二十、終わり(始まり)
「ハァ…ハァ…ハァ…」
私の息遣いだけが、人気のない港町にこだまする。
赤目の巨体を抱えての下山は骨が折れた筈だ。そういう言い方をするのは、私には港に着くまでの道程の記憶が全く無いからだ。背中から伝わる赤目の体温は燃えるように熱い。まるでカチカチ山のたぬきにでもなった気分だ。これから乗る船が泥船で無い事を祈るばかりだが、例えそれが泥船で有ったとしても今の私には選んでいる余裕は無い、迷わず乗り込むことだろう。それほどまでに赤目の容体は逼迫している。
果たして停泊していたのは一隻の船。例えこれが柊家のもので無かったとしても最早関係無い。
どうしてここまで体力が保ったのだろうか、私のどこにこんな力が隠されていたのだろうか。どう考えても私の膂力では到底不可能なはずの運動量。ここまで来れたことが既に一つの奇跡。
だから、船に乗り込んだ瞬間に足腰一つ立たなくなるのも当然のこと。
「くそ……」
エンジンルームまではまだ遠い、第一本島まで集中して運転を続ける事が出来るかすら定かではない。
だが、諦めるという選択肢は私には無い。私は這ってでも進むのだ。醜い芋虫のように這って進む。蔑まれることには慣れている。
ここまで赤目を担いで来るという奇跡を私は起こした。
ならば、そこに救世主が現れるという第二の奇跡が起きても、不思議では無い。
「おや、遅かったね。お疲れ様。後は僕に任せるといい」
そこには当たり前のように『私』が居た。
やっぱり私よりも頼りになる奴だ。
これなら安心して後を任せることが出来る。
「……お待たせしたね。後は甘えさせてもらうとするよ。全部あなたにお任せする。もう本当に疲れてしまったよ。昨日からほとんど寝ていないんだ。いや、考えてみると生まれてこの方、安眠というものをした記憶が全く無い。だけど今なら、なんだか凄く深い眠りにつける気がする。少し横になってもいいかな」
「もちろんさ。君は十分に頑張った。今日まで本当によく頑張ったと思うよ。普通ならここまで辿り着く事すら出来なかった。普通の人の倍はゆうに努力してきたのだから、これ以上頑張る事は無い。ゆっくりとお休みよ。……けれども、その前に一つだけいいかな?」
「なんだい? 正直もう目を開けている事すらしんどいんだけれども。瞼を一度落としたら二度と上げる自信は無い」
「いいよ、そのままじっとしているだけでいい」
『私』はとても優しい声で話しながら、更に優しい手付きで私の目を覆う。
「なにを……?」
「目を閉じていてくれ」
不意にとても暖かいものが私の唇に触れた。
とても、とても暖かいものだった。
日向よりも暖かく、花のように柔らかく、
泡沫のような儚さを感じさせる不思議な感触。
私はその正体を知らない。
だけれども、
だけれども、それには人の素晴らしさの全てが詰まっている様に思われた。
「……うっ……うっ……」
気が付けば、私は泣いていた。
「君も嬉しい時は泣くんだね」
「嬉しい?」
私は今嬉しいのか? 自分の感情さえも把握できない。
今頬を濡らしているものも本当に涙なのだろうか。まるで血のような熱を帯びている。
「君の大切なものを返しておいた。本当は僕が貰おうと思っていたんだけれども、どうやら僕の手にすら余る代物のようだ。それは、君自身とも言えるその呪いは、君が持っていってくれ」
私の身体から抜け落ちていた大切なものが戻ってきたような、不思議な感覚がある。
一種の安堵と、言い知れない絶望が私の胸に去来する。
何もかもが分からない。自分の感情に整理が付いていない。顔と同じようにぐちゃぐちゃと様々なものが渦巻いている。
それに反して、不思議と感じるものは清々しさ。私の心の奥に何かがストンと落ちたような、詰まりが取れたような妙な安心感。
泣きながらも、きっと今の私は笑顔なのだろう。
心からの笑顔なのだろう。
願わくば、目の前の『私』の様に、綺麗に笑えていますように。
これが私の最後の表情なのだから、好きな人には、一番素敵な表情を見せておきたい。
「それじゃあ、またね」
「ああ、また」
さよならは、言わなかった。
この気楽さこそが、本当のお別れの挨拶だろう。
波の音だけが静かに聞こえる。
意識が潮風に溶けていく。
この瞬間、私は世界と一つになっていた。




