ワルプルギスの夜
主はよみがえり給いぬ。
死すべき者に悦びあれ、
忍びきたる、いと古き、
滅亡の罪を
負える者に。
(ゲーテ『ファウスト』より)
目の前には灼熱の風があった。轟轟と地の底から吹くような。
それでいて金紗(紗の地に金糸などを織り込んで模様を表した絹織物)が蜘蛛の巣と化したような輝きの網があった。空の月は妙に赤く、この妖しく猥雑な空気を際立たせている。
朝霧はメフィストフェレスと共に広場の脇に座り、素焼きのグラスに入った林檎酒を呑んでいた。
この海原山の山頂まで来るのは骨だった。矛盾のある名称の山だが、嘗て海中にあった岩が隆起して出来た山であるところから、その名が来ていると言う。このあたりでは最も標高の高い山に、朝霧は山靴を履き、登山に相応しい服装をして、足が疲れたと再三、文句を言うメフィストフェレスと共に登った。飛ばないのか、と朝霧が訊くと、メフィストは渋い顔でただ、様式美だ、とだけ答えた。夜に家をこっそり抜け出すこともスリリングだったが、夜の登山も危険を伴うもので、朝霧は足を踏み外さないよう、懐中電灯で道を照らしながら登った。
鉱物好き、石好きの性で、朝霧は、よもや山珊瑚が落ちていないかと、地面を注視しながら歩いていた。他の化石の類にも気を配った。
「メフィストフェレス。山珊瑚か、他にめぼしい化石があったら教えろよ。アンモナイトとか。琥珀でも良い」
「酔狂な子供の妄言に付き合う程、余裕がなくてね」
「このくらいの登山でへばってるのか」
「俺は繊細なんだよ。見るからに軟そうで変に頑丈な誰かさんと違ってね」
言いながらもメフィストフェレスは塩キャラメルをせっせと口に運んでいた。エネルギー源なのかもしれない。
早春の夜。そして山中の独特の空気が濃厚に二人を包み込み、幻惑するようだった。草木の影は黒々として、昼間の穏やかな顔を隠している。水のせせらぐ音は耳に涼しく、勇気づけられるようだった。
そうして辿り着いた山頂では、既にウーリアーン(魔王サタン)を中心に、魔女たちの饗宴が始まっていた。
目的地に着いた途端、しゃっきりとしたメフィストフェレスは、顔馴染みの魔女たちに挨拶すると、手際よく二人分の林檎酒を調達した。朝霧が未成年だという事実は、この際あってないものとする。
メフィストフェレスが朝霧の耳元で囁く。
「バウボ(猥褻な魔女)には気をつけろよ。若い男が大好物だ」
「ご忠告ありがとう」
きらきらとした金紗の網にまだ目が慣れない朝霧は、目を瞬かせながらそう返した。
魔女たちはてんでばらばらに散らばり、飲み食いし、べらべらと喋っていた。
時折、朝霧たちのほうにちら、と目を走らせ、こそこそと何かを囁き合う様子が見てとれた。その内の一人が、メフィストフェレスにしなだれかかるようにして近寄った。
「これは偉大なるフォーラント(悪魔の古い呼称)様。今宵は如何なるご用向きでこちらに?」
笑った口からこぼれる歯が黄ばんでいる。その上、彼女は銅色の髪の毛から、始終、火花を散らせていた。造作の大きな美貌に、色々と迫力が添えられている。
メフィストフェレスはつんと澄まして答えた。
「お前たちがさっきから散々、話の肴にしている、一人の哀れな少女のことだ。あれは俺の仕事だ。ウーリアーンにも話は通してある」
「ふうん。随分と、この坊やに過保護なんですねえ、フォーラント様。ファウストの時とは違って」
メフィストフェレスの顔が苦くなる。
「それを言うな。俺とて二の轍を踏みたくはないのだ。良いな。しかと言ったぞ、リーリト(アダムの最初の妻。中世には魔女とされた)」
リーリトの黄金色の目が朝霧を射抜くように見る。検分する目つきだ。
朝霧の頤を、指で捉える。
「おお、無垢なる少年よ。初めての恋に打ち震える小鳩のような心臓を鳴らし、こんなところまでやってきたのか。切に願うことがあるならば、フォーラント様の背中に隠れず、堂々と満座で言うが良い。あの小娘に手出し無用、と」
ごくん、と芳醇な林檎酒を飲み干した朝霧は、一理あると考えた。何もかも、メフィストフェレス頼みでは、朝霧の立場もないというものだ。
金紗のあわいを透かし見れば、ウーリアーンが取り巻きの魔女たちと機嫌よく呑んでいた。その杯は朝霧の物とは違い、動物の角で作られているようだ。それも金色に光っている。
全てが混然として眩く、その中を朝霧は這うようにウーリアーンの元まで進んだ。ウーリアーンの真紅の双眸が朝霧を見る。メフィストフェレスの漆黒も怖いが、これはこれで恐ろしい。取るに足らない若造、と思われているのは明らかだった。
朝霧は自分を鼓舞してウーリアーンに話しかけた。
「歓談中、邪魔をする。貴方がたに頼みがある」
「分を弁えよ小僧。と、言いたいところだがメフィストの口利きもあるからそうもいくまいて。言うてみるが良い」
「風見伽耶に関わらないでくれ」
ウーリアーンと、その周りの魔女たちがどっと笑った。ウーリアーンが膝を叩く。
「これはまた直截な。愚者かはたまた強者か」
「試してみることも、出来る」
朝霧は予め、メフィストフェレスに教えられていた呪文を唱えた。
「燃えろ、火の精ザラマンダー。うねれ、水の精ウンデーネ。消えろ、風の精ジュルフェ。勉めろ、土の精コーボルト」
ウーリアーンが杯を持つ手を止める。いや、止められたのだ。氷で身体を覆われたように、彼は朝霧の呪文に呪縛された。真紅の目が恐ろしい迫力を以て朝霧を睨めつける。
「さしずめメフィストの入れ知恵か。小癪な小僧だ。これで予を意のままに出来るとでも?」
「いや、思わない」
そう言って朝霧が出した銀色のナイフに、魔女たちが悲鳴を上げた。
「純銀製のナイフだ。貴方に傷の一つ、負わせることくらい可能だろう」
次にウーリアーンが心底、愉快そうに笑ったのは、朝霧の予想外だった。
「小僧。小娘の為にそこまでするか。恋情とはかくも愚かなものよ。だが予は、その愚かしさが嫌いではない。良かろう。お前の大事な女に手出しせぬよう、こいつらにも釘を刺しておこう」
ウーリアーンがぐるりと周囲の魔女を睥睨すると、魔女たちは畏まったようにこうべを垂れた。
金紗の網と熱風の中、その光景は不思議と厳粛にして荘厳だった。




