僕の愛しいグレートヒェン
この世界には予定調和の流れなんてなくて、いつも突拍子もなく諸々の出来事は起こる。
朝の白い光の中で朝霧は自分の掌に薄く走る血管の筋を眺める。
生の証。身体を起こし、まだ丸くなって寝ているメフィストフェレスを横目に制服に着替える。制服は紺のブレザーで、ネクタイを締めるようになっている。ピンを引っ掻ける略式の物ではなく、きちんとした本式のネクタイだ。当初はこれを上手く結べるようになるのに苦労した。姿見を見ながら、曲がっていないかどうか確認する。
風見伽耶におかしな姿を見られたくない。
自分にもこういう欲があるのかと朝霧は新鮮な驚きを覚える。
朝霧にとって伽耶はコバルト華やニッケル華のように色鮮やかな鉱物に等しかった。コバルト華は赤紫の、ニッケル華は真緑の、文字通り鉱物の華だ。コバルトとニッケルの鉱床上部の酸化帯に咲く華やぎは、伽耶に相応しい。メフィストフェレスが聴けば笑うのだろう。
儚げな一輪の花でも、朝霧の目にはそこだけ、陽の恩寵を受けたかのように明るく、鳥の囀りを聴くようだ。だからこそのコバルト華であり、ニッケル華なのだ。
春はまだ始まったばかりで、部屋は寒い。暖房が効くまでには時間が掛かる。
ふ、と振り返ると人の姿をしたメフィストフェレスが朝霧の隣に立ち、にやにやして姿見を覗き込んでいた。鏡には真実が映ると言うが、そこに映っていたのは絶世の美青年だった。
長い睫毛、赤い唇、白皙の肌、漆黒の髪。全てがまさに悪魔然として整い過ぎている。自分には不相応だ。本当の悪魔はここにいる。
「色気づいているな、朝霧」
「放っといてくれよ」
「風見伽耶への親戚の干渉は除去した。次はどうする?」
「彼女に、暮らしてゆくに十分な経済的余裕を」
「解った。お前が惚れたのがグレートヒェンみたいに厄介な女でなくて幸いだ」
ファウストが恋した少女の名をグレートヒェンと言う。二人の恋は悲劇的なものだった。
そんなことを思い返しながら朝霧は学生鞄の中の教材をチェックし、一冊の教科書が床の上に落ちているのを拾い上げた。物理の教科書はキリムの絨毯の上にあった。赤、青、白、黒、黄、の色が入り混じったキリムは遊牧民が織った平織の敷物で、様々なモチーフの意匠が織り込まれており、中には魔除け的な物まである。だからメフィストフェレスは、魔除けのモチーフの箇所を避けて歩く。一度、朝霧に絨毯の撤去を希望したが、あえなく却下された。気に入っているのだ、と。
朝霧は気に入っているものを手放さない。
そして伽耶に関しては気に入るという次元をとうに超えて、混じり気のない恋慕と化している。
部屋から出ようとする朝霧のあとを、黒猫に再び変じたメフィストフェレスがするりと流麗な動きでついて行った。
小さく微笑んだ伽耶の笑顔を胸に大事に仕舞い込んだ朝霧は、帰宅早々、ベッドに寝転がった。暴力に脅かされない心の安寧が、その笑顔を咲かせたのだ。それを成したのがメフィストフェレスであり、ひいては自分であることが朝霧には何より誇らしく嬉しかった。
朝霧の通う高校の制服は男女共にブレザーで、男子は青の、女子は赤のネクタイを締める。その鮮やかな赤が、いつもは伽耶の物憂げな面持ちを浮き立たせてしまうのに、今日は明るく彩っていた。
叔父さんたちが急に優しくなったの。
そう話す伽耶に、朝霧は素知らぬ顔で微笑して、そう、それは良かったねと返した。
教室の窓際に佇む伽耶は陽光を後ろから浴びて、身体の輪郭を光の線に縁取られていた。
心が放つ高い透明度の贅沢。
伽耶の言葉と笑顔、その時の光景を反芻する朝霧の腹部に、黒猫が乗ってきた。
「重い」
「にやにやして、お前のグレートヒェンのことでも考えてるのか?」
「その通りだよ。だから邪魔するな」
朝霧が前触れなく起き上がると、メフィストフェレスはころりとベッドの上に転がった。制服から私服に着替える。母親が、生姜入りのホットミルクティーを持ってきてくれたので、ありがたく頂く。天井から鎖で下がる、鋭角が多くて淡い海のような青のランプが、今は光を点すことなく静かに凪いでいる。生姜の風味と暖かなミルクの円やかさに和む。
「お前のお蔭だ。ありがとう、メフィストフェレス」
「何だ、藪から棒に。気味が悪いな」
「感謝の言葉くらい素直に受け取れ。僕の力では到底、出来なかったことをお前はしてくれた」
「対価を忘れるな。感謝など、俺の欲求を満たしもしない」
「お前には取るに足りないんだろうな。僕の自己満足ということも知っている。もちろん、対価も忘れちゃいないさ」
「結構」
メフィストはそう素っ気ない口調で言うと、人間になった。真っ赤な三つ揃えのスーツを着た彼は、頭に黒いシルクハットを被っている。些か珍妙だが似合ってしまうのがこの悪魔の凄いところだ。そうしてそんな恰好でにやりと笑うと艶麗を通り越してそのまま魂を盗られてしまいそうである。
黒曜石の瞳の瞳孔は猫のそれのように細い楕円だ。黒曜石は火山岩の一種だったと朝霧はその目を見ながら思い出す。この悪魔の心底にはマグマはないだろう。冷えた愉悦の塊がメフィストフェレスそのものだ。
「塩キャラメル」
「はいはい」
メフィストフェレスの一日の塩キャラメルの消費量は相当なもので、朝霧の財布にささやかに響いていた。メフィストフェレスはにんまりと笑うとキャラメルを口に放り込む。
美味しそうな顔を崩さないまま、彼はさらりと言った。
「もうすぐワルプルギスの夜がある」
「――――え?」
「この街の近く、最も高い山の頂で」
「ドイツのブロッケン山でもないのに、こんな街に魔女が集まるのか?」
「ワルプルギス(魔女の夜、饗宴)に定まった場所はない。定番はブロッケン山だが、気紛れだからな、魔女は。今までも日本で何度かあったぞ」
「僕たちに被害は?」
くちゃ、とメフィストフェレスがキャラメルを咀嚼する口の動きを止めた。
「魔女には美人もいるぜ」
「ふざけてないで答えろ」
「お前のグレートヒェンが話の肴になるらしい。俺は有名だからな。動向が注目されてる。あいつらに俺の仕事を邪魔される可能性がなきにしもあらず。と、いったところか」
「……どうすれば良い?」
「お前も紛れ込んだらどうだ。ファウストみたいに」
「ワルプルギスの夜に?」
「ワルプルギスの夜に」