拒絶
伽耶を駅まで送った帰り道。青い木立からの木漏れ日が道に黒いモザイクを投げ掛ける。明るいところと暗いところの区分が鮮明で、マグリットの『光の帝国』の絵みたいだなと思っていた朝霧は美しい人に出逢った。
男性だ。
金髪碧眼、純白のスーツを着こなしている。どう見ても目立つ容貌だが、行き交う人は彼の存在を注視しない。
彼は朝霧に向け、笑みを浮かべた。どこか上の空のような、現実味のない笑顔だった。
朝霧はとりあえず会釈を返し、彼の横を通り過ぎた。すれ違う時、一瞬、男性の姿が強い光輝に包まれたように見えた。
メフィストフェレスは仏頂面で、腕組みして何か物思う風情だった。珍しいこともあるものだと朝霧が着替えながら彼の様子を窺う。麻のミントグリーンのボタンダウンシャツにジーンズを合わせて、足元に落ちている一枚の白い羽に気付く。羽は白でありながら紫や緑などの光沢をも帯び、実在を不思議に思う美しさだった。
朝霧はその羽を白黒のチェス盤のような柄の虫眼鏡で観察する。微細な光がちらちらと羽を覆っている。小さな虹のアーチも見受けられ、見れば見る程不思議で美しい羽だった。
メフィストフェレスが横合いからその羽をひょいと取り上げる。
「おい」
「回収し損ねたな、あいつ」
「あいつ? 来客でもあったのか」
「招かれざる、な」
メフィストフェレスがむっつりとして、それ以上は喋りたくなさそうだったので、朝霧は追及しなかった。この羽は仕舞っておこう、と蒐集家の性分で思う。
「塩キャラメルをくれ」
「はいはい。なあ、メフィストフェレス。何かあったのか?」
「何もない」
結局、うっかり訊いてしまう。メフィストフェレスはこの上ない渋面でにべもなく答えた。これは相当、機嫌が悪いなと朝霧は思う。メフィストフェレスは塩キャラメルを数個、一度に口に放り込むと、盛大に咀嚼し始めた。頬が栗鼠のように動いていて愛嬌がある。
その様子を眺めてから菫青石を虫眼鏡で鑑賞する。
紫がかった青。
菫青石が雲母に変質し、更に母岩が風化して分離した物を、通称「桜石」と呼ぶ。菅原道真ゆかりの石として古くから知られ、天然記念物になっている。名前が今の季節に相応しいと朝霧は思う。
朝霧の愛しい菫青石からは、どんどん黄緑が見えなくなってきている。笑顔が増えて、明るくなった。死角のないウォーター・サファイア。朝霧はそれを誇りに思うと同時に、心配にもなる。彼女の魅力に多くの男子が気付き始めている。盗られはしまいか、などという嫉妬めいた思いが湧く。疑心暗鬼になりそうで怖くて、こんな感情もあるのかと我ながら驚いてしまう。伽耶と出逢ってから、朝霧は驚きの連続だ。
縦蔵麻衣ことバウボの攻勢は相変わらずだが、朝霧も彼女をいなす術を段々と心得てきた。麻衣に翻弄されたままだと伽耶が悲しい思いをする。それは嫌だ。
嫌だ。そう思う一方で、自分の為に悲しんでくれる伽耶を思い描く朝霧もいて、恋とはパンドラの箱だなと思う。開けてしまえば様々な感情が飛散する。けれど最後に残るのが希望であるなら、それで良い。
「なあ、朝霧」
「何」
菫青石を見ながら答える。
「もしも俺が悪魔でなかったならどうする」
「……? 意味がよく解らないな。お前は悪魔のメフィストフェレスだ。僕の契約相手だ。お前のお蔭で風見さんは救われた。風見さんが、僕に笑いかけてくれるようになった。お前が悪魔でなかったなら、という仮定は現状、成り立たないよ」
「――――そうか」
メフィストフェレスの、いつもの不遜な態度が鳴りを潜めている。招かれざる客が原因だろうか。一体どんな客だったのか。
その夜、朝霧は夢の中、真っ白い空間にいた。
いや、白に薄く青が掛かっている。紗のように儚くて朧だ。
大きな純白の翼が見えた。
顔はよく見えない。金色の髪がさらさら靡いているのは解る。金の草原のようだ。
悪魔から離れなさい、とその人は言った。
朝霧は、それは出来ないと答えた。
身の破滅が待っていても?
契約したんだ。
翼が大きくはためく。気がつけば朝霧は空を飛んでいた。大きな腕が朝霧を抱いている。
君を私が救う。
朝霧は耳を疑った。
彼は繰り返した。
君を私が救う。
朝霧の中で何かが弾けた。
おじいさんもおばあさんも、助けてくれなかったじゃないか。
朝霧の祖父母が、あんな惨い死に様をするような、何をした訳でもない。けれど彼らは無残な死を遂げた。赤く露呈した物を今でもよく憶えている。
翼がまた大きくはためく。朝霧はどんどん、高みへと上昇する。
全ては主の御心のままに。
僕は神を信じない。
叫んだ途端、朝霧から腕は離れ、朝霧は薄青い空へと投げ出された。それでも良いと思った。朝霧は神を信じない。神による救いを信じない。
声が降ってくる。
それでも愛し子よ。私は君を救うだろう。
「黙れっ」
自分の怒鳴り声で、朝霧は目が覚めた。黒猫の姿のメフィストフェレスが朝霧のほうを向いている。暗い部屋に溶け込んだ黒猫の表情などは解らない。彼は沈黙の後、肩で息をする朝霧に声を掛けた。
「悪い夢でも見たのか?」
「……ああ。悪い夢だ」
夜目の利くメフィストフェレスには、朝霧の青褪めた顔がよく見て取れる。
朝霧の言う悪夢が、ミカエルによるものであろうと察しをつける。天使の夢を悪夢と称するあたり、朝霧らしいと言うべきか。神に愛された魂の持ち主は、神を恨んでいる。憎しみにも近い気持ちで。それは痛々しい記憶の残滓によるものだ。メフィストフェレスはそっと俯く。なあ、ミカエルよ。この人の子は、今でも悲しみの虜なんだよ。そう、胸中で呟いた。
エリヒトーは朝霧の夢を覗いていた。
ミカエルは気付いていただろうが彼女を相手にはしなかった。
朝霧が神を拒絶していた。その発端となる出来事を知ったエリヒトーは胸を痛めた。魔女が人の子の為に胸を痛める。やはり滑稽だと思いながら、沈痛な気持ちは変わらなかった。
葡萄酒色の、絹のパジャマを着た自分の身体を掻き抱く。熱が冷めないのだ。朝霧のことを知れば知る程、深みに溺れていく。伽耶との睦まじい様子を見れば嫉妬で気が狂いそうになる。あんな、どこにでもいそうな小娘の何が朝霧を捉えたのか。自分にはないものが、伽耶にはあると言うのか。
神を拒絶した気高い魂。極めて高潔で純粋な魂。
朝霧が欲しい。
エリヒトーの掴む葡萄酒色は皺にならんばかりの圧迫を受け、それでも滑らかな光沢を放っていた。
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