Extra お姉ちゃんと妹「会いたいな」
エイコが居なくなる……その事を知った時、私の心に大きな穴が空いてしまった。
その穴には冬の冷たい風が吹き通り、キンと染みる歯のように私の心を痛めつけた。
二十代の後半になるというに、大人げない私は小さなエイコの身体を思い切り抱きしめ「私が面倒見るから行かないで」と叫んでしまった。
エイコを失いたくない私が放った、人生初となる、心の叫びであった。
しかし血縁では無い私のそんな我儘が通る訳もなく、エイコは北海道を離れ、父親の実家がある埼玉へと引っ越してしまった。
「毎日電話してっ! 絶対にっ!」
「当たり前だよぉっ」
「私の事忘れないように、北海道のものいっぱい送るからっ!」
「忘れないよぉっ」
エイコが泣き、私も泣きながら交わした会話は、今でも鮮明に思い出せる。
思い出して、私が働いている美容院の前で飾ってあるエイコの可愛い写真を眺めて、涙を堪える日々だ。
いずれ別れがくるなんて事、分かっていた筈なのだが、フェードアウトでは無い「明確な別れ」というものがこんなにも辛い事だったなんて、思っていなかった。
自身の肉体が引きちぎれても、これほどの喪失感は生まれないのでは無いかと思えるほどの、喪失感。エイコの頭を撫でたい。髪をとかしたい。そういった欲求が、私の持つ三大欲求よりも強く作用している。
私はどうやら、エイコ依存症だったようだ。
エイコが父親の実家がある埼玉へと旅立って数ヶ月。エイコが居ないという現実に少しは慣れてきた私のもとに、エイコからの着信が舞い込んでくる。
私は元気よく「もちもちぃー? こちらお姉ちゃんですけどもぉー」と、訳の分からないテンションで電話に出た。するとエイコは「ぷっ」と含み笑いで応えてくれる。
あぁ、この声が愛しい。この声を間近で聞きたい……瞬時に湧き出るエイコへの愛情が、歯がゆい。
何故エイコはたった今、目の前に居ないのか。目の前に居れば思い切り頭を撫で、髪の毛をとかし、毛先を整えトリートメントまでしてあげるというのに。
「はいはい、おねーちゃん。今日も元気ですねー」
エイコの少し冷たいと感じさせる、いつもの声が聞こえてきて、私は安心する。
エイコはこれでいい。エイコは私に対してだけ、この冷たい面をさらけ出してくれる。それがとても、とても、嬉しい。
私がマゾだから。とかじゃなくて、エイコが安心して接してくれているという証のように、思えるから。
「昼と夜の二重生活にはもう慣れた? 疲れてない?」
「んー……二重生活はそんなに苦じゃないよ。それよりも同級生と客がねー。特に客がさぁ、無遠慮なんだよ。なんであんなに無遠慮なの? なんで僕の名前呼び捨てにするの? なんで命令口調なの? なんで後ろついて回るのっ? 訳が分からないんだよー……かといって飲食店のバイトは時間が合わないしさぁ……十六歳の僕にはコンビニか飲食店しかないし……僕にどうしろってゆーのかっ!」
ちょっと蛇口をひねると、出るわ出るわ、愚痴の滝。
これも私にしか見せない面。それが嬉しい。むしろエイコの愚痴が聞けて、幸せを感じている。
もっと。もっとちょうだい。なんでもいいからエイコの事をもっと教えて。なんて、変態染みた言葉が思い浮かぶ。
「早く北海道帰って来れたらいいのにねぇ?」
エイコの夢は、今のうちにお金を貯めながら高校に通い、成人した頃に北海道へと戻ってきて、私と一緒に暮らしながら美容師の専門学校へと通い、私と同じ職場に就職する事だ。
音楽に対する情熱は健在で今でも熱心にギターの練習をしているらしいが、それを職にするとなると難しいと判断したエイコは、現実的で堅実な、エイコらしい夢を抱いている。
私も、その時の事を心待ちにしている。
「あー……うーん」
歯切れの悪いエイコの言葉に、私の胸が激しい痛みを感じる。
心に空いた穴に指を突っ込み、無理矢理広げてそこにわさびを塗り込んでいるかのような感覚。
……わかりにくいけど、そんな感覚。
「……えっ? うーんって。エイコちゃーん、冗談きついぜー」
私は胸の痛みに耐えながら、努めて明るい声でエイコにツッコミを入れる。
埼玉には僕の居場所が無いと、言っていたではないか……ここには間違いなく在るというのに「うーん」なんて、冗談でも言って欲しくない。
「んー……北海道には、帰りたいよ? カヨネェに会いたいって、凄く思ってる。だけどね」
だけど……その一言が、ものすごく辛い。
エイコの発する「だけど」というたったの一言が、それまでの「北海道に帰りたい」「カヨネェに会いたい」という言葉を差し引いてもマイナスな効果を、私に与える。
「居場所が見つかったっていうか……一緒に居て安心する人が出来たっていうか。それをね、カヨネェに相談したかったの」
あぁ……頭が真っ白に。
真っ白になっていくのを、感じる。スマホを握る手が震えている。
「その人ねー、若いのにすっごく落ち着いた雰囲気の人でね、寂しそうな目をしてるんだ……高校中退してて、妹の学費のために昼も夜も働いてるんだって。僕なんかよりずっと拘束時間が長いんだよ。いつ寝てるんだって思うくらい、頑張ってる」
「へ……へぇ」
……エイコの声が、恋する十六歳の声そのものになっている。そして、その声で説明させられたその人の特徴が、それはもう見事にエイコのツボを押さえている。
エイコは不幸で、それでも頑張っている人が、凄く好きだ。エイコの初恋相手も不幸な人生を歩みつつも頑張っている人だった。
エイコは自分のように不幸であれば、痛みを分かって貰えると、思っているのだろう。
胸が、痛む。まるでエイコを失った時の再来のように痛む。
「見た目は、着飾らないお兄さんって感じ。どちらかと言うと女顔かなぁ。笑顔らしい笑顔を見た事ないけど、笑ったら可愛いと思う」
「そっか……」
「その人の事、凄く気になるんだ」
「う……うん」
「恋かなぁって、思うんだ」
「うぐふぉーっ!」
私は思わず大きな声で奇声を発した。
「ここここっ……恋したのっ? エイコが? マジでっ?」
「……そんな驚く事? 僕だって年頃の女子だよ」
「いやだって! お母さんみたいになりたくないって言ってたから、もっと慎重に人を選ぶのかと思ってた! そもそも人嫌いじゃんっ! 特に男!」
「恋としても、その人に告白するつもりないよ。ただ、こっちに居るウチは、居心地いいから側に居たいってだけで」
エイコの口調が強くなっていくのを感じた。まさか私に反論されるなんて、思っていなかったのだろう。
私だって、本来なら喜びたい。応援したい……エイコが幸せでいられるのなら、どんな人と付き合っても意見はしない。貧乏だろうと不細工だろうと、それがエイコのベストなんだろうと、受け入れるつもりだった。だけど、北海道に帰って来なくなる可能性がわずかでも湧いてきた以上、心中穏やかではいられないのが本音だ。
エイコと生涯、会えない……そんな風に思うと、身震いする。涙が溢れてくる。
埼玉で幸せになり、結婚して家庭を持ち、私との記憶が薄れていき、いずれ忘れられる……あの、可愛らしくて私にだけ懐いていた、エイコに、忘れられる。
エイコに。
嫌だ……嫌だ……。
「でも……そっちで幸せになったら……エイコ帰ってこないかも、知れないから……」
「……佳代ねぇ、僕が人を好きになるの、嫌だった? 佳代ねぇなら、喜んでくれると、思ってたけど」
エイコはとてもか細い声でそう言った。その声の印象は「残念」というもの。
私はエイコに、落胆させてしまっている……。
「……嫌じゃないけど」
「僕、人としては、佳代ねぇが一番好きだよ。それはずっとずっと、死ぬまで変わらないと思う。あの日佳代ねぇが僕に与えてくれたモノは、今でも色褪せないまま、僕の中に残ってる。人に嫌な事されても、刺されても、恨むように心が真っ黒になっても。僕の中に、残ってるよ」
エイコの言葉に、私の胸が再び痛むのを感じた。
心が熱を持ち、その熱が全身に回り、いつしか脳に到達して、涙腺を緩ませる。
「誰を好きになっても、愛しても。佳代ねぇの事は忘れない……必ず佳代ねぇの元に帰るから。世界一のお姉ちゃんなんだから、僕だって佳代ねぇの側に居たいよ」
私は「ブッ」という音と共に鼻水を吹き出し、情けない声で「はぐぅっ」という声を漏らした。
「……鼻水、出したでしょ?」
畜生バレてる。
「……出してないよぉー」
「ううん、出したでしょ? 僕に嘘つくの?」
「……出したんじゃなくて、出ちゃったんだよぉー」
エイコは私の笑い方を真似した「ふはははは!」という声で、笑った。
数年間、真似し続けた結果、今ではすっかりエイコのものとなっている。
そう。エイコは私を、色々な面でリスペクトしてくれている。
髪の毛の洗い方、手入れの仕方、後頭部をポンポンと二回叩く所、微笑み、笑い方。他にもファッションや歩き方なんかも、私から学んでいる。
それに、埼玉に引っ越ししてから数ヶ月、毎日欠かす事なく電話をしてきてくれている。それくらい、エイコは私の事を好きなんだ。
だったら、エイコを信じよう……私の事を忘れるなんて事、ある訳が無いと、思おう。
「ひどぉいーっ……エイコの言葉に感動して泣いちゃって、拍子に鼻水出ちゃったのにぃーっ」
「ふははははっ! 佳代ねぇ可愛いっ! 大好きだよーっ!」
「私もエイコ大好きぃーっ」
会いたいな。エイコ。