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翡翠

残酷な描写があります。ご注意ください。

 朝霧は小学五年の時まで、父方の祖父・祖母と同居していた。祖母と母の折り合いは良く、一緒にショッピングに出かけることもしょっちゅうだった。朝霧の蒐集癖は祖父譲りだ。祖父は貿易会社に勤めていたことも手伝い、洒落者で、服を百着、靴も靴箱に納まり切らない程、持っていた。美品を好み、骨董店や蚤の市を、朝霧の手を引いてそぞろ歩いた。


 蚤の市では青い空の下、売っていた揚げたカレーパンを二人して食べながら、辛いと言い合い、そしてまた、祖父が目星をつけた品物の元へ戻って行く。値段交渉も楽しみの一つだった。祖父の皺だらけの手が好きだった。脂の足りない老人特有の乾燥。祖父は単衣の着流しや洋装を気分によって着こなし、朝霧に男子も恥じぬ装いをすべしと言い聞かせた。


 祖父と祖母との夫婦仲は非常に円満で、二人で手を繋いで、朝の散歩をするのが日課だった。家を出て、青く茂る木立の美しい歩道を一定距離、歩いて、喫茶店で休憩して、また家まで戻る。それがお決まりのコースだった。祖母も祖父に感化されたのか、お洒落な人で、いつも祖父の服装に合わせた和なり洋なりの衣服を纏い、薄化粧をしていた。祖母は母に負けないくらい綺麗だと、朝霧は思っていた。


 ある寒い雪の朝。こんな日くらい、散歩は止めたらと言う母の声をやんわり制し、祖父と祖母はいつものように出かけた。

 今でもよく憶えている。


 祖父は三つ揃えのスーツにカシミア混の霜降りグレーのコートを、祖母は薄茶色のツーピースに白いフェイクファーのコートを着て、家を出た。祖母の耳は琅玕(ろうかん)という極上の翡翠のイヤリングで飾られていた。祖父が祖母の誕生日に贈ったというそのイヤリングの緑が、白い雪に映えるだろうと、祖父が着けることを勧めたのだそうだ。朝霧の目から見ても信じられないくらいに美しい宝石だと知れた。もう、この頃から彼は鉱物に目覚めていた。

 祖父母が家を出て数分と経たない内に、すさまじい轟音が鳴り響いた。喧噪。朝霧と父母は家を出た。いつもは人気のない道に人だかりが出来ていた。その中心には黒い乗用車と――――。


 嘗て祖父と祖母であったものが横たわっていた。


 美しい装束は泥と血に塗れ、見る影もない。腕や脚が、ばらばらな方向を向いている。内臓が、白い雪の降る中露出し、ほかほかと湯気を上げていた。

 父と母が目隠しした時にはもう遅く、その光景は朝霧の目に焼きついた。嘔吐の音が聞こえる。それからサイレンの音。すげーすげーと言いながらスマートフォンで撮影する音。父と母の身体に遮られた朝霧の視界に、緑に光る物が見えた。へしゃげたガードレールのすぐ下。白雪の中、芽吹いた若葉のように。

 琅玕の翡翠だった。祖母の耳から弾け飛んだのだ。翡翠は相変わらず美しかった。燦然と輝いていた。

 祖母も祖父も死んだのに。

 理不尽だと朝霧は思った。そして意識を手放した。


 祖父母の事故は、徹夜明けに加えた酔っ払い運転に巻き込まれたものだと判った。性質の悪い冗談のような事実に、朝霧たちは向き合わねばならなかった。


 朝霧は眠れなくなった。眠れば祖父たちの無残な最期を夢に見る。医師からはPTSD(心的外傷後ストレス障害)だと診断され、薬が処方された。祖父の遺した膨大なコレクションは、朝霧に譲られた。服と靴の大半は、まだ朝霧には早いだろうという理由から、父が貰い受けた。その内、お前も着るようになると父は言った。祖母の琅玕の翡翠は、祖母の持つ宝飾品の中でも抜きん出て高価だった。朝霧の母はそれを朝霧に託した。辛くないようだったら、と言って。琅玕の翡翠は憎らしくもあったが、とろりとした深緑に、抗い難い魅力があるのもまた事実だった。そしてそんな自分を朝霧は軽蔑した。


 摂食障害も手伝い、朝霧は徐々に衰弱していった。父と母の献身的な看護がなければ、回復は困難だっただろう。

 健康を取り戻す為に時間が掛かり、中学入学も少し遅れた。独自の世界観を持ち、整い過ぎた顔立ちの朝霧は、勉強における優秀さも相まってすぐに注目の的となった。世間は狭い。朝霧の祖父母の事故を知る生徒も中にはいて、露骨な好奇心を向けてきたりした。


 家に帰り、鉱物や硝子玉、石やその他諸々の蒐集物を眺めている時だけ、心が落ち着いた。朝霧は自分の小宇宙に閉じ籠った。通学さえしたものの、交友関係を築くこともなく、部活にも入らず、ただ勉強だけをこなした。煩い大人の干渉を防ぐ為に。


 高校に入り、風見伽耶に逢った時、初めて胸がざわめいた。それは朝霧にしては至極、稀なことだった。そして仔猫の遺体と遭遇した一件以来、朝霧は彼女の虜となった。



 ワルプルギスの夜が土曜日で助かった。

 朝霧は好きなだけ朝寝をして、目覚めてもまだベッドの上でごろごろと転がっていた。

 青年の成りをしたメフィストフェレスが摘み上げている物を見て、血相を変える。飛び起きるとベッドを下り、メフィストフェレスから翡翠のイヤリングをひったくった。


「これに触るなっ」

「おお、怖い。幸福と無念、そして恐怖の残滓があるな」

「……祖母の形見だ」


 メフィストフェレスが口笛を吹く。


「豪勢なもんだなあ。それを売っ払えば相当の金になるぜ」

「そんなことはしない」

「昨日は古道具屋の魔女もいたのに、何も買わなかったみたいだな」

「血塗られた短剣、甘い毒液で人を殺す杯、女を誘惑する服飾、仲間を裏切って刺し殺す剣。そんな物に興味はないよ」

「呪具全般が商品だからなあ」


 メフィストフェレスがぽん、と跳ねて宙返りをして、さっきとは逆に朝霧のベッドの上に着地する。無駄に優雅なお辞儀をして、上げた顔には悪戯めいた好奇心と酷薄さがあった。


「さしずめお前に掛かった呪いはその翡翠と風見伽耶の二つか。――――いや、それらの根源は一つか」

「何が言いたい」


 ちっ、ちっ、ちっ、とメフィストフェレスが人差し指をしたり顔で横に振る。


「つまりだね、お坊ちゃん。お前は在りし日の、懐かしく厭わしい日々に感じた世界への絶望と、風見伽耶の境遇を重ねて見ているんだよ。世界の救済を、と最初、俺に望んだな? 大方、自分が味わったような理不尽な出来事を消してしまいたかったんだろう。だがそれが果たせないからせめて、風見伽耶の世界だけでも救おうとした。彼女を理不尽から救おうと。崇高なようでいて、ただの恋と履き違えた安い同情だね」

「僕の記憶を覗いたのか」

「いつもは鍵でも掛かったように覗けないんだがな。昨日の強行軍で疲れたか、今回は覗くことが出来た」


 暖房を入れなくては。部屋が暖まらない。

 自分の心は今、冷えているから。せめて、部屋だけでも。

 するとメフィストフェレスが心得たようにリモコンのスイッチを押し、暖房を入れた。

 少しずつ、温度の上がる部屋。

 鋭角の突き出した青いランプの明かりを点ける。カーテンを開けると、眩しい光が飛び込んできた。もう昼近い。


 何気なく机上の(らん)(しょう)(せき)とトパーズの原石を握る。トパーズは十一月の誕生石で、昔は黄玉(おうぎょく)と書いた。日本にも産出するが、所謂、黄金のインペリアル・トパーズとは異なり、色も無色透明、淡黄、淡青などである。頭の中で一見、無意味なことを考えながら、朝霧は並行して先程、メフィストフェレスに言われた言葉を反芻していた。


 ――――安い同情だと?


 自分の行為が偽善であるならそれでも良い。結果として、伽耶の幸福に繋がれば朝霧は満足なのだ。それは断じて同情からくるものではなく、朝霧の初めての恋心に起因していた。


 僕の過去を君と重ね合わせたのはほんの一瞬。

 君は君で、僕は僕。それだからこそ君は尊い。

 君の心からの笑顔が、僕の魂の対価となるくらい。


 窓の外には大きく張り出した庭の桜の枝が、蕾を綻ばせている。

 

 春は近いのだと伽耶に告げたい。

 そして二人で笑い合えたら。僕は地獄に堕ちても良いのに。







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