古本、唾液、背景。
夜十時ともなると山からの冷気が窓から入り部屋は大分涼しくなった。網戸から吹き込む微風は僕の足下をうねりながら通って少々肌寒い。
少し前、宿題が終わって、テレビでも見ようかとリビングまで降りたのだが、ザッピングをしてもこれといって興味を引く番組も無かった。諦めて読みかけの本を手に取る。
この本は古本屋でシリーズが中途半端に抜けている状態で袋に入れられて、店頭に放置してあった物だ。
カバーがなかったり、スピンは切れていたりしているので店主の爺さんはもう捨てるつもりだと言っていたけれど、なんとなく興味が湧いたから、くれと言ったら百円で売ってくれた。
投げ売りみたいなもんだ。
内容はファンタジーだが伝奇だがよくわからない感じで、面白いような気がするし、しない気もするような話だ。まあ、娯楽で本を読む時は基本斜め読みだからあんまり内容は入ってこないけれど。
テスト返却週間は楽だ。教師も採点疲れを起こすのか、はたまた生徒の自主的なテスト復習にかけているのか、授業内容は薄く、宿題は最低限。
多分後者が正解なのだろう。けれど、教師の行動に他意を読み取って動くまで僕は真面目ではない。だから、基本的にストレス発散に休むことを優先する。もしかしたら休めという意味も職員室にはあるのかもしれない。全員では無いにしろ。
僕は手の中の本をだいたい一行起きに読み進める。
特別気に止めなくていい事が無い中、適当に本を読み流すことは最高だと思う。
否、気に止めなくてはいけな事とはあるか。
余のこと。
あいつもやっと宿題を終えたようで今はシャワーを浴びに行った。耳を澄ませばカエルや虫の鳴き声に混ざってシャワーが床に落ちる音がサラサラと聞こえる。
まあ、入浴中の女子のことを考えるのも少々変態的な行為である気がする。僕はまた本に目を落とし、読書に集中する。
そういうことにも随分慣れたものだ。
久方ぶりの浴衣は少々なれない感じがするけれど、帯をせずに男紐と男締で止めてあるだけのやわらかい着心地は快い。なんだか夏が来たという気持ちになる。
少しするとシャワーの音が止まって、それからまた少しするとドライヤーのモーター音が聞こえてきた。
余が風呂から上がったようだ。
なんだかんだ考えないようにしても音は耳に入ってくる。
先程からシャワーとか風呂とか水の話を考えていたからか喉が乾いてきた。
うん。自分で取りに行くほどでもない。余が来たら頼もう。あいつは風呂上がりにお茶を一杯飲む習性がある。
ドライヤーの音が止まり、ガチャガチャと片付けの音が聞こえたあと、廊下を歩く音が近づいてくる。
おお、丁度いい。
「おーい。余、お茶とって。」
「はーい。」
余はすぐにそう答え、冷蔵庫の扉の開閉音をたてた。
「はい、どぞ。」
一人暮らしや二人暮らしには広すぎるが、一般の範疇を超えていない程の家だ。キッチンとリビングも近い。余はすぐに僕の後ろまで来ていた。
後ろを向くと、余は左手でお茶を差し出しながらもう一方の手で自分のグラスを口に運んでいる。
その余はまだ少し髪が湿っていて艶がある。風呂上がりの上気した頬は優しく白桃のように柔い赤みを帯びている。シャワーを浴びていただけなのに少しのぼせたようで目尻は下がっていて蕩けた表情だ。
余も衣替えをしたようだ。昨日までのだるだるのスウェットではなく、甚平を着ている。胸はほぼ無いに等しいが、身長が女子にしては高く細い体の余が着ると、萎びたスウェットでもある程度の見栄えは良かったが、やはり、それとこれは違う。去年、僕の浴衣に触発されて同じ衣料スーパーで買ったその甚平だ。華美なデザインの女物ではなく無骨な男物を買ったため少しだけ大きい。まあ、キャピキャピした女物より似合うと思うけれど。というか、女物はレースとか付いていて寝間着には適さない。
そのままでは余には大きかったので、一応余自身が随所を摘み一回り細くしてあるが、それでも痩せぎすの余の体には合わず、少々着崩れている。
まあ、余がこの着方をするとそれが正しいもののように思えるものが美人の凄まじい所か。
僕がそんな余の衣装に驚き、面食らっていると余は不審そうに僕を見て小首を傾げる。
「ありがとう。余。」
ぼくは余からグラスを受け取る。
「いえいえ。」
殆ど条件反射のように頷いた余はぼーっと僕の隣に腰を掛け自分のグラスに再度口を付ける。
余の白く、か細い喉がとくとくと脈を打つ。
見ていると毒だ。
僕はそう思って左手で本をガラス製のローテーブルに置き、右手でお茶を流し込む。
自分まで火照ってしまった体がスーッと冷えていく。
余はテレビを付けて一通りザッピングをする。僕と同じく興味が湧いたものは無いらしい。すぐ画面を暗くしてしまった。
「本、何読んでるの?」
暇を持てあましたようで、僕の置いた古い文庫を手に取る。
「この前買ったやつ。ほら。」
「ああ、あの古本屋さんで投げ売りしてたやつ。」
余はそう言いながら破れそうなページをペラペラと捲る。その度に埃が舞う文庫に嫌気がさしたようで元の所に戻した。
「甚平にしたんだ。」
僕はなんとなくそう言う。
「うん。きーも浴衣だね。」
余はもう一口お茶を口に含んでからそう答える。
「まあ、暑くなったしな。」
「うん。今日の体育は死にそうだった。」
余は長い髪を撫でながら言う。元気そうにしていた余も暑かったようだ。
「ああ、サボろうかどうか真剣に悩んだよ。」
「きー、途中でサボってたじゃん。」
「ばれたか。」
余も僕がトイレでサボっていたことに気づいていたようだ。
「そういやさ。余。」
僕は余に修学旅行のパジャマはどうするのか聞こうと思ったが、半袖の甚平を着るはずないと思い直して聞く意味の無い言葉を止めた。
それにまた、旅行の話に戻す必要は無い。変に刺激するのは得策ではない。
「いや、何でも。」
余はまた首を傾ぐ。今度はなんだか不満そうだ。
話を、なにか話を繋がないと。
「それよりさ、甚平、久方ぶりだな。」
とりあえず僕はまた同じ話を余に振る。
「うん。いいっしょ。」
余はそう言って体を少しこちら側に直って、僕の顔を覗き込むように上目遣いをする。
慣れない男子だったらこの仕草でイチコロだ。
その上、少々その余の体勢には不備というか、誤算というか、失敗があった。男からしたら嬉しい失敗が。
余は、身長は高く細い。だから、スタイルがよく見られがちだ。けれど、実際は痩せぎすで、殆ど胸も無い。
そんな余がサイズの合わない甚平を来て前屈みになれば、大きく開けてしまう。まあ、それで何が問題なのかと言うと、見えてしまうのだ、大事な部分が。今、僕の視線からだと頂までバッチリとささやかな膨らみが見えている。風呂上がりだから下着は付けていないようだ。
僕も健全な男子高校生、見えた瞬間は「おっ」と思ったが、なんだかすぐに申し訳無い気分になる。
「見えてる。」
僕は理性をフル活用してそう忠告する。
余は僕の言葉に、にやっと悪そうな笑みを返すと、すくっと立ち上がった。それから股を大きく開いて座っている僕の目の前に移動して僕の肩に手を置き前のめりになる。
その姿勢では僕が大きく視線を外さない限り、視界に入ってしまう。
「どう。」
余は低く艶めかしい声で言う。
こいつは何がしたいのだろう。
誘っているのか。乗る気はないけれど。
まあ、なんとなく今日は「発生」の予感がしていたので僕は落ち着いている。
「かくしておけ。」
余は僕の注意も何処吹く風だ。
「エロい?」
いえ、全く。
僕は余の奇問を黙殺して余の共襟を閉じて摑む。
「まあ、きー、見慣れてるもんね。」
余はどこか上から目線だ。余の言によると僕と余がそういう関係に思えるがそれは違う。
ただの虚言だ。戯言でもあるかもしれない。
「まあな。」
特別に反抗をする気も無いので適当に答える。
「ふーん。」
余は勝ち誇った顔になる。その声はどこか高飛車だ。そして、いつの間にか移動させていた手の親指は、僕の襟の中に入っている。
僕は余の甚平を抑えているし、余は僕の浴衣に手を掛けている。
訳の分からない体勢だ。
「ねえ、きーも脱いでよ。」
少しずつ僕の襟を開きながら余はそう言う。
「僕もって、まず、お前も脱いでないだろ。」
「へへ、いいじゃん。」
にたっとした笑みを浮かべながらそう言うと、余は僕の浴衣をするすると落としていく。
もう、逆らわない方がいいだろう。
今の様子は「発作」手前と言ったことか。
僕は諦めて甚平をつかんでいた手を離す。余のしたいようにさせているとすぐに肌脱ぎになった。余の胸はチラチラと垂れた長い髪が揺れる度に見え隠れするが、もう僕は気にする気にもない。
肌脱ぎになったことで晒された僕の傷はまだ新しいのは赤くなったり瘡蓋が付いていたりするけれど、殆どの傷跡は白くなって少し盛り上がっているか、メラニンが残って茶色くなっているかのどちらか。痛みも無い。その中で白いものだけがリビングの証明に照らされててらてらと光を反射している。
余はそれらを愛おしそうに眺めて恍惚の表情を浮かべる。
「ねえ、脱がせてよ。」
余はそうに言う。
耽美だ。
僕はその言葉に従って腰辺りの蝶々結びを解くと余は自分から手を後ろに傾けた。すると、甚平の上衣はすっと下に落ちた。
その仕種は過激で、煽情的なものだったがしかし、官能的という程乱らなものではなかった。
美しい。
そして、また、上半身を露出した状態で異性と向かい合うという、普通ならば嬉しい状況になる。健全に成長した多くの青少年が憧れる、一度はと心に思う場面だ。
しかし、今、この状態を正しく説明すると全ての人がそういう気持ちにならないと断言出来る。
何故ならば余の体は、痩せぎすでレントゲンのように骨が浮かび上がっているからだ。長袖長ズボンに隠された秘密。
否、そんなのは決定的な理由ではない。
それくらいならば、気にしないことも出来る。
長袖長袖長ズボンにはもう一つの秘密がある。
余の、余の体に傷があるのだ。それがこの状況の様相をより一層おかしくしている。
確かに僕にも傷はある。
けれど、余のそれはまた別物だ。
余の体には打ち身、擦り傷、それから切り傷が無数に、所狭しと犇めいている。おそらく、傷の無いところは殆どない。
否、どこまで傷で、傷跡で、どこまでが普通の肌なのかよく分からなくなっているというのが正しいか。それに肘や、胴の一部では青あざの上に擦り傷が重なっていたりもする。
そして、左腕には手首から二の腕の中ほどにかけて血管に垂直な傷が平行に並んでいる。赤、白、茶の多彩な線分、それから肥厚性瘢痕の盛り上がりが余の左腕の内側をおぞましいものにしているのだ。
それらの傷が余の体から人間性を奪い、人並みよりも整った顔立ちと線の細さも相まって、余が尋常ならざるものであると強調している。また、今の余のゆったりとして、つかみどころのない仕種言動は余の異常性を極端に引き出す。
否、異常なのは余だけではない。多分僕もそうだ。こんな異常な状態に殆ど順応しているのだから。
余は僕の腿の上に跨って、向かい合わせに座る。それから余は、唯一まっさらな右腕を僕の首に手を回して抱き着いてくる。
「んなあ、余、傷、少し治ったな。」
僕は余の方を見ずに向かいの壁の方を、焦点を合わさずに見つつ呟く。
余は僕の背中を撫でて傷を弄っている。
「うん。だって、最近、お母さん、会ってないから。」
余は僕の肩の肥厚性瘢痕に目を着けているらしく、ぷにぷにと引っ掻きながら答えた。
「ああ、そういうこと。」
確かに赤い打ち身はもうなくて、殆どが治りかけの青痣だ。
「多分、一週間くらい。」
余は僕の上半身の傷跡を肩から順番に撫でていく。
「きーも、だね。」
余は自分の体を僕の体に押し付け、耳元で囁く。
「きーも少し治った。」
そりゃ、余の「発作」が五日前だからそんなに深くない傷は殆ど治るだろう。
余は僕の左の脇腹辺りの瘡蓋を舐め始める。その舐め方は僕の肌に舌を擦り付けるようなしっかりとしたものだった。舌のザラザラとした感覚が僕の肌を伝った。
そうやって必死に動く一方、余の目はただ眠そうで、光が無い。
瘡蓋はいつの間にか取れて少し血が滲み出てくる。
余はそれを舐め取りながら僕の左腕の瘡蓋を白魚のような右手でガリガリと剥がしだす。その爪の間には僕の瘡蓋や血が入り込んで桃色に染まっている。白い指と赤い血のコントラストが異様に映える。
余は流れ出た血を指に付けると、自分の指をしゃぶり出す。
それから風呂上りのときよりも頬を紅に染め恍惚とする。
血の量は微量、傷付くことが慣れたせいで痛みも無い。
少し流れたその僕の血を見て余は嬉しそうだ。
余の指を舐める仕種は小さい子供を見ているよう。僕を仕方の無い気持ちにさせてくる。
そんな余を眺めていると余が目を覗き込んでくる。
今の僕は余の目にどう映っているのだろうか。
そう、余の目を覗き返す。
すると余は照れたようにふふっと笑った。
僕はどう答えていいかわからず、余の頭を撫でてそれに応える。
それは「発作」の時とは違う。
普段の余が恥ずかしそうにした時と同じものだ。まだ余は正気だ。今日のこれくらいでは「発作」とは言えない。まだ大事ないようだ。
少し不安になっているだけだ。
余はまた引っ掻いたら血の出そうな傷を触り出す。
「ねえ、きー、痛そう。大丈夫?」
突然、そんなことを宣った。
その声は心底、心配そうなものだった。出ている血を見て上気していた顔が少々青ざめている。
「ああ、大丈夫、大丈夫。これくらいすぐ治るよ。」
僕はそう答える。
「ほんと?」
僕に傷を付けたのは余なのにしつこく心配してくる。
今は「発作」と普通の中間くらいか、両方に揺れている。
「ああ。大丈夫。心配してくれてありがとうな。心配してくれて。」
僕は余を責めることなど到底出来ず、何故か礼まで伝える。
やはり、僕も十分狂っている。
「そっか。ならいいや。」
今度はさっきまでの殊勝な態度からは一転して投げやりに答え、僕に体を寄せてくる。
それから鎖骨の辺りで垂れていた血をひと舐めして満足そうに僕に抱きつく。
肩越しに見える余の背中は所々変色している。これだけ余が傷つけられているのに致命的なものが一つもないのが不思議だ。否、そうされているだけか。
余が落ち着いて、僕の中で少しずつ力が抜けていく。
それにほぼ比例して、余の状態に腹が立ってくる。余にではない。余をこうさせている原因にだ。
僕は余の背を、ガラス細工を愛でるように優しく撫でる。
「私、大丈夫、かな。」
余は寝言のようにそう答える。
それは多分、寝言ではない。意識あっての言葉なのだろう。悔しそうな、申し訳なさそうな声がそれを物語っている。
「ああ、大丈夫、大丈夫だよ。大丈夫、大丈夫。」
僕は余の耳元で静かに答えて慰める。
それからすぐ、余はゆっくりと眠りに落ちていった。僕の項に余の吐息が規則正しくかかるようになる。それと同じペースで余のささやかな膨らみが僕の薄い胸板をゆっくりと押す。
完全に寝付いたようだ。
僕は一度余りを抱き上げて二人がけのソファーに寝かす。平均よりは高い身長の余。ソファーから足がはみ出している。そのせいか少し甚平のズボンがずれて薄いピンクの下着がちらっと見えている。
僕は余の体の所々に付いた血液をウエットティッシュで拭い、甚平の上衣を着せる。
結構、乱暴にしているのに余は起きない。まあ、本当は目覚めているのかもしれないけど。僕にされるがままだ。
僕はもう一度抱き抱えて二階の余の部屋のベッドに連れていく。やはり起きない。いつもこうなったら朝まで余が起きることはないが、狸寝入りのような気もする。
ムニっ
気になったので胸を押してみた。余はほかの所を触られた時と同じような少し邪魔そうに動いたがそれだけだった。
やっぱり寝ているのかな。
ベッドに寝ている余は半袖の甚平しか着ていない所為で腕や脚の傷は露出している。
風呂上がりに僕が余を見てドキッとしたのは、この所為か。今更ながらそう気付く余の風呂上がり何て見慣れたものだ。最近までジャージで隠れていた傷が見えて驚いたのだ。
僕はリビングに戻り、余に舐められてべとべとになった体をウエットティッシュで拭く。瘡蓋を剥がされた傷からもう血は出ていないが一応消毒する。すごく沁みた。
余の持ってきたお茶の残りを飲む。
さっきは余に「大丈夫」と言った。否、ずっと言い続けている。昨日も一昨日もその前もだ。どこからどう見ても「大丈夫」何て言葉に理由なんてない。けれど、もうそれはただの合言葉になっていて、そうとしか僕たちの間では言うことが出来ない。
とりあえず、大丈夫と言うしか無いのだ。他にどうすることだって出来ない。
僕には余の問題を解くこと何て出来ないし、余はそれを望んでいない。だから、二人で耐えるだけなのだ。
僕は余が狂った時、相手をすることしか出来ないのだ。否、狂っているのは僕の方なのかもしれない。だって余りが狂気に支配されるのは僕と二人の時だけだからだ。
もう、狂っているのが僕なのか余なのか、二人ともなのか、それとも僕らの関係なのか全く分からなくなっている。
僕はやっぱり唾でべとべとする体が気になってもう一度シャワーを浴びることにした。
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