悪魔と天使
薔薇の花びらを豪勢に散らした浴槽に、エリヒトーは身を浸す。
陰気と称されることもあるエリヒトーだが、口さがない噂をどこ吹く風と、華やかで耽美を旨とする生活を送っていた。テッサリアの古戦場を彷徨うのは、もう習い性のようなものだ。真紅のひとひらを人差し指で拾う。ふう、と息を吹きかけると、湿り気を含んだ花びらは力なく湯に落ちた。
胸中を占めるのは若い恋人たち。
微笑みを交わし愛を囁き合う。
並外れた美貌の少年の、ともすれば氷の彫像に見える顔が、少女に向く時には花が綻ぶように緩む。
氷を解かす湯になりたかった。願わくば、春風に。
そう思う自分にエリヒトーは驚く。
バウボへの対抗心ではない。メフィストフェレスからの命令ゆえでもない。エリヒトーは真実、朝霧に心惹かれていた。エリヒトーの矜持がそれを認めまいとしたが、もう目を逸らすことは出来なかった。
朝霧が恋しい。
あの淡泊で欲のない、純粋で気高い魂の持ち主が恋しい。
想いが遂げられるなら、獄卒に囚われても構わない。そしてもし想いが遂げられないのなら、その時は――――。
朝霧は切れ長の美しい瞳で、今は黒猫の姿であるメフィストフェレスを睨みつけた。
メフィストフェレスはふざけているのか、実に猫らしい仕草で、前足をぺろぺろと舐めている。
もう夜の刻限となった中、黒猫の影は奇妙な程、異様に長く伸びて天井にまで達していた。
「縦蔵麻衣は魔女なのか?」
メフィストフェレスが前足を舐める仕草を止め、漆黒の双眸を瞬かせて朝霧を見る。
瞳孔がすう、と細くなる。刃物が研がれるように。
「何の話だ」
「誤魔化すな。得体の知れない行動、五芒星への拒絶。魔の眷属だろう」
メフィストフェレスが人の形を取り、おどけたように優雅に腰を折る。
今日は黒衣だ。
「これはこれは。お見それしました、朝霧先生。如何にも彼女は魔女。猥褻の魔女・バウボに相違ございません」
「お前の差し金か」
「いや、あいつの自由意思だ。ワルプルギスの夜に一目惚れしたんだと。だから言っただろう? あいつには気をつけろって」
「だがそのあとの、彼女の動向には目を瞑って僕には知らせなかった」
「人も魔女も恋路は同じ。邪魔をして馬に蹴られたくはないんでね。それとも何か、お前の風見伽耶に対する想いは、たかだか魔女の一人くらいの妨害で、駄目になるような弱い代物なのか?」
朝霧は麻衣の胸と身体の感触を思い出したが、伽耶の唇に触れた瞬間の歓喜が、はるかにそれらの快感を凌駕した。伽耶の唇は朝霧の為に咲いたかと思える程、しっとりと吸いつき、朝霧は夢中で更に強く、唇を押しつけた。伽耶もそれに応えてくれた。
「おい、塩キャラメル」
メフィストフェレスの、記憶の反芻に水を差す無粋な声に朝霧は我に帰り、塩キャラメルの箱を取り出した。黒衣のメフィストフェレスは他の色を纏う時より、一層、悪魔じみていて、キャラメルを受け取るとにやりと笑った。艶美な笑いだった。艶美の中に、悪戯心が垣間見えた。
悪魔の悪戯心に碌なことはないと思いつつ、朝霧は机上の、主要な位置に置いている菫青石をそっと撫でて、今日、出された宿題に取り掛かった。時折、ペンを持つ手を止め、唇をなぞる。伽耶のそれを思い出し、朝霧は陶然とした。メフィストフェレスはキリムの絨毯の、魔除けの意匠から外れたところに胡坐を掻き、塩キャラメルを咀嚼しながらそんな朝霧を醒めた目で眺めていた。
就寝前、朝霧がベッドに入ってからメフィストフェレスに問い掛けた。メフィストフェレスは黒猫の姿で、絹のクッションに丸くなっている。
「なあ、メフィスト。バウボは僕の何がそんなに気に入ったんだろう」
「知るかよ。大方、そのお綺麗な面だろ」
「顔だけで魔女に追い回されるのか?」
「…………」
メフィストフェレスは朝霧の疑問に黙って答えなかったが、それだけではないだろうと内心では思っていた。朝霧の美貌には彼生来の美質が滲み出ている。もしも朝霧と全く同じ造作の顔立ちの人間がいたとしても、その性根が腐っていたとしたら、バウボは見向きもしなかっただろうし、それは自分も同じだっただろう。
心の美しい者がその事実に気付かない。
往々にしてあることだと思い、メフィストフェレスは尻尾をしぱた、と一振りした。
伽耶にしても、心根の清さが外面に出たからこそ、朝霧は惹かれたのだろう。天使からも悪魔からも好かれそうな恋人たちだなとメフィストフェレスは皮肉に思った。
紺青の夜がそれぞれの思惑を以て過ぎ、やがて黄金の朝が来る。
朝霧は厳重な警戒態勢で、麻衣に備えていた。麻衣は図書室でのことはなかったかのように、相変わらず朝霧に纏わりつく。肩にしなだれかかり、耳元に取るに足らない物事を囁く。伽耶にそれを見せつけるようにするのだから、性質が悪い。朝霧は人目を憚らず彼女を振り払い、席を立って伽耶の元に行った。麻衣があからさまにむっとした顔で見ても相手にしない。伽耶に話し掛け、次の授業の予習の話や、今度はどこに出かけるかなどの話をする。伽耶はほっとした笑顔で、朝霧の話に相槌を打ったりした。
古文の授業では少しおかしなことがあった。
雨梨の質問に答えるよう名指しした生徒を押し退けるように、麻衣が口を挟んできたのだ。それも授業内容とは全く関係のない、雨梨の異性関係、プライヴェートに関することだった。しっとりとした成熟の美を思わせる女教師を困らせるような麻衣の言動に、クラスの生徒たちが訝しみ、眉をしかめる。
しかし雨梨は挑発的な麻衣の態度を、にっこり笑うだけで華麗に流して、授業を難なく円滑に続行させた。麻衣が激しく舌打ちする音を、朝霧が聴くのは二度目だった。二度目となる今回は朝霧以外の誰にもその音は聴こえ、麻衣の素行の悪さを知らしめることとなった。くっきりした目鼻立ちの美少女に憧れる者もいたのだが、この件ですっかり熱は冷めた。
麻衣自身は、クラス内で孤立しようとも一向に構わない心構えだった。所詮は人間の子供たちの箱庭だ。懲りることなく、朝霧に構い、秋波を送り続けた。だが朝霧は、もう麻衣の相手をしようとはせず、二人きりになっても星型のキーホルダーをちらつかせて彼女を敬遠した。
朝霧の部屋で春の陽射しを受けながら微睡んでいたメフィストフェレスは、いきなり全身の毛を逆立て、飛び起きた。黒猫から人の姿になる。
舞うは純白の羽。
窓も開いていないのに、大きな白い羽が無数に室内にふわふわと漂っていた。
そこに立つ相手に、敵愾心を剥き出しにしてメフィストフェレスは唸る。
「おい、羽を仕舞え。この部屋を散らかすと怒られるのは俺なんだ」
すると黄金の髪を靡かせた、青い瞳の天使は翳りある微笑を見せた。
「悪魔のお前が人の子の気持ちを推し量るとは。奇妙なこともあるものだ」
一つ、二つ、瞬きすると黄金の帳がその度に青を隠しては現した。それは贅沢な光景だったが、暗闇の眷属であるメフィストフェレスにとっては煩わしいだけだ。
「何をしにきた、ミカエル」
「お前と契約を結んだ、人の子の救済に」
「契約は如何に天使と言えど口出し無用。お前も知っている筈だがな?」
「あの少年の魂は余りに眩しい。闇にむざと堕ちるは哀れと、主の思し召しだ」
「余計なことを」
「高遠朝霧の魂は天の領分とする」
「勝手に決めるな。契約はもう履行されている。あいつの魂は俺の物だ」
「そうはさせないよ」
憂いがちな微笑で、大天使ミカエル・天の軍団の統率者は告げた。




