表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/16

心の旅路

 目を閉じると今でも祖母の笑顔が浮かぶ。

 老いてなお美しい祖母。幼い朝霧の目には憧れの女性と映っていた。

 けれどそれは泡沫の幻。

 朝霧は伽耶に告白してから、一緒に帰るようになっていた。

 とりとめのない話を交わす。

 伽耶が新しい先生、美人ねと言ったので、朝霧もうん、と答えた。


 菫青石のほうが大事だった。翡翠より。


 電車通学の伽耶を駅まで送ってから、朝霧は家の方向に向かって歩き始めた。

 古文の小テストの際、新しい女性教師・(あめ)(なし)(ゆず)()は教室の中をゆっくり歩いて回った。彼女は朝霧の前まで来ると朝霧の机をさらりと撫でた。それだけだったが、香水の仄かな香りが朝霧の鼻腔に届いた。祖母のつけていた香りと酷似していた。

 五感の中で、嗅覚が最も記憶に訴える。

 朝霧の中に懐かしさと慕情が蘇った。惨い祖母の最期も。


 泣きたい時は泣いて良いのよ。


 囁くようにそう言った、雨梨の言葉の真意は解らない。朝霧は身を固くして、雨梨を見たが、雨梨はもう朝霧から離れていた。芳香と余韻。それから慕情と悲哀を朝霧の胸に残して。


 駅を離れ商店街の喧噪を抜け、青い木立の歩道を歩いて家に着いた。

 伽耶の一挙手一投足が愛しいと同時に、雨梨の存在が朝霧の気に掛かっていることは確かだった。祖母が慕わしい人であればあっただけ、雨梨への感情もそれに近いものとなる。


 私服に着替えて母が持ってきてくれたコーヒーとドーナツを食べながら、ヴィンテージコレクションの雑誌を眺める。今月はミリタリー特集だ。ミリタリージャケット、ミリタリーブーツ、ミリタリーウォッチ。どちらかと言えばトラッドが好きな朝霧だが、男子の性で、それなりに楽しみながら雑誌を見ていた。

 その雑誌の上から、ぱたり、と垂れるものがある。

 黒猫の尻尾。


「邪魔をするなよ、メフィストフェレス」

「戦争ごっこのお道具は、恋知り染めし若者には似合わないんじゃないか」

「それはそれだ」

「もっと風見伽耶の喜びそうな物を見ろよ。女子のハートを押さえるファッション雑誌とか」

「貰い物の知識で、風見さんと接する積りはないよ」

「は! 高尚なことだな、朝霧先生」


 先生、という言葉に朝霧の耳が反応する。彼は雑誌から顔を上げてメフィストフェレスを見た。


「お前の仕業か?」

「何の話だ」

「祖母によく似た教師がいる」

「へえ。美人か?」

「美人だ」

「憧れの君の登場って訳か。風見伽耶が悲しむなあ」

「そんなことにはならないよ」


 マグカップを持って、コーヒーを一口飲む。

 部屋の窓は開けっ放しにしてあるので、散り際の桜の花びらが舞い込むままだ。それも風情があって良い、と朝霧は考えている。花びらは落ち着くところを選ばず、朝霧の持つマグカップにまで入ってきたので、朝霧はそのひとひらをコーヒーと共に飲み下した。苦味の中の香気が嚥下される。このマグカップも朝霧が、北欧雑貨店で選んで購入したお気に入りだ。白地に紺色の楕円が幾つも浮かんでいる。

 伽耶に朝霧の蒐集癖の話をしたら、部屋を見てみたいと言われた。

 彼女を招くことに否やはない。喜びと期待が湧き、僅かに失望されないかという不安もあった。


「メフィストフェレス。お前がいて良かった」

「お前はいつも唐突だな」

「風見さんの笑顔を見られた。彼女に、近づけた」

「――――自助努力を忘れるなよ。浮かれてると穴に落ちるぜ。塩キャラメル」

「はいはい」


 朝霧は苦笑しながら塩キャラメルの箱を机の抽斗(ひきだし)から取り出す。自助努力などという言葉を、悪魔のメフィストから聴けるとは思わなかった。メフィストは猫の姿のまま、塩キャラメルをくちゃくちゃと咀嚼しつつ、朝霧を見た。つくづくと眺めて、それからふいと目を逸らした。


 古文の小テストが及第点に至らなかった。

 朝霧には有り得ないことだが、ケアレスミスを幾つもしていたらしい。見直しを怠った積りもないのだが、と朝霧は首を捻りながら、放課後、教室で雨梨の見る前でテストをやり直していた。雨梨は教卓の前に座り、この日にあった別のクラスの小テストの採点をしている。朝霧の様子を窺うことも怠らない。朝霧が回答を書き終え、雨梨の元に持って行くと、雨梨は和む笑顔を見せた。朝霧の頬に自然に手を添え、頑張ったわねと言う。雨梨の耳には緑色の石が光っている。翡翠ではなさそうだ。ペリドットだろうか。いずれにしろ、祖母を彷彿とさせるに十分な仕草と要素だった。雨梨はすぐに朝霧の頬から手を引っ込めた。さあ、もう帰りなさいと言うと、再び採点に取り掛かった。


 伽耶は朝霧を教室の外で待っていてくれた。

 少し顎を引き、廊下のリノリウムの床を見ながら、両手で鞄を持っている。

 そんな姿に、朝霧の心が簡単に弾む。

 伽耶も朝霧を見ると嬉しそうに微笑んだ。



「どうにも上手い按配に事が運びません」

「励めよ、エリヒトー。弱音を聴く耳は持たんぞ」

「そう申されましても。フォーラント様の言われた女性の面影、言動を取ってみましても、とどのつまりはあの子の祖母への慕情止まりでして。色仕掛けをする訳にも参りませんし」

「あいつは過去の記憶に今なお縛られている。ことによると風見伽耶への想いを凌駕するだろう。……何だ?」

「わたくしの気のせいでしょうか。フォーラント様があの坊やに、情を掛けておられるように見えまして」

「――――莫迦を言うな」

「テッサリアの古戦場を長く彷徨ったわたくしには、見えぬものも見えるのです」


 フォーラント様、とエリヒトー、雨梨柚葉は呼び掛ける。


「ファウストの二の舞にならないよう、お気をつけあそばしませ」


 極彩色の空間が、魔女と悪魔の密談を聴く。

 忠告を受けたメフィストフェレスが無表情に手を動かすと、黒い影法師が幾つも出来て、てんでばらばらに踊り始めた。鮮明な色の中、躍動する影たちは異質で、狂乱じみていた。やがて紺色の星が天に浮かび、無数の流星群となって影の頭上を滑って行く。現から離れた異空間で、メフィストフェレスは表向き無表情で、内実は物思いに耽っていた。


 望みを叶えようと言ったら、真っ先に世界の救済をと言った少年。

 

 その無私無欲にメフィストフェレスは驚き、嗤った。

 次に少女の世界の救済をと望んだ時にも、同じだった。


 今時珍しい純粋無垢な魂に、メフィストフェレスは確かに魅せられたのだ。

  


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ