マリオネットの恋
伽耶の小枝のような華奢な身体。色素が薄めの髪。白い頬。小振りに膨らんだ唇。主張し過ぎない澄み切ったアーモンドアイ。
思い描くだけで朝霧は幸福な気持ちになれた。朝霧にとって伽耶は聖域で、踏み込むことを良しとしない。言葉と笑みを交わし合う。それが至上だった。
ウィングチップの黒い靴を磨く。最初は雑巾でざっと拭き、それから布に少し取ったキウイの靴クリームを万遍なく擦り込み、さらに布で磨く。この黒いウィングチップはオーダーメイドで、今では数少ない手縫いの靴職人に注文して作ってもらった。朝霧の足型を測って作られた物なので、初めて履いた時も靴擦れせず、足にしっくりと馴染んだ。甲の部分には職人の拘りである、門松をイメージした飾り穴・メダリオンがあしらわれている。良い靴を履きなさい、そしてきちんと手入れをしなさい、と祖父は朝霧に言った。特に外国では、靴で人を判断されるから、と。こうして靴磨きに集中する時間も朝霧は好きだった。靴が黒く艶光りするようになるまで磨くと、満足感が胸を満たす。
いつか、と思う。
いつかこの靴を履いて伽耶の前に立つ日が来るだろうか。そのくらいは望んでも良いだろうか。
朝霧の欲は、ごくささやかで、恋を知った少年の微笑ましいとも思えるものだった。
伽耶に困惑気味に相談されたことは青天の霹靂だった。
すっかり春めいて暖かくなってきた最近は、よく座るようになった校庭のベンチで、伽耶は告白されたの、と言った。
桜の花が八分咲きで、今が丁度、見頃だった。花びらがひとひら、伽耶の髪にくっついて、朝霧は意識を逸らすようにそれを凝視した。彼女は戸惑っていた。どうすれば良いのか解らない、と。
風見さんの思うようにしたら良いよ。
朝霧は動揺が声に出ないよう、努力しながらそう言った。どこにでも転がっていそうな言葉を。伽耶の目がちらちらと微動して、細いけれど長い睫毛がそれに伴い揺れた。様々な呪縛から解き放たれた少女は、それまでの陰気なイメージを払拭し、生来の明るく清楚な人柄が滲み出るようになっていた。男子たちが注目しても、無理はない。
うん、考えてみるねと伽耶は言った。
朝霧の胸に不穏なものが渦巻いた。
どうして早く断らないのか。どうして自分にそれを話すのか。どうして。
どうして自分は今、吐き気のような感覚を覚えているのか。
風邪をひいたとも思えない。
朝霧の手が、伽耶の髪についた桜のひとひらに伸びかけて、中途で止まり、握り拳を作って膝の上に着地した。伽耶が不思議そうな目で見ている。それ以外の色があると、今の朝霧には気付けない。アーモンドアイに秘められた想いに気付かない。ただ、朝霧は、伽耶の髪のひとひらを、羨ましいと思った。悪びれることなく、彼女の髪に触れることが出来るのだから。
桜が咲いたら伽耶に告白するとメフィストフェレスには告げた。
想いはとうに咲いている。
けれどそれを口に出すことを朝霧は躊躇っていた。きっともう、彼女には伝わっているだろうと思いながら、確たる言葉が形になることなく、朝霧の胸にわだかまっていた。空は抜けるように青く、鶯の声がどこからか聞こえる。サッカーをする少年たちが砂埃を上げている。
この平和な世界の中、朝霧だけが迷子になったかのように途方に暮れていた。
すぐ隣に座る少女が、誰より遠い存在に感じられた。
帰宅してのろのろと着替えていると、人の姿で朝霧のベッドに寝そべり、塩キャラメルをくちゃくちゃ食べていたメフィストフェレスが、にやついた顔で朝霧に声を掛けた。
「良い感じに暗いオーラを発散しているじゃないか。何かあったのか?」
「――――別に何も」
「嘘を吐け」
朝霧はサックスブルーのシャツのボタンを留めながら溜息を吐いた。今の気分でメフィストフェレスに余計な詮索をされることは鬱陶しい。事実を知ればメフィストフェレスは、そら見たことかと面白可笑しく囃し立てるのに違いないのだから。
「振られたか」
「違う」
朝霧は椅子を引き、机の前に座った。数ある鉱物の中でも、菫青石が目について朝霧を呪縛する。今や菫青石の青味は増し、コバルト華やニッケル華の色も一段と鮮やかに見える。朝霧はそれらをぼんやりと見た。
「僕にも独占欲があったみたいだ」
「――――は!」
メフィストフェレスがベッドの上に胡坐を掻いて座り、短い呼気で朝霧を嗤った。
今更この小僧は何を抜かしているのかと。
「恋と独占欲は不可分だぜ、朝霧」
「僕は彼女が幸せならそれで良いと思った」
「違ったんだな」
「……そうらしい。僕は醜くて、浅ましい男だ」
「朝霧よ」
おもむろにメフィストフェレスが呼び掛ける。深い声音だった。からかいの色のない、真摯にも響く声だった。
「恋とは醜さをも伴う事象だ。どんな賢人をも聖人をも貶める。なぜならそれが恋の本質だからだ。賢明であり続けられる心情を、誰も恋とは呼ばない」
鶯の鳴き声が呼応するように聞こえる。
「無償の愛を貫こうとしてる内は、それは本物じゃないのさ」
「悪魔の理屈だ」
「悪魔だからな」
「お前は僕を堕落させたいだけだろう、そうしてその様を高みから見物したいだけだろう!」
「否定はしないさ。俺にとって人間はマリオネット。愉快に踊れば踊る程に胸がすく」
朝霧が星型の銀のキーホルダーを投げつけると、メフィストフェレスはすかさず飛びずさった。五芒星は魔除けともなる。
「おい、物騒な物を投げるな」
「お前がふざけたことを言うからだ。お前にとってはマリオネットでも、僕も風見さんも生きている。血の通った人間だ。苦しい現実の中をもがきながら、希望を求めて手を伸ばしている。それを嘲笑う権利なんて、お前にはない」
朝霧の権幕にメフィストフェレスは押し黙った。部屋のドアを開けると黒猫に姿を変え、出て行った。
朝霧はベッドの上に光る五芒星を拾い上げた。魔を払う鈍い輝きを見て、メフィストフェレスに八つ当たりした自分を自覚した。
伽耶の拒絶が怖かった。
心を打ち明けて、拒まれ、今までに築き上げた信頼関係を壊すことを朝霧は恐れた。メフィストフェレスの言うことに、朝霧は確かな真実が混じっていると悟っていた。醜さを露呈してしまうのが恋なのだ。嫉妬に胸を焦がすのが恋なのだ。彼女の目に、自分だけを映して欲しいと願うことが。
窓を開けて、目を閉じる。
風を感じる。桜の仄かな芳香と、鶯の声を。
風見さん。僕は君が好きだ。
明日、そう打ち明けようと朝霧は決めた。
なぜだか涙が滲んだ。