比翼の鳥、連理の枝
「坊やに惚れたな? エリヒトー」
原色の植物たちがうねる異空間で、バウボが愉快そうに言った。
エリヒトーは雨梨の扮装を解き、魔女の本質を露わにしている。
「極上の魂だろう? 欲しくなっても無理はない」
「わたくしはお前とは違う」
「どう違う、エリヒトー。テッサリアに流離う魔女」
「わたくしは……」
「言葉を飾るのはお止め」
傲然とバウボが言い放つ。植物の、テーブル上になった箇所に置かれてあるカクテルグラスを持ち上げ、赤い中身を呷る。
「女の業さね」
バウボはしみじみと告げて、頭上にある赤い月を見上げた。エリヒトーもカクテルグラスを取り、白い液体を飲み干した。白は清涼の味がした。朝霧の面影がちらついた。
おかしな夢を見た。
空を飛び、自分を救うと宣言される夢だ。妙にリアルな夢だった。
朝霧はネクタイを結びながら、さっきまで自分がいたベッドに横になっているメフィストフェレスをちらりと見遣る。青いネクタイを上手く結ぶことに余念のない朝霧だが、昨日からのメフィストフェレスの様子と夢のことは気懸かりだった。白い羽は抽斗の上から二段目に仕舞ってある。もしかしたらあれは、と思う。
朝霧は神を信じない。
神が実在するならば、起こり得なかった筈の数多の事象があるからだ。祖父母の事故然り。悪魔であるメフィストフェレスの存在ならば信じられるのは、彼が望みを叶える対価を求めるからだ。とてもシンプルで解りやすい。無償の慈悲などよりは余程に信が置ける。
だから朝霧は白い翼の持ち主について、とやかく詮索することを止めた。
外に出ると春特有の、靄が掛かったような、それでいて浅く狂気が入り混じっているような空気が身を包む。
さあ、と新緑の息吹感じる風が吹き抜けた。
昨日すれ違った白い男性が立っている。
この近辺に住んでいるのだろうか。これ程に目立つ容姿であれば噂に上ると思うのだが。
金髪の男性は、青い目を細めて、朝霧を慈しむように見た。
そんな目で見られる憶えが朝霧にはない。
昨日と同様、会釈をして通り過ぎようとすると、彼の声が朝霧の耳と後ろ髪を掠めた。
「神はいる」
思わず振り向くと、男性が物悲しげに微笑する。新手の宗教勧誘だろうか。いや違う、これは。男性がおもむろに告げる。
「いずれ君にも解る時が来る」
常人ではないのか。これは。
夢の中の白い翼が蘇る。部屋に落ちていた不可思議な羽も。朝霧は何も答えず、早足でその場を立ち去った。鳩の鳴き声が場違いに長閑に聴こえる。
悪魔がいるのなら天使もいる。
そういうことか。
だが朝霧の心は冷えて、天使も神をも拒絶していた。繰り返し思い出す悪夢に、彼らは手を差し伸べてはくれなかったのだから。
学校に着き、最早、日常となった麻衣の攻勢をいなし、伽耶の顔を見ると朝霧はほっとした。菫青石の笑顔は、朝霧を何よりも救ってくれる。朝霧も笑顔になる。ホームルームが始まるまで、伽耶と他愛ない話に興じて、朝霧の心は浄化された。朝霧の天使はここにいる。生きて、傷つき、それでも希望を掴もうと手を伸ばす。生々しさと健気さが得難く愛おしい。伽耶の世界が平穏無事に輝くことを朝霧は願う。それこそが望み。魂の対価。きっと真実を知れば、伽耶は泣くのだろうけれど。朝霧には今この時が掛け替えのない時間だった。
エリヒトーは教卓向こうの椅子に座り、教室内を見回しながら、さりげなく朝霧を見ていた。朝霧の立ち居振る舞いから目が離せない。魔法を掛けたのはエリヒトーではない。朝霧だ。まだ年端もいかない少年に、恋い焦がれる自分が滑稽で、エリヒトーは唇を歪めた。唇には葡萄酒色の混じった紅の口紅を刷いている。控えめでありながら大人びた落ち着きを感じさせる色合いだ。これもまた、恋の魔術の一つ。けれど朝霧は振り向かない。小憎らしいくらい、澄ました顔で、エリヒトーの質問に立って答える。彼の口から紡がれる漢詩は白居易の『長恨歌』で、唐の玄宗皇帝と楊貴妃の物語を謳った物だ。天にあっては比翼の鳥、地にあっては連理の枝。
美貌の少年が発する言の葉はエリヒトーの胸を打ち、彼女に玄宗と楊貴妃の二人への羨望を抱かせた。叶うことなら自分も、朝霧とそのようでありたかった。けれど朝霧の隣には伽耶がいて、揺らぐことのない絆で結ばれているとエリヒトーにもわかる。それが嘆かわしく、辛かった。恋の痛み苦しみは、エリヒトーの心を血の紅に染めていた。
朝霧は『長恨歌』を読み上げながら、雨梨の強い視線を感じていた。どこか間違っているだろうか。しかしそれならば指摘されるだろう。雨梨の瞳は露含むようで、どきりとする色香があった。あんな目で見られたら、普通の男性はすぐに陥落するだろう。朝霧には伽耶がいるので、気持ちが揺れることもない。指示された箇所を読み終えると静かに着席した。
比翼の鳥。連理の枝。
伽耶と自分もそのようでありたい、と朝霧は思った。
昼休み、昼食を食べ終えたあと、雨梨の呼び出しを受けた。
呼び出される憶えのない朝霧は、首を捻りながら職員室へと向かう。足を踏み入れた職員室はなぜか無人で、有り得ない静寂に満ちていた。ただ雨梨一人が自分の机の前に座り、朝霧を見ている。
朝霧が近づき、用件を聴こうと口を開く前に、雨梨がいつかのように朝霧の頬に手を添えた。香水の香りが柔らかに朝霧を包む。先生、と言おうとした唇は、雨梨の唇に塞がれた。朝霧は気が動転して、雨梨を突き飛ばしてしまった。椅子から落ちる雨梨。その様は、雨にそぼ濡れる花の風情を思わせた。雨梨の潤む瞳から今にも雫がこぼれ落ちそうだ。彼女は今、手酷く傷ついている。朝霧は衝動のまま、ハンカチを雨梨の綺麗な目元に宛がった。胸に縋りつかれ、その中でしめやかに泣かれて、朝霧はしばらくそのままでいた。今の朝霧にとって雨梨は女性と言うより、羽を傷めた小鳥だった。自分より年長である大人の女性の、傷が癒えるようにとただそれだけを願った。
帰宅すると、メフィストフェレスが、暮色に合わせたかのような橙から紫のグラデーションのスーツを着て、朝霧の椅子に座りにやにやしていた。今日あった全てを見透かされているようで、朝霧は多少、罰が悪かった。
「お上品な香水の香りがするぜ、色男」
「事情があったんだよ」
「そう、事情ね。男と女の間には、事情の一つもあれば十分」
「邪推するな」
「はっはあ。委細、承知仕りました。朝霧先生」
昨日の不機嫌はどこへやら、メフィストフェレスは手を叩いて無邪気にはしゃいでいる。
「女の人って不思議だな」
「だから太古からの謎だって」
言いながらちょいちょい、と手を上向きに動かすメフィストフェレスに塩キャラメルをやる。雨梨には同情するが、伽耶を悲しませることだけはしたくない。朝霧は雨梨の憂いが晴れるよう、祈るしか術がない。祈る対象は神ではないが。そこまで考えて、朝霧は白い羽と男性を思い浮かべた。
「なあ、メフィストフェレス」
「うん?」
「僕は神を信じてないんだけど」
「――――ああ」
「お前は信じているよ」
その時のメフィストフェレスの、真ん丸になった瞳と時が止まったかのように硬直した様子は、朝霧の目に焼きついて忘れることはなかった。




