魔女と愚者
伽耶が朝霧の部屋に足を踏み入れた時、メフィストフェレスはその場にいなかった。二人でやってろと言わんばかりに姿をくらませた。朝霧は内心、安堵した。朝霧の母は伽耶を見て大仰に喜び、歓待した。予め朝霧から伽耶の来訪を聴いていた為、ケーキと紅茶の用意も怠りなく、朝霧の部屋に運んだ。
ガトーショコラとショートケーキ、どちらが良いかと朝霧が伽耶に尋ねると、伽耶は朝霧君が好きじゃないほう、と答えた。朝霧は微苦笑してショートケーキを伽耶に譲った。女子はそちらのほうを好むかと考えたからだ。本当は、朝霧はガトーショコラよりショートケーキが好きだ。つやりとした苺の赤を、伽耶が齧るのを見るともなしに見てしまう。
伽耶は慎ましくケーキを食べながら、部屋にある物について朝霧に講釈を頼んだ。
きょと、きょと、と首を動かす様子が小鳥のようで愛らしい。
「月球儀なんて初めて見た。これは?」
「水時計」
「綺麗ね」
朝霧のコレクションの一つ一つを認めて微笑んでくれる伽耶が、朝霧は嬉しかった。紅茶も飲み終えた伽耶は朝霧の机上の鉱物にも興味を示した。
「白鉄鉱、天青石、ああ、それはダイアモンドだよ」
「ダイアモンド? 灰色なのに?」
「ダイアは石墨と同じ炭素から出来てるからね。でも炭素原子の配列が石墨よりずっと緻密だから、真っ黒で柔らかい石墨とは全然、違うんだ」
「天青石って?」
「ストロンチウムの鉱物。ストロンチウムは金属の一種で、ポーランドでは天青石と硫黄が組み合わさった物が産出される。硫黄はほら、その横にある黄色いの」
伽耶は朝霧の説明の一言も聞き漏らすまいという表情で真剣に聴き入っている。朝霧は少しばかり気恥ずかしい思いで講釈を続けた。
次の週末には二人で公園に出かけて、伽耶の作った弁当を食べた。春の陽射しは麗らかに照り、雲雀の声が時折、聴こえた。伽耶も朝霧も喧噪を苦手としていて、行きたいところが互いに抵抗のない場所であることが多かったのも、二人に幸いした。
回る時の歯車は、それでも二人を放ってはおかなかった。
オレンジ色のベリーショートの髪の女子生徒を見た時、雨梨ことエリヒトーの綺麗な眉がひそめられた。その女子はエリヒトーの視線に気づくとにやりと笑った。どこか淫靡で、退廃的。それでいて目の離せない魅力ある笑みだった。
放課後の教室で、エリヒトーは糾弾の声を上げた。
「なぜお前がここにいる、バウボ」
猥褻の魔女と名高いバウボの名で呼ばれた女子は、縦蔵麻衣と名乗り、クラス内に自然に溶け込んでいた。つい昨日までいなかった女子を、それまで共に過ごした者として接していたのだ。
夕日が窓から差し込み、二人の魔女の影を長く伸ばしている。
「ワルプルギスで見かけた綺麗な坊やが忘れられなくてね。恋煩いさ」
「ふざけるのはおよし。ウーリアーン様からのお達しを忘れたか」
「忘れちゃいないさ。だから、風見伽耶には何にもしてないだろう?」
「高遠朝霧にはわたくしがフォーラント様から命を受けている」
「恋敵という訳か」
「莫迦なことを」
くっきりした目鼻立ちのバウボは美少女と言って差し支えなく、伽耶にはない華があった。
「あたしはあの坊やを諦めないよ。嫌なら力尽くで止めるんだね」
少女にしては濃い紅の唇が、はっきりと宣戦布告する。エリヒト―はその艶めく唇を忌々しげに睨んだ。
眩い雷が出現し、エリヒトーとバウボの髪をなぶる。エリヒトーの魔術だ。対するバウボは火焔を生み出し、エリヒトーにぶつけた。稲光と火炎が絡み合い、互いに互いを打ち消そうとする。次には氷が現れ、バウボに礫となり降り注いだ。バウボは取り出した鋼鉄の盾でこれを防ぐ。盾には精緻な文様が描かれていた。呪具の類なのだ。煌びやかな魔女と魔女の対決は、しかし長くは続かなかった。
「そこまでだ、二人共」
「フォーラント様」
人の姿をしたメフィストフェレスが黄昏を背に立っていた。逢魔ヶ時の、まさに悪魔だ。
「バウボの行為は俺が容認する」
「フォーラント様、しかし」
「バウボの誘惑に踊る朝霧なら見てみたい。もちろん、エリヒトーは今まで通り、俺が言ったことを続けろ。たった一人の魔術も持たない非力な少女と魔女二人、いずれに朝霧が転ぶか、これは見物だ」
メフィストフェレスは最初、咽喉の奥で笑っていたが、次第にその笑いは大きくなり、哄笑へと変わった。両手を広げて叫ぶ。どことも知れぬ宙に向かって。
「おお、稚き少年よ! 恋の試練に立ち向かう者よ! 汝の未来に幸あれ! いと深き暗闇が待ち伏せてあれ!」
げらげらと笑い転げる悪魔を二人の魔女は牽制し合いながら見ていた。
教室内は既に暮れた残照を残すばかりで、健全な陽の光は遠くなっていた。
部屋に帰るなり溜息を吐いた朝霧に、メフィストフェレスが尻尾を一振りして尋ねる。
「どうかしたか、色男」
「……お前に話して始まることじゃない」
「ああ、そうかよ。塩キャラメルを寄越せ」
朝霧は素直に塩キャラメルの箱からキャラメルを取り出した。
最近、同級生の縦蔵麻衣からの接触が過剰だ。
今やクラス内外に朝霧と伽耶の交際の事実は知れ渡っているのに、彼女は臆することなく朝霧に迫ってくる。何の因果か二人になる機会が多く、その度に麻衣は露骨な程、朝霧にアプローチしてくるのだ。
理科の実験の後片付けを当番でしていた時、気づけば朝霧の目の前にはビーカーやフラスコではなく、麻衣のはだけた胸元があった。ネクタイが取り外され、ブラウスのボタンを上から五個まで外した内側には豊かな弾力を持つ肌が露わに見えた。動揺した朝霧は持っていた試験管を落として割ってしまった。麻衣はそれすら頓着せず、朝霧に身体を密着させた。豊かな弾力が肉を通して伝わり、朝霧は硬直した。
あそこでなぜか雨梨が顔を出さなかったら、どうなっていたか解らない。雨梨は怖い形相で、主に麻衣を睨むと、早く片付けてしまいなさいと叱った。朝霧は脱力して、助かったと思った。
麻衣が雨梨の叱責の最中、激しく舌打ちしたのには驚いた。彼女からはどこかしら下卑た気配が感じられて、朝霧は一層、麻衣を苦手と感じた。前からこんな女子だっただろうかと考えても、不思議なことに、依然の麻衣の人物像が杳として思い出せない。女子に迫られるのはこれが初めてではないが、麻衣の場合は度を越していた。
「女子って訳が解らないな」
「それはお前、太古の昔からの謎だからな」
「風見さんが……」
「ん?」
伽耶が麻衣のことを気に病むと困るな、と思った。それと同時に、伽耶は嫉妬してくれるだろうかとも思った。我ながら莫迦なことを考える。
恋は人を愚かにする。