無垢と憂い
伽耶の微笑は薄く剥いだセロファン紙のようだ。透き通っていて光を僅かに反射する。色はラヴェンダーのように、ほんの少しの憂いを含む。
コバルト華やニッケル華に似ているが、菫青石にも似ていると朝霧は思う。
菫青石は光に透かすと、方向によって色が変わる。多色性の著しい鉱物として有名だ。カットして宝石になると「ウォーター・サファイア」と呼ばれる。九十度程、方向を変えてみると黄緑色になる。ウォーター・サファイアは青く見える方向が正面を向くように研磨されているのだ。黄緑色は、見えないように金属で隠す。
伽耶もまた、無数の嘆きを見えないように隠して、好まれる色合いだけを見せるように振る舞う。
ウォーターの中の黄緑色に気付く同級生も中にはいたが、皆、見なかったものとして伽耶に接した。
伽耶の両親が亡くなっていることは、暗黙の了解のようにほとんどの同級生が知っていた。伽耶は同情されることを望まず、ごく普通に彼らと接することで、〝可哀そうな少女〟のレッテルを貼られまいとした。黄緑色を、隠そうと。
ウォーター・サファイアの矜持を、誰より敏感に感じ取っていたのは朝霧だ。
だから朝霧も、決して伽耶を同情の目で見ることはなかった。自身の経験から、それがただ煩わしいものでしかないことを、朝霧はよく知っていた。
伽耶の両親の遺産を隠匿していた叔父たちが、どうした心境の変化か、伽耶にそれを詫び、遺産を伽耶にきちんと譲渡すると申し出たと言う。伽耶は未成年なので、管理はまだ自分たちがするが、一人暮らしの伽耶に十二分な生活が出来るだけの仕送りはすると。黄緑が薄れ、青が濃くなったと朝霧は思った。
校庭のベンチに二人で座り、伽耶が自販機で買ったホットカフェオレを飲みながらそれを話す間、朝霧もホットカフェオレを飲みながら、相槌を打って聴いていた。
伽耶の肩までの、少し色素の薄い髪が風にさらさらと揺れ、白い頬にはほんのり赤味が差していた。そんな二人を、好奇の視線で見る生徒もいたが、朝霧は無視した。
校庭を囲むように植わる桜の樹には、咲き初めの花があった。
伽耶もまた、咲き初めているのだ。
朝霧はそう感じ取り、無性に嬉しくなった。
伽耶は内面から変化しつつあった。怯え、卑屈が勝っていた心根が、脅威を除かれ、余裕を得て、健やかで前向きな感性を抱き始めていた。
高遠君。いつも話を聴いてくれてありがとう。
伽耶ははにかむようにそう言って、朝霧にとってはどんな鉱物の輝きにも勝る笑顔を見せた。
陽光の眩しい日和だった。
優しい春風が二人を包むように吹いた。
白蝶貝とペンシェルの白黒模様の柄の虫眼鏡で菫青石をつくづくと見ていた朝霧に、メフィストフェレスが声を掛けた。
「ご機嫌だな?」
「まあね」
「風見伽耶か」
「そうだよ」
紫味を帯びた青い色から目を離さずに答える。
やれやれと人の形を取ったメフィストフェレスが肩を竦める。
「さっさと告白でも何でもしろよ。まだるっこしい。この俺様が手を貸してやってるんだぜ?」
「……もう少し、桜が咲いたら言うよ」
「散るかもな」
「その時はその時さ。彼女が幸せならそれで良い」
ふん、とメフィストが鼻を鳴らす。
「尻の青い若造が、知ったような口を。無償の愛なんてものは、愚か者の演じる道化芝居さ」
「愚か者でも道化でも良いよ」
突然、部屋が一変して、赤や黒や蛍光色の黄色、ピンクの色彩が跳ね踊る空間になった。うぞうぞと奇怪な植物が蠢き、顔に星と涙の化粧を施したピエロが玉乗りの曲芸をする。
呆気に取られている朝霧に向けて大量のチョコやキャンディーなどのお菓子が押し寄せ、朝霧を埋め尽くそうとする。黒い影だけの女たちがそこらを練り歩き、カクテルグラスから酒を呑んでいる。天井にはミラーボールのような出鱈目の月。
極彩色の空間に、朝霧は目眩がした。
「メフィスト、どういう積りだ!」
すると黒猫がふわりと朝霧の眼前に浮き出て、尻尾をゆっくり右に、左にと揺らす。
「良いか、朝霧。ようく聴きな。愚か者や道化ってのは、とどのつまりこういう空間の体現者のようなものさ。莫迦莫迦しくて見てられない。もしくは、莫迦莫迦し過ぎて見応えがある。どっちに転んでもお前は不愉快だろう? なら、聖人君子の面は捨てて、さっさと風見伽耶と懇ろになるんだな」
メフィストが黒い影だけの女たちの中をすり抜けて行ってしまう。朝霧は口にお菓子が流れ込んできて、チョコの溶けたのやらビスケットの欠片やらで口腔を一杯にした。それらのお菓子は信じられない程に甘美で、状況の異常さを忘れて、朝霧は陶然としてしまった。
目を閉じて、この甘さをより深く味わいたい。
そう思う朝霧の脳内に伽耶の咲き初めの笑顔が浮かんだ。それを手繰り寄せようとすると、朝霧はそれまで通り、机の前に座り、虫眼鏡を持った状態で椅子に座っていた。メフィストフェレスは素知らぬ顔で絹のクッションに丸くなっている。
思わずそちらを睨みつけた朝霧に、メフィストフェレスが気のない声で言う。
「聖人君子も結構だがな。惚れた女に触れたいと思うのが、まっとうな男ってものさ」
「低俗だ」
メフィストフェレスが傑作だと言わんばかりにクッションの上でごろごろと転がった。
「そう、低俗! 何が悪い? 低俗即ち、人の営みだろうが。人類の歴史だろうが。男が女に触れもしないで、栄えた文明などありはしない!」
「清らかな彼女を、お前の屁理屈で汚すな」
「清らかな彼女も、きっとお前の手を待っているさ。そら、憂いが忍び込んできたぞ。欠乏、罪科、憂い、困窮の中で、憂いだけが鍵穴から入ってくることが出来る」
朝霧が首を巡らすと、部屋の隅に、うっそりと立つ陰気な女性がいた。黒いローブを身に纏い、俯いている。
「私の名は憂い。どんな幸福をも台無しにする」
「去ってくれ。僕は貴方に用がない」
「憂いあれかし。貴方の心の希望は閉ざされ、世界のあらゆるものが虚ろに見えるよう」
「止めてくれ」
「そして大切な少女に触れない胸の空漠に涙あれ」
朝霧は耳を塞いで目を閉じた。数秒後、目を開けると、女性は現れた時と同様、忽然と消えていた。メフィストフェレスをじろりと見る。
「今のもお前の差し金か」
「あいつらは好き勝手にやってるだけさ。俺は知らん。俺の存在が呼び水になった可能性はあるがな」
そう言いながらメフィストフェレスは長い尻尾でしぱた、しぱた、と床を打った。おもむろに朝霧を見つめる。純粋無垢な魂。これ程、上等な魂はそうはお目に掛かれない。だからメフィストフェレスは朝霧に契約を持ち掛けた。柔らかでしっとりとして純粋な。喰らえばさぞや美味いだろう。
けれどそう思う一方で、メフィストフェレスは朝霧が穢れる様を見たくもあった。生々しい人間の欲を剥き出しにした朝霧にも、彼は興味があったのだ。
風見伽耶。
朝霧が唯一、執着する存在。彼女をして、朝霧を堕落せしめることは出来ないだろうか。きっと朝霧は多少、穢れたところで、そんな自分を嫌悪して苦しみ、その魂の無垢な輝きはより強調されるに違いないのだ。