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 ヴァイオリン・ソナタ第五番ヘ長調『春』のレコードを聴きながら、朝霧はコーヒーの入ったマグカップを傾けていた。題名の通り、花の綻ぶ春を寿ぐようなヴァイオリンとピアノの旋律。軽やかに楽しげに、時に激しく。この曲はベートーヴェンが書いたバイオリン音楽の中の最初の傑作として名高い。作曲年代は不明確だが、1800年代から翌年にかけて書いたものと思われる。ようやく、ベートーヴェンがハイドンやモーツァルトの影響から脱し、第二期と言われる〝傑作の森〟に入ろうとしていた頃で、彼の個性が作品に如実になってきている。


 マグカップを置くと、おもむろに(せい)鉛鉱(えんこう)を取り出し、虫眼鏡で眺める。青鉛鉱は菫青石より強い青味が美しい石である。鉛と銅の硫酸塩鉱物だ。(らん)銅鉱(どうこう)も美しい紺青の「石の花」と呼ばれるが、塩酸に浸すと藍銅鉱は発泡して溶けるのに対し、青鉛鉱は変化がない。似た鉱物にも差異を見抜くチェックポイントがある。人がそうであるように。


 メフィストフェレスが退屈そうにベッドに寝そべり欠伸している。今は人の姿で、蛍光ピンク一色のスーツを着ている。冗談のような服装だが、メフィストフェレスが着ると服を従えるようで、朝霧は妙に感心してしまう。


 こいつの本質は何だろう、と朝霧は考える。冷えた愉悦の塊。そんな悪魔にも情はあるのだろうか。悲しみ、涙することなどは?

 埒もないなと思い、再び朝霧は鉱物に見入り、音楽の音色に耳を澄ませる。視覚と聴覚を好ましいものに向ける、至福のひと時だった。


「塩キャラメルをくれよ」

「はいはい」


 いつもの決まり切った遣り取りに、微笑しながら朝霧は塩キャラメルをメフィストフェレスに渡す。背後に立っていたメフィストフェレスがぬう、と手を伸ばして塩キャラメルを受け取り、包み紙を剥がすと口にぽい、と放り込んだ。距離が近いので、朝霧の嗅覚にまで甘い匂いが感じられる。距離が近い。実際のところ、メフィストフェレスと自分との距離はどのくらいのものなのだろうか? 人間と悪魔なのだから、随分とかけ離れたものはあるだろうが、同調する点はないのだろうか。例えばメフィストフェレスも美しいものが好きだ。ここは朝霧とも重なる。しかし同時にメフィストフェレスは清らかな美を嫌悪し、醜悪を好むところもある。へそ曲がりなのだ、と朝霧は解釈する。案外、悪魔とはそうしたものなのかもしれない。



 それにつけても縦蔵麻衣だ。

 朝霧は彼女の本質を掴み切れないでいた。積極的なアプローチをする一方で、彼女からはどこか愉悦の気配がする。例えるならメフィストフェレスと同質なような。朝霧に恋慕していると言うより、「欲しがっている」と言ったほうがしっくりくる。それも可愛らしい願望ではなく、大人の欲情に近いところで。


 春が来ているのに。

 伽耶が笑って傍にいてくれるのに。


 麻衣の存在は朝霧にとって頭痛の種でしかなかった。一度、メフィストフェレスに愚痴をこぼしたところ、モテて結構じゃないかと一笑されて終わりだった。却って面白い玩具を与えたようで、言うんじゃなかったと朝霧は後悔した。麻衣は魔女なのではないかと疑ったこともある。だが青鉛鉱と藍銅鉱のように、人と魔女を見分けるチェックポイントを彼は知らない。そしてもし万が一、麻衣が魔女であったなら、それはそれで頭痛の種となることは確実だった。


 高遠君。


 同じ呼びかけでも、伽耶のそれと麻衣のそれでは全く異なる。恥じらいと喜びを伴う伽耶の呼びかけに対して、麻衣の呼びかけは媚びと誘惑の響きを帯びていた。

 そしてその誘惑の響きに、全く反応しないではいられない自分を朝霧は自覚していた。

 彼女に胸を押しつけられた時、朝霧の中の男性が疼いたことは事実だった。


 麻衣はきっとそれに気づいた。

 

 図書室で、またなぜか二人きりになった時。朝霧は同じ過ちは繰り返すまいと警戒し、麻衣から距離をとってその場を去ろうとした。

 けれども歩けど歩けど本棚の列から抜け出せない。延々と歩いて、麻衣の立つ場所に戻っている。流石に異常だと朝霧は感じた。

 麻衣が一歩、一歩、朝霧に歩み寄ってくるのに朝霧は動けない。金縛りに遭ったかのように身体の自由が利かないのだ。

 麻衣の白い手が朝霧の頬を包む。

 一瞬の後には朝霧は麻衣に組み伏せられていた。いとも容易く。

 圧し掛かってくる生身の女の体温。

 朝霧は快感に痺れ恐怖した。この酩酊に身を任せてはいけない。

 首を舐められ、吸われた時には頭が真っ白になった。

 次の瞬間、麻衣が悲鳴を上げて朝霧から飛びのいた。

 朝霧が星型の銀のキーホルダーを投げつけたのだ。

 麻衣が離れた隙に、朝霧はキーホルダーを拾い上げて図書室の中を駆け抜けた。

 今度は図書室から出ることが出来た。


 肩で息をする朝霧を見て、通り掛かった雨梨がどうしたのかと尋ねた。朝霧は何でもありませんと答えて行き過ぎた。雨梨は全て承知しているような目で朝霧を見送った。



 朝霧君、首のところ。


 ラヴェンダー混じりの夕景。 

散った桜の花びらが或いはわだかまり、或いはぽつねんとひとひら、足元を飾る帰り道、伽耶に指摘されて朝霧は首に手を遣った。

 赤い痣が出来てる。

そう言った伽耶は悲しげで、顔を赤らめていた。

 縦蔵さん?

 そう訊かれて朝霧は返答に詰まった。麻衣が朝霧につきまとっていることは周知の事実だった。

 僕が好きなのは風見さんだ。

 嘘偽りない本心を朝霧がはっきり告げると、伽耶が愁眉を開く。

 駅までの、人気のない歩道で、朝霧の脳裏にベートーヴェンの『春』が蘇った。朝霧は伽耶の両肩をそっと手で押さえた。伽耶はぴくり、と頬を震わせたが、目を閉じた。

 二人の影が重なった。


 エリヒトーは初々しい恋人たちの様子を遠くから見ていた。

 メフィストフェレスが認めたとは言え、バウボの乱行は目に余る。図書室で朝霧が自力で危機を脱せられないようであれば、介入しようとさえエリヒトーは考えていた。エリヒトーはバウボの行動に腹を立て、そして、朝霧と伽耶の口づけに胸を痛めた。

 胸を痛めた。

 魔女である、この自分が。

 たかだか十数年しか生きていない少年の為に。

 それはエリヒトーには許容し難いことだった。



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