心の旅路
目を閉じると今でも祖母の笑顔が浮かぶ。
老いてなお美しい祖母。幼い朝霧の目には憧れの女性と映っていた。
けれどそれは泡沫の幻。
朝霧は伽耶に告白してから、一緒に帰るようになっていた。
とりとめのない話を交わす。
伽耶が新しい先生、美人ねと言ったので、朝霧もうん、と答えた。
菫青石のほうが大事だった。翡翠より。
電車通学の伽耶を駅まで送ってから、朝霧は家の方向に向かって歩き始めた。
古文の小テストの際、新しい女性教師・雨梨柚葉は教室の中をゆっくり歩いて回った。彼女は朝霧の前まで来ると朝霧の机をさらりと撫でた。それだけだったが、香水の仄かな香りが朝霧の鼻腔に届いた。祖母のつけていた香りと酷似していた。
五感の中で、嗅覚が最も記憶に訴える。
朝霧の中に懐かしさと慕情が蘇った。惨い祖母の最期も。
泣きたい時は泣いて良いのよ。
囁くようにそう言った、雨梨の言葉の真意は解らない。朝霧は身を固くして、雨梨を見たが、雨梨はもう朝霧から離れていた。芳香と余韻。それから慕情と悲哀を朝霧の胸に残して。
駅を離れ商店街の喧噪を抜け、青い木立の歩道を歩いて家に着いた。
伽耶の一挙手一投足が愛しいと同時に、雨梨の存在が朝霧の気に掛かっていることは確かだった。祖母が慕わしい人であればあっただけ、雨梨への感情もそれに近いものとなる。
私服に着替えて母が持ってきてくれたコーヒーとドーナツを食べながら、ヴィンテージコレクションの雑誌を眺める。今月はミリタリー特集だ。ミリタリージャケット、ミリタリーブーツ、ミリタリーウォッチ。どちらかと言えばトラッドが好きな朝霧だが、男子の性で、それなりに楽しみながら雑誌を見ていた。
その雑誌の上から、ぱたり、と垂れるものがある。
黒猫の尻尾。
「邪魔をするなよ、メフィストフェレス」
「戦争ごっこのお道具は、恋知り染めし若者には似合わないんじゃないか」
「それはそれだ」
「もっと風見伽耶の喜びそうな物を見ろよ。女子のハートを押さえるファッション雑誌とか」
「貰い物の知識で、風見さんと接する積りはないよ」
「は! 高尚なことだな、朝霧先生」
先生、という言葉に朝霧の耳が反応する。彼は雑誌から顔を上げてメフィストフェレスを見た。
「お前の仕業か?」
「何の話だ」
「祖母によく似た教師がいる」
「へえ。美人か?」
「美人だ」
「憧れの君の登場って訳か。風見伽耶が悲しむなあ」
「そんなことにはならないよ」
マグカップを持って、コーヒーを一口飲む。
部屋の窓は開けっ放しにしてあるので、散り際の桜の花びらが舞い込むままだ。それも風情があって良い、と朝霧は考えている。花びらは落ち着くところを選ばず、朝霧の持つマグカップにまで入ってきたので、朝霧はそのひとひらをコーヒーと共に飲み下した。苦味の中の香気が嚥下される。このマグカップも朝霧が、北欧雑貨店で選んで購入したお気に入りだ。白地に紺色の楕円が幾つも浮かんでいる。
伽耶に朝霧の蒐集癖の話をしたら、部屋を見てみたいと言われた。
彼女を招くことに否やはない。喜びと期待が湧き、僅かに失望されないかという不安もあった。
「メフィストフェレス。お前がいて良かった」
「お前はいつも唐突だな」
「風見さんの笑顔を見られた。彼女に、近づけた」
「――――自助努力を忘れるなよ。浮かれてると穴に落ちるぜ。塩キャラメル」
「はいはい」
朝霧は苦笑しながら塩キャラメルの箱を机の抽斗から取り出す。自助努力などという言葉を、悪魔のメフィストから聴けるとは思わなかった。メフィストは猫の姿のまま、塩キャラメルをくちゃくちゃと咀嚼しつつ、朝霧を見た。つくづくと眺めて、それからふいと目を逸らした。
古文の小テストが及第点に至らなかった。
朝霧には有り得ないことだが、ケアレスミスを幾つもしていたらしい。見直しを怠った積りもないのだが、と朝霧は首を捻りながら、放課後、教室で雨梨の見る前でテストをやり直していた。雨梨は教卓の前に座り、この日にあった別のクラスの小テストの採点をしている。朝霧の様子を窺うことも怠らない。朝霧が回答を書き終え、雨梨の元に持って行くと、雨梨は和む笑顔を見せた。朝霧の頬に自然に手を添え、頑張ったわねと言う。雨梨の耳には緑色の石が光っている。翡翠ではなさそうだ。ペリドットだろうか。いずれにしろ、祖母を彷彿とさせるに十分な仕草と要素だった。雨梨はすぐに朝霧の頬から手を引っ込めた。さあ、もう帰りなさいと言うと、再び採点に取り掛かった。
伽耶は朝霧を教室の外で待っていてくれた。
少し顎を引き、廊下のリノリウムの床を見ながら、両手で鞄を持っている。
そんな姿に、朝霧の心が簡単に弾む。
伽耶も朝霧を見ると嬉しそうに微笑んだ。
「どうにも上手い按配に事が運びません」
「励めよ、エリヒトー。弱音を聴く耳は持たんぞ」
「そう申されましても。フォーラント様の言われた女性の面影、言動を取ってみましても、とどのつまりはあの子の祖母への慕情止まりでして。色仕掛けをする訳にも参りませんし」
「あいつは過去の記憶に今なお縛られている。ことによると風見伽耶への想いを凌駕するだろう。……何だ?」
「わたくしの気のせいでしょうか。フォーラント様があの坊やに、情を掛けておられるように見えまして」
「――――莫迦を言うな」
「テッサリアの古戦場を長く彷徨ったわたくしには、見えぬものも見えるのです」
フォーラント様、とエリヒトー、雨梨柚葉は呼び掛ける。
「ファウストの二の舞にならないよう、お気をつけあそばしませ」
極彩色の空間が、魔女と悪魔の密談を聴く。
忠告を受けたメフィストフェレスが無表情に手を動かすと、黒い影法師が幾つも出来て、てんでばらばらに踊り始めた。鮮明な色の中、躍動する影たちは異質で、狂乱じみていた。やがて紺色の星が天に浮かび、無数の流星群となって影の頭上を滑って行く。現から離れた異空間で、メフィストフェレスは表向き無表情で、内実は物思いに耽っていた。
望みを叶えようと言ったら、真っ先に世界の救済をと言った少年。
その無私無欲にメフィストフェレスは驚き、嗤った。
次に少女の世界の救済をと望んだ時にも、同じだった。
今時珍しい純粋無垢な魂に、メフィストフェレスは確かに魅せられたのだ。