世界の救済
その昔、わたしの曇った眼の前に現れ出た
朧な姿が、今また揺らめき近づいてくる。
こんどは君らをしっかりとつかまえてみよう。
わたしの心は今なお君ら幻の姿に惹かれている。
(ゲーテ『ファウスト』高橋義孝訳より)
白蝶貝とペンシェル(貝)を使った、白黒のチェス盤みたいな模様の柄がついた虫眼鏡で、朝霧は塩化アンモン石を見ていた。顕微鏡もあるが、この虫眼鏡を使ったほうが、より雰囲気が出る。塩化アンモン石は塩素とアンモニウムが化合して樹枝状を形成した鉱物である。手に取ると極めて軽いことがわかる。
鉱物や樹脂、硝子の蒐集、アンティーク、ヴィンテージの美品の蒐集は朝霧の趣味だった。朝霧とは苗字ではなく、歴とした名前である。苗字は高遠と言う。部屋の中には調度品と収集物の諸々が、それなりの秩序を保ちつつ納まるべき場所に納まっている。
「なあ、朝霧。石と会話して楽しいか?」
「ちょっと黙っててよ、メフィストフェレス」
「傍で見てたら不気味。お前、モテないだろう」
朝霧は虫眼鏡と塩化アンモン石を置くと、今は黒衣の青年の姿を取っているメフィストフェレスに向き直った。これで時々、突拍子もなく原色継ぎはぎの服を着て、朝霧を驚かせることもあるのだ。
「バレンタインで女子に本命チョコを両手の指に余る程、貰った僕が?」
「一々憶えてるとこが嫌味だし、やっぱ不気味」
朝霧の顔立ちは整っている。どこか整い過ぎて怖いと評されたことさえある。
悪魔みたい、悪口すれすれのそんな言葉を呟いたのは誰だったか。
実際の悪魔であるメフィストフェレスも、美形だ。本人が望む形を取れるのだから、それは美形にもなるだろう。時々、彼は黒猫になる。それもしなやかな美猫だ。黒繻子の艶が殊更、映える。犬にはならないのかと朝霧が訊いたら、ファウストの時に懲りたと言った。
白く揺蕩う夢の中、ある日彼は現れた。
お前の望みを叶えよう。お前の魂と引き換えに。
そして朝霧は望みを口にした。
世界の救済を、と。
メフィストは嗤った。
彼の強欲なファウストでさえ、そんな野放図な戯言は言わなかった。
すると朝霧は少し考え込む素振りを見せた。
そして彼は望んだ。
ある少女の世界の救済を、と。
メフィストフェレスはまた嗤ったが、その時は請け負った。
美品にしか執着しない朝霧が幸福を願う少女。その存在がメフィストフェレスには興味深かった。一度見たことはあるが痩せて貧相なただの小娘にしか見えなかった。あれでは朝霧とは釣り合うまいと。だが朝霧は釣り合いという狭隘な事柄には頓着しなかった。朝霧の蒐集家の目は、彼女の真価を見抜いていた。
今度はトルコ石の緑色版といったバリッシャー石を手に取りながら、朝霧は言う。
「綺麗だよ、彼女は」
「朝霧、その台詞、〝とまれ、お前は本当に美しい〟にアレンジして」
「アレンジじゃないし、嫌だよ。それ言ったら魂盗られるのはファウストだろう?」
「……キャラメルをくれよ。塩キャラメルを」
「はいはい」
朝霧は常備してある箱入りの塩キャラメルをメフィストフェレスに渡してやった。メフィストフェレスは、甘さと塩気が絶妙に絡み合うこの菓子の虜になっていた。天鵞絨張りの分厚い本を開く朝霧を眺めながら、くちゃくちゃと音を立てて咀嚼する。朝霧は無関心だが、やはり音が煩いのか、部屋の書棚の横、CDプレーヤーなどが納まるボックスの上にあるターンテーブルにレコードを乗せた。
ブラームスの子守唄が流れる。
柔らかに夜を包む。朝霧が欠伸するのを見ると、メフィストフェレスも頃合いかと猫の姿に変化する。その姿で部屋の隅、精緻な刺繍の施された絹のクッションに丸くなるのだ。
「この部屋に居座る必要もないんじゃないか」
「訪問の度に入る許可を三度も得るなんて面倒なんだよ」
「無精な悪魔だ」
「悪魔だからな」
朝霧もレコードを仕舞い、ベッドの中に潜り込む。早春の花冷えでやや寒い。白麻のシーツに覆われた羽根布団は軽くて暖かく、夜更かしも手伝い朝霧はすぐにとろりと眠くなった。目を瞑る前の部屋はラピスラズリの深い青に見えた。
夢の中で彼女が泣いていた。
真珠色の頬に真珠の涙がこぼれていた。
これは過去の再現。
あの日、偶然に通りかかった道で彼女を見た。彼女の前には息絶えた仔猫たちが入った段ボール箱があった。朝霧は彼女に声を掛け、動物の死体を引き取る機関を調べ、仔猫たちを見送った。その作業の間、ぽつぽつと話をした。彼女の親は既に亡くなっていて、親戚の援助で一人暮らししているとのこと。高校生で自活している彼女が、朝霧にはとても大人に見えた。
高遠君はこの近くなの?
そう尋ねた彼女の頬が溶けて、白い液体と化し、花が咲いた。
あたりを埋める白い花の群れ。空の青に抵抗するように。
空の青が弾けて飛んだ。小さな爆発が白い花園を乱してしまった。
高遠君はこの近くなの?
リフレイン。
彼女の、いつも長く手の甲まで伸ばしている袖から、ちらりと青痣が垣間見えた。
朝霧は全てを了解した。
彼女はDVを受けている。恐らくは、親戚に。親に庇護され何不自由なく暮らす朝霧を、羨んでいた。ほんの少し、憎しみもあったかもしれない。
朝霧は生まれて初めて恋に落ちた。
落雷のような衝撃だった。
だからメフィストフェレスとの取り引きに応じた。
彼女の世界の救済をと望み。
たった一人の世界でも。
救われることがどれ程に困難なことか、朝霧はよく知っている。
参考文献『ファウスト』ゲーテ、高橋義孝訳、新潮文庫
『楽しい鉱物図鑑』堀秀道、草志社