君の未来
聖なる炎よ。
この世にありて善き人と共に、
さきく過ごさむ。
諸共に起ちて、
称えよ。
風は清らかなり、
霊よ、安かれ。
(ゲーテ『ファウスト』より)
今にもエリヒトーに倒れ込もうとしていた朝霧の身体が、ぎりぎりのところで停止する。エリヒトーは構わず彼の頭を胸に抱え込み、頬擦りする。魔女の涙が朝霧の髪に露となって煌めく。エリヒトーが朝霧のシャツを脱がせようとするが、朝霧は意志の力を振り絞って抵抗する。頭の中は媚薬に侵されてくらくらして、目の前の女性を欲している。だが、朝霧には譲れない菫青石がある。朝霧は自分を抱え込むエリヒトーの両手首を掴んだ。
途端にエリヒトーから悲鳴が上がる。朝霧の掌には、目には見えない微量の孔雀石が付着していた。魔除けの石の粉末が。
エリヒトーの手首はうっすら赤くなっている。
「先生。やっぱり魔女だったんですね」
喘ぐ声で朝霧は問い掛ける。ほぼ確信していた事実だった。媚薬の効能はまだ依然として有効で、朝霧はエリヒトーに対する欲情を必死で抑えていた。それは驚異的な克己心だった。エリヒトーは泣きながら頷く。ここまでしてもまだ、朝霧を手に入れられない絶望に。こうなれば残された手段は一つしかない。
エリヒトーは背後のクッションに隠していた黒い柄の剣を手に取った。
ようやくエリヒトーの空間に介入出来たメフィストフェレスが叫ぶ。
「朝霧っ」
「横入りは野暮ですことよ、フォーラント様」
朝霧はエリヒトーの剣で胸部を貫かれた。丁度、心臓のあるあたりだ。
エリヒトーの目は、とうに正常なそれではなかった。
倒れる朝霧を誰にも渡さじと胸に抱く。それから朝霧を刺した剣で、自分自身の咽喉を刺し貫いた。こぼれ溢れる真紅、真紅。
赤い空間に、いっそそれは相応しい眺めだった。
朝霧の元に駆け付けたメフィストフェレスは彼の頭部を抱え起こす。
剣を一瞥して舌打ちする。柄に彫り込まれた精緻な文様。この剣は呪具だ。恐らく古道具屋の魔女からエリヒトーが入手した物だろう。この剣による刺し傷を、魔術で癒すことは不可能。つまりは。つまりは――――。
「メフィスト、」
「おい、喋るな。元の空間に戻って救急車を呼ぶ」
朝霧が笑った。笑った拍子に血の花が鮮やかに咲いた。悪魔であるメフィストフェレスが、救急車と言ったのが可笑しかったのだ。
「頼みがある」
「あとで聞いてやる」
「風見さんを含む、僕と関わった人の記憶から、僕の存在を消して。僕の、いた、痕跡と、とも、に」
「…………」
「たの、むよ」
赤い花が咲いてはこぼれ咲いてはこぼれる。
「お前は莫迦だ、朝霧。お前のいた記憶を消したところで、この先、風見伽耶が幸せな道を歩めるとは限らないんだぞ。多少、今、余裕がある状態だからって、人生何が起こるか解らないんだ。悲しみも、苦悩も、孤独も、きっと彼女を蝕む日が来る。お前がしたことは、することは、そんなちっぽけなことなんだ。……ちっぽけなことの為に、自分を消しても良いと言うのか。世界から消し去って良いと言うのか」
朝霧の目が弧を描く。優しい光が湾曲する。
「わかっているよ、メフィストフェレス。人に、完全な、しあわせ、なんてないってこと。でも、これが最後に、僕が彼女の為に、できること、だから」
お願いだ、それから最後の一言を告げて、朝霧の瞳は閉じた。
メフィストフェレスは無言で朝霧の、もう永遠に動かない顔を見ていた。
背後に羽ばたきの音が聴こえても、メフィストフェレスは振り返ろうとしなかった。
朝霧の身体から、虹色とも金色とも見える丸い魂が抜け出る。それはメフィストフェレスを気遣うように、彼の身体の周囲を回った。
メフィストフェレスはそれを、手を振って邪険に追い払った。
「しつこいガキは嫌いだ。莫迦なガキも。……お前はもう、塩キャラメルさえ俺には遣れない」
ミカエルが沈痛な眼差しで朝霧の亡骸と彼の魂を見る。エリヒトーからは濁った臙脂の魂が抜け出たが、それは暗黒に呑まれて消えた。
「その子の魂を私に」
メフィストフェレスはミカエルを見もせずに淡々とした口調で答える。
「好きに連れて行け」
「……良いのか?」
「ガキのお守りには飽きた」
「最後、彼は何と言ったんだ?」
「……とまれ、お前は本当に美しい。つくづく莫迦な奴だ。ファウストでなければ意味を成さない言葉だったのに。――――莫迦な奴だ」
「お前への魂の譲渡を果たそうとしたのだな」
ミカエルは朝霧の魂を招き寄せる。魂は、ふうわり、メフィストフェレスの周囲をまた回ると、彼から離れた。
類稀なる美しさに燦然と輝く魂を、強欲な悪魔が見逃すと言う。契約書まで交わして、手に入れようと思えばミカエルを振り切ることさえきっと出来るだろうに。
天界の門が開く。厳かな音を立てて。
黄金で出来た壮麗な門の向こうには果てのない青。
大天使の帰還を受けて、出迎えの天使たちがこうべを垂れる。
朝霧の魂と共にミカエルが天界の門をくぐり、門は消えた。
メフィストフェレスは赤い空間に一人、立っていた。愉悦の体現者である彼が無言で、微動だにせず、屹立していた。目の前には朝霧から咲いた赤い花の跡がある。白いクッションをそれは彩り、オブジェのようでもあった。
晩春、学校帰りの伽耶の前に、絶世の美青年が現れた。
恐ろしさすら感じさせる美貌の持ち主である彼は、伽耶の手に、紫がかった青い石を乗せた。菫青石という名を教えられ、それを君に渡したかったとだけ告げられた。不審人物とも思える青年の行動が、なぜか伽耶にはすんなり納得出来て、そして不思議なことに涙が溢れた。なぜなのかは解らない。叔父からの暴力はなくなり、経済的にも余裕が出来た。友達付き合いも上手くやっている。それなのに時々、胸に大きな穴が開いたような、激しい寂寞の念に襲われるのだ。子供みたいに泣きじゃくりたくなる。青年が伽耶にもたらした青い石は、それらの事情全てを知っているかのように淡く光っていた。
「これで満足か、朝霧」
どんな魔法を使おうと、人の生の先に確約された幸福などありはしないのに。
わかっているよ、メフィストフェレス。
今はもう、どこにもいない少年の答える声が、春風に乗って聴こえた気がした。
<完>
最後までお読みくださった皆さまに、幸いのあらんことを。




