十八、友愛(You=I)
それからの夜が明けるまでの束の間の、永遠とも思える時間を、私と『私』は二人で話し合って過ごした。
本当なら話したくもない大切な過去から、メロスとセリヌンティウスのどちらが大変だったかとか、芥川の邪宗門についてどう思うかといった、どうでも良い他愛のない話まで、それこそ久しぶりにあった幼なじみの様に、時間が立つのも忘れて話し合った。
これだけ満たされたのは一体何時ぶりだろうか。
いや、おそらく初めてだろう。
だから何かと比較するという事が出来ない。
だけれども分かる。
私の人生に、これから先も含めて、これ以上に幸福な時間は訪れない。
予感がする。
悲しい予感だ。
だけれどもこれで良いのだ。
私はこの瞬間のために生まれてきた。
これは予感ではなく確信だ。
気が付けば、私は『私』と抱き合って寝ていた。
まもなく夜も開ける頃だろうか。
遠くでセミの鳴き声がかすかに聞こえる。
柔らかい風が私の素足を軽く撫でる。
何となく寂寥感を感じさせる薄明かり。
これは昔見た景色に似ているからだろうか。
早くに起きた朝は、何時も太陽が登るまでの長い時間を独りで過ごしていた。
だから寂しさを感じるのかもしれない。
だけれども今は寂しさは無い。
世界が私を祝福していた。
ガタリと音がした。
秋名ちゃんだ。
不思議なもので暗闇の方が普段より音が大きく聞こえる気がする。
「何を……して……いるのです……か……?」
今はこちらの秋名ちゃんか。
何をしているのか……か。
見て分からないのだろうか。
分からないのだろう。
愛し合っていると言ったところで、まだ秋名ちゃんは、愛を知る年齢では無いだろう。
こればかりは言葉では伝えられない。
こればかりは説明のしようがない。
「それ……は、人間…では、ありま……せん」
それとは、『私』の事だろうか。
他の人にも見えているという事は、どうやらちゃんと存在しているらしい。
とりあえずは一安心だ。
せっかく出来た友達が、脳内だけの存在だというのでは、余りにも救われない。いい加減私だって救われたいのだ。
「分かってるよ。こんなのが人間の訳が無いだろう」
「おいおい、こんなのとは随分だね。一応これでも君の友達なんだよ」
いやいやそうだった。慣れない友達なものだから、距離感というのか、接し方というのか、なんだか掴みきれない。
だけれども良いじゃないか。こうやって軽口を叩き合うのも何とも友達らしい。
「は……やく、はな…れて」
「なぜ、離れなければならないんだい?」
「そ……れは、と……ても、きけん」
危険ねぇ。
今更だねぇ。
「私が忠告したはず」
お、そっちが出てきたか。
忠告?
ああ、そう言えば、絶対に『私』の力は借りるなとか言われたっけ。
「それは、あなたと入れ替わろうとしている」
入れ替わる?
私と?
「それは昔からこの島にいる神、『見通し』を授ける私達の神。それがあなたに近付いたのは、優しくしたのは、あなたのことを知って入れ替わるため。あなたの全てを知られた瞬間、きっとそれはあなたの存在を乗っ取る」
横を向くと、いつの間にか『私』は姿を消していた。
秋名ちゃんに向き直る。
『私』と私とが入れ替わる?
『私』が私に成り代わろうとしている?
何を今更。
「知ってるよ」
そんなこと、誰の目から見ても明白。最初から分かり切っていた事ではないか。
そんなこと、春子さんから逸話を聞くまでもない。
本音を言えば、私はここに至ってもまだ『私』を神様だとは認めてはいない。しかし、秋名ちゃんの弁の通り『私』が神様だったとしても、人間の、しかも自分と同じ姿形を採るような存在が、まともな存在な訳がない。
自分と同じ存在が現れて、まず疑うべき事は決まっている。自分という存在の乗っ取りだ。
『私』の正体が何かは分からない。だけれどもその本質は、ドッペルゲンガーのそれと相違は無いだろう。
『ドッペルゲンガー』
もう一人の自分が現れる『現象』。
バイロケーションとしばしば混同されるが、自分の意思の有無により明確に区別される。
心理学・精神医学でもオートスコピーとして認知、研究される実在する『症状』だ。
例としては、エミリー・サジェ事件が有名だろうか。
エミリー氏は優秀な教師だった。しかし彼女は実に二十回以上、教職を追われることになる。
その原因は単純にして明解。彼女が二人存在してしまったからだ。
当然ながら、彼女が双子だったというオチでは無い。それにも関わらず、彼女は同時に別の場所に存在していることが目撃された。
フランス語の授業をしながら、別の教室で数学の授業を行うといった事は日常茶飯事。ついには同じ教室、同じ瞬間に、教室の生徒全員に、二人のエミリー氏が目撃されるにあたって、ついに疑いようの無い『事件』として認知されることになる。
その他にも、有名なところではアメリカ合衆国大統領であるエイブラハム・リンカーン。ロシアのエカチェリーナ二世。日本では芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーと遭遇している。
その性質、行動は千差万別だが、その多くは同じ結末を迎える事になる。
それは、当人の死だ。
ドッペルゲンガーに出会った者の多くは死に至る。
その原因は解明されていない。
だがきっと、私も同じ道を辿るのだろう。
だけれども別にそれでいい。
「それで良い訳が無いでしょう!」
秋名ちゃんが激高した。
「何が良いのですか!? あなたが消えるのですよ!」
「秋名ちゃんは、私に消えて欲しかったんだろう?」
「ッ!?」
「心配しないで。ちゃんとこの事件は解決してみせるさ」
「そう言う問題では!」
「そういう問題だよ。これは私の問題だ」
そんな目をしないでくれ。
その目は私に向ける目では無いだろう。
そんな縋るような目は、私に向ける目ではない。
いつも通り憎しみを、憎悪を私に向けて欲しい。
それでこそ未練が無くなるというものだ。
それこそが、私に対する手向けだ。
「秋名ちゃん、ありがとう」
「何を……」
それは、私の本心からの言葉。
「考えてみれば、秋名ちゃんだけだったね、この島で私の心配をしてくれたのは。本当にありがとう」
言いたい言葉が、ついに言えた。
「ふざけないでください! もうあなたは消える必要なんて無いんです! あなたも薄々気が付いているんでしょう? あなたの呪いは、すでに神に取り込まれました! もう、あなたは呪われてはいないんです!」
それは、何となく察していた。
だからあの日、春子さんも小夏ちゃんも秋名ちゃんも、私と一緒に居ても誰も不幸にならなかったのだ。
「私の施した処置は、本来ならば、この島にいる間だけ、あなたの呪いを抜き取る簡易的なものでした。しかし、よりによってハヤマ様はあなたを選び、あなたの呪いを掠め取った。あなたが誰も呪わなくなった代わりに、これからハヤマ様に選ばれた人間は――好かれた人間は、必ず呪われることになった。だからあなたは、今すぐハヤマ様から離れなくてはなりません、このままでは必ずあなたは死にます」
秋名ちゃんは私に告げる。
私は生きていても良いのだと、生きねばならないとそう告げる。
「早く逃げなさい! あの男のことは私がなんとかします! だから、まず、あなただけでも先に逃げなさい! 先程の話でわかったでしょう? 大樹が死んだのも、あの男が倒れたのも、あなたのせいじゃない! あなたが取らねばならない責任なんて、負わねばならない義務なんて、この島には、この事件には、何一つ無いんです!」
血を吐くような秋名ちゃんの言葉。
それは間違い無く、私を慮ってのもの。
しかし、その時私は、
人でなしの私は、
まったく別の思考に辿り着いていた。
秋名ちゃんのその言葉で、不意に、全てが繋がった。
そうか、そういう事だったのか。
この事件は、そういう絡繰だったのか。
だから、彼女は……。
ははっ、私も舐められたものだ。
いいだろう、呪いが無くなっても、私は何も変わらないという事を証明してやろう。
丁寧に積み上げられた積み木を跡形もなく崩してみせよう。
その目論見を、全て台無しにしてやろう。
社に朝の光が伸びてくる。
薄暗闇に色がつき始める。
清々しい朝だ。
世界はこんなにも色に満ちている。
世界はこんなにも美しい。
私の人生で、最後の朝だ。
さぁ、全てを精算しよう。
「秋名ちゃん、申し訳ないけれども、皆を集めてくれないかな?」
「どうして!? そんな事をすれば、あなたはこの島から逃げられなくなる!」
「逃げる必要なんて無いよ。そう、私のせいでないのなら、当然、この事件には犯人がいる。その犯人を吊し上げて、私は堂々とこの島を出るよ」
「分かったんですか!? 真相が?」
「いいや分からない。何も解明できていない」
「では何故?」
「大丈夫だよ。それでもこの事件を解決はしてみせる。任せて欲しい」
私のその言葉に、秋名ちゃんは渋るような顔をする。
しかし、しばしの逡巡の後、彼女は意を決したように私の顔を見つめ返した
「……おっしゃる意味がよく分かりません。しかし顔を見れば分かります。どうやら捨て鉢になった訳ではない、勝機は有るようですね。良いでしょう、任されました。それでは一時の後に、改めてこの場で」
さて、ついでに私の人生も解いて明かしてしまう事としよう。
願わくば、これが私の最後の不幸でありますように。




