていることだ。おそらくは御神木に括られていた破魔矢だろう。流石に獣に弓を引くことは不可能だ。
そして二点目。大樹氏の目が、『見通し』が出来ると言ってのけたその両目が、繰り抜かれて只の空洞となっていた。
今ではその双眸には最初に見た強さも、最後に見た優しさも、そのどちらも見る事が出来ない。
空洞。
真っ黒。
他人の目は、自分を映す最も身近な鏡である。
何も無いその両目こそが、ようやく本当の私を映し始めたようで、私には直視できなかった。
まぁ色々と大樹氏の有様を詳細に綴った所で、私の中の総括を述べておこう。
私が大樹氏の亡骸を見て思うことは唯一つ。
またか。
そして、宗教裁判の幕が開ける。